アッサラーム夜想曲

第3部:アッサラームの獅子 - 19 -

「宮殿に伝わっているのなら、すぐにここへくるのでは?」

 訝しんで問うと、ヴァレンティーンは薄笑いを浮かべた。

「私は殿下を私邸にお招きしているのです。無粋な真似はご遠慮願いたい。客人としていらっしゃるのならば、歓迎いたしますが……もし、武力で乗りこむようであれば、我がヘルベルト家に仇なす行為とみなし、相応の歓待をさせていただくつもりです」

「……剣を交えると?」

「ええ」

「どうして……同じアッサラームの、同胞では」

 愕然と呟く光希を、男は冷ややかな双眸に映す。

「シャイターンの御子は、大きくなり過ぎました。執政も判らぬ、虚ろな子供にくれてやる程、私の財は軽くないのです」

 そういえば、聖戦に莫大な軍事費を要したと訊いている。国庫で賄えず、有力者から徴収しているとも――彼も搾取された一人なのだろうか?

「……聖戦で、徴収されたのですか?」

「聖戦。確かに、あの戦いで私財を失くした者は多い。ですが、我がヘルベルト家は凋落ちょうらくとは無縁にございます。一国築ける富に一片の傷なし! 聖戦に関しては、よく乗り切ったと褒めざるをえないでしょう」

「では、どうして」

「シャイターンは、軍略においては天賦てんぷの才に恵まれても、理財の才は乏しい。軍事資金を湯水と勘違いなさっている。性質たちの悪いことに神剣闘士アンカラクスという大層な身分をお持ちだ。このままでは、栄えあるアッサラームの国庫は空になる」

「……貴方の言葉が正しいのかどうか、僕には判りません。けれど、僕を誘拐したことは只の罪でしょう。いろいろな人に迷惑を掛けています。僕を解放してください」

「まぁ、そうおっしゃらずに。きたばかりではありませんか」

「僕を解放する、条件は何ですか?」

「さぁ……? 条件があると思いますか?」

「……金?」

 男は鼻で嗤った。

「富なら十分ございますよ」

「さっき、財を失くしたくないと、いっていたから――」

 男は光希の言葉を遮るように、杖の底で床を叩いた。

「誤解なさらず。貿易商で栄えた血筋です。益があれば、投資は惜しみません。高みを目指して、全財産を懸けたことすらある。先程は、犬にくれてやる金はない、そう申し上げたのです」

 不遜な物言いに、光希は盛大に眉をひそめた。

「……シャイターンを、犬だと?」

「事実、花嫁ロザインを得るまでは、アースレイヤ皇太子の犬でしたよ。そのまま従順に、使われていれば良かったものを……凱旋した途端に張り切り出して鬱陶しいこと。一度訊ねてみたかったのですが、どのようにシャイターンを手懐けたのですか?」

「手懐けるだなんて……」

 怯んだ光希を見て、男は辛辣な微笑を浮かべた。

「新しい飼い主は貴方だ。無垢な涙で、意のままに操っているのでしょう。それは貴方のお心? それとも天の神意なのですか?」

「誤解です!」

「しかし、神事も慣例も無視して、勝手に公宮を解散なさった。揚句、花嫁をクロガネ隊に入れる破天荒ぶり」

 痛いところを突かれて、光希は唇を引き結んだ。ジュリアスに頼って、好き勝手に振る舞っている自覚はある。
 本来は公宮を纏める立場にありながら、リビライラに任せっきりで、自分はクロガネ隊で好きなことをしているのだ。

「殿下、私はアルサーガ宮殿の全権を掌握したいのです。莫大な財を撒いて買収してきたのに、今更、神剣闘士に前を歩かれては目障りなのですよ」

「全権……? 陛下の臣下でしょう……?」

「もちろんです。今は、陛下の御代を支える一家臣にございます。しかしあと五年も経てば、皇太子の御子息は成人を迎えられる。そうすれば、近く帝位継承が行われるでしょう。アースレイヤ皇帝陛下誕生の時、摂政の座に就くのは我がヘルベルト家です」

 アデイルバッハ・ダガー・イスハーク皇帝の全兄弟、そしてアースレイヤ皇太子の上二人の兄弟は、皇位継承争いに巻き込まれて亡くなったと訊いている。
 幼いアースレイヤ皇太子を成人するまで擁護したのが、ヴァレンティーン・ヘルベルトだ。
 アッサラームでは、どんなに富を持っていても、貴人では「皇族」そして「賢者」の上に立つことは出来ない。
 だから彼は、アースレイヤ皇太子と癒着して、権力を得たいのであろう。
 アースレイヤ皇太子の後ろ盾があるから、光希を誘拐しても余裕の態度でいられるのか。
 ということは、今回の誘拐にアースレイヤ皇太子も噛んでいるのだろうか?

「……もしかして、アースレイヤ皇太子に指示されたのですか?」

「いいえ。再三申し上げたのですが、訊き入れてくださらないので、こうして自ら動くことにいたしました。どうも凱旋してから、あの方も訊き分けが悪くなった。事情をご存知ではありませんか?」

 光希に訊かれても困る。

「意外と信心深い方ですから、花嫁に嘘はつかないはずですよ」

「そうでしょうか……」

「アースレイヤ皇太子もまた、執政において天賦の才に恵まれている。聖戦では震撼する宮殿を見事に御した。しかし、惜しむべくは爪が甘い。シャイターンの神剣闘士昇格を阻止していれば、今も陛下に次ぐ権威を謳歌出来たものを」

 言外にジュリアスを殺しておけば良かったと仄めかされ、光希は背筋をふるわせた。

「貴方は、僕に何をさせたいのですか?」

「最初に申し上げた通り、腹いせです。傲然ごうぜんたるシャイターン、神剣闘士の威を借りる軍人共。次期皇帝陛下を冠する私との威光の差を、見せつけてやろうと思ったまで」

「大罪を犯しても、許される身だと?」

 ヴァレンティーンは眼を細めた。

「……嬉しい誤算は、花嫁が思いのほか魅力的なことでしょうか。やんちゃした甲斐がありました。手元に置くのも悪くない」

 獲物を見るような眼で見つめられた。身体が仰け反りそうになるのを、意志の力で堪える。

「或いは、今後いつでも私の呼びかけに応じ、花嫁の口からシャイターンに囁いてくださるのなら、誰も傷つけずに貴方を解放しても良い。いかがいたしますか?」

 碌でもない提案に、光希は小さく唸り声を発した。どちらもご免だ。