アッサラーム夜想曲
第3部:アッサラームの獅子 - 18 -
「まぁ諸々……腹いせです。花嫁 、貴方は大切な人質ですから、丁重にもてなすとお約束いたしましょう」
腹いせ……? 増々訳が判らない。
「……僕を誘拐した罪は、決して軽くないはずです」
「シャイターンの貴方への寵愛が本物であることは、よく存じ上げております。さぞお怒りになるでしょう……ですが、私はもう既に、腸 が煮えくり返るほど、腹を立てておりますから」
男は口元に嘲笑を刻んだ。冬の湖水を思わせる双眸に射抜かれ、光希の肩は震える。
「……誰に?」
「誰だと思いますか?」
「……シャイターン?」
「当たらずも遠からず。青い星の御使い、貴方もシャイターンの信奉者ですか?」
「もちろんです。きっと助けにきてくれると、信じています」
即答すると、男は鷹揚 に笑んだ。
「そうですねぇ。いつまでも居てくださって構わないのですが」
「お断わります」
真顔で拒否すると、ヴァレンティーンは楽しそうに笑った。
「あの……僕と一緒にいた兵士は、どうなりましたか?」
「あぁ、サリヴァンの御子息でしたかな? 始末したと訊いておりますよ」
視界が真っ暗になった。
嘘だ――機能を停止した思考回路に“始末した”という言葉が重石のように沈み込んでいく。
俄かには信じ難い。
サンマール広場で笑いながら、歩いていたではないか。串焼きにサンドイッチを頬張って、露店を眺め……記念にと、スタンプシートをもらったのだ。
訊き違えたのかもしれない。縋るようにヴァレンティーンを見ると、希望を打ち砕くかのように、ゆっくりと首を左右に振った。
「嫌だ……そんな……ユニヴァース……」
声は潤みかけた。震える手で口を押える。そうでもしないと、喚き散らしてしまいそうだった。
「そんなにお悲しみになるのなら、どうして護衛も連れずに、宮殿を飛び出したのですか?」
「――!」
言葉の刃が、ぐさりと胸に突き刺さる。本当に、血が流れた気がした。
悔悟 の念が胸の内に渦巻く。
認めたくないが、この男のいう通りだ。どうして勝手に、抜け出してしまったのだろう?
光希のせいでユニヴァースは死んだ。
彼一人なら、いくらでも逃げ切れたはずだ。あの時、光希がもっと速く走れたら! 剣を振るうことができたら――!
ぼろぼろと涙が零れて、手に落ちる。もう気丈でなんていられない。
「……っふ……ぅッ」
「お優しいですね、花嫁……泣くほどお辛いですか?」
返事をする気力もなく、光希はただ背を震わせた。
「勘違いされているようですが、私は、彼が死んだとはいっておりませんよ」
「ッ!?」
どういうことだ? 勢いよく振り向いた光希は、探るような眼でヴァレンティーンを見た。男は愉快そうに眼を細めた。
「濡れた瞳もまた美しい」
「生きてるの?」
「さぁ? どう思われますか?」
光希の眼が据わった。
「悋気された瞳もまた……」
「答えろ」
「御意。馬は始末したが、彼には逃げられたと訊いております。運がいいこと」
逃げられた? ということは、生きているのか?
この男は、光希が勘違いしていることを知りながら、絶望する様を見て嗤っていたのか?
腸が煮えくり返るとは、こういうことか――気付けば杯を手に取り、男に向かって放っていた。
ガシャンッ!
硝子は鉄柵にあたり砕け散った。欠けた破片で怪我の一つもすれば良かったものを、男は愉快そうに哄笑 している。悪趣味にもほどがある。
しかし、燃えるような怒りの次には、深い安堵が訪れた。生きていてくれた……
「……僕がもし、宮殿の外に出なければ、誘拐はしなかった?」
「そうですね。今日はしなかったでしょう」
「僕を誘拐したこと……誰にも伝えていないのですか?」
「いいえ、とうに宮殿に知らせましたよ」
少しも顔色を変えずに嘯 く。
薄気味の悪さに、光希は無意識に後じさった。この男の余裕は、どこからきているのだろう?
腹いせ……? 増々訳が判らない。
「……僕を誘拐した罪は、決して軽くないはずです」
「シャイターンの貴方への寵愛が本物であることは、よく存じ上げております。さぞお怒りになるでしょう……ですが、私はもう既に、
男は口元に嘲笑を刻んだ。冬の湖水を思わせる双眸に射抜かれ、光希の肩は震える。
「……誰に?」
「誰だと思いますか?」
「……シャイターン?」
「当たらずも遠からず。青い星の御使い、貴方もシャイターンの信奉者ですか?」
「もちろんです。きっと助けにきてくれると、信じています」
即答すると、男は
「そうですねぇ。いつまでも居てくださって構わないのですが」
「お断わります」
真顔で拒否すると、ヴァレンティーンは楽しそうに笑った。
「あの……僕と一緒にいた兵士は、どうなりましたか?」
「あぁ、サリヴァンの御子息でしたかな? 始末したと訊いておりますよ」
視界が真っ暗になった。
嘘だ――機能を停止した思考回路に“始末した”という言葉が重石のように沈み込んでいく。
俄かには信じ難い。
サンマール広場で笑いながら、歩いていたではないか。串焼きにサンドイッチを頬張って、露店を眺め……記念にと、スタンプシートをもらったのだ。
訊き違えたのかもしれない。縋るようにヴァレンティーンを見ると、希望を打ち砕くかのように、ゆっくりと首を左右に振った。
「嫌だ……そんな……ユニヴァース……」
声は潤みかけた。震える手で口を押える。そうでもしないと、喚き散らしてしまいそうだった。
「そんなにお悲しみになるのなら、どうして護衛も連れずに、宮殿を飛び出したのですか?」
「――!」
言葉の刃が、ぐさりと胸に突き刺さる。本当に、血が流れた気がした。
認めたくないが、この男のいう通りだ。どうして勝手に、抜け出してしまったのだろう?
光希のせいでユニヴァースは死んだ。
彼一人なら、いくらでも逃げ切れたはずだ。あの時、光希がもっと速く走れたら! 剣を振るうことができたら――!
ぼろぼろと涙が零れて、手に落ちる。もう気丈でなんていられない。
「……っふ……ぅッ」
「お優しいですね、花嫁……泣くほどお辛いですか?」
返事をする気力もなく、光希はただ背を震わせた。
「勘違いされているようですが、私は、彼が死んだとはいっておりませんよ」
「ッ!?」
どういうことだ? 勢いよく振り向いた光希は、探るような眼でヴァレンティーンを見た。男は愉快そうに眼を細めた。
「濡れた瞳もまた美しい」
「生きてるの?」
「さぁ? どう思われますか?」
光希の眼が据わった。
「悋気された瞳もまた……」
「答えろ」
「御意。馬は始末したが、彼には逃げられたと訊いております。運がいいこと」
逃げられた? ということは、生きているのか?
この男は、光希が勘違いしていることを知りながら、絶望する様を見て嗤っていたのか?
腸が煮えくり返るとは、こういうことか――気付けば杯を手に取り、男に向かって放っていた。
ガシャンッ!
硝子は鉄柵にあたり砕け散った。欠けた破片で怪我の一つもすれば良かったものを、男は愉快そうに
しかし、燃えるような怒りの次には、深い安堵が訪れた。生きていてくれた……
「……僕がもし、宮殿の外に出なければ、誘拐はしなかった?」
「そうですね。今日はしなかったでしょう」
「僕を誘拐したこと……誰にも伝えていないのですか?」
「いいえ、とうに宮殿に知らせましたよ」
少しも顔色を変えずに
薄気味の悪さに、光希は無意識に後じさった。この男の余裕は、どこからきているのだろう?