アッサラーム夜想曲
第3部:アッサラームの獅子 - 17 -
ようやく荷台から降ろされたと思ったら、ひんやりとした石床の上に乱暴に降ろされた。縛られている為、受け身を取れず頭をしたたかに打ちつける。
『……いったぁ』
「乱暴はよしなさい」
低い、落ち着いた声が聞こえた。コツコツと石床を鳴らして足音は近づいてくる。
麻袋の上から巻かれた戒めが解かれると、滞った血は急速に駆け巡り、身体はふわっと軽くなる。次いで麻袋を破かれた。
ようやく顔を外に出せて、清涼な空気を胸一杯に吸いこんだ。
光希のすぐ傍には、武装した男が十数人。彼等の中心には、身なりの良い四十歳前後の紳士が立っていた。どの顔にも見覚えは無い。
ここは、かなり豪華なお屋敷のようだ。
広い玄関ホール。精緻なアラベスクの壁面。艶やかな天然石を敷き詰めたチェス柄の床。品の良い調度品。天上から吊るされた円環の燭立て……室内には上品な香が焚かれている。
「手荒な真似をして申し訳ありません」
男は光希と目が合うと、意外にも謝罪を口にした。訳が判らない……こんなことをしておいて、なぜ今更謝るのだろう。
「誰か。湯まで案内を」
呼びかけに応じて、体格の良い召使が姿を見せた。光希の身体を起こそうと手を伸ばしてくる。気力を振り絞って振り払った。
自力で起き上がろうとした途端、膝が笑う。仕方なく人の手を借りて起き上がると、精一杯男を睨みあげた。
「僕を傷つけたら、シャイターンは絶対に貴方を許さないでしょう」
「そう噛みつかれずとも、花嫁 を傷つけるつもりはございません。着替えを用意いたしましょう、酷く汚れていらっしゃる」
「ッ――」
光希の眼が据わった。勁烈 な眼差しで睨んだが、男は歯牙にもかけず、さあさあ、と手を鳴らして召使を急かした。
体格の良い召使に囲まれて、浴室に連れていかれた。直ぐ後ろには武装した男達もついてくる。
浴室に入ると、素早く服を脱がされ、両手、両足を鎖に繋がられた。
この状態でどうやって身体を洗えと? ……最悪なことに、髪も身体も召使に洗われた。ここがどこか訊ねても、応えてはくれない。
縄できつく締めつけられた腹周りは、予想通り鬱血している。明日には変色して痣に変わるだろう。他にも細かい擦り傷があり、湯や石鹸が触れる度に、痛みをもたらした。
湯から上がると、手の鎖だけ外されて、召使に女性物の白い衣装を着せられた。
一枚の布を交互に巻きつけて、腰で結ぶ簡単な構造だ。
下着は履かされていない。落ち着かないが、文句をいえる立場ではない。ひとまず身綺麗になり、痛めつけられた心は僅かに潤った。
着替え終えると、再び手首を鎖に繋がれる。武装した男の一人に横抱きで持ち上げられそうになり、慌てて逃げた。
「歩けます! 逃げないから、鎖を外して下さい」
両腕を前に突き出して訴えたが、主張は無視された。男は問答無用で光希を横抱きで持ち上げる。そのまま薄暗い螺旋階段を降りて、雅な地下空間に連れていかれた。
天上から吊るされた照明や、床に置かれた硝子照明に照らされて、地下とは思えない程明るい。
横に広い空間には、多種多様な骨董品や観葉植物が並べられていた。
そして天井から、幾つも金細工の鳥籠が吊るされている。空籠もあれば、色鮮やかな鳥が入っている籠もある。
異質な空間に、ヒュロロ……と鈴の音のような小鳥の囀りが響いている。
部屋の右奥に、壁と鉄柵に囲まれた牢があり、光希はその中に押しこめられた。
外観は牢そのものだが、中は手触りの良い絨緞が敷かれ、美しい衝立や寝台、調度品が置かれている。
武装した男は光希の手足から枷を外すと、硬質な音を立てて鋼の扉を閉めた。頑丈そうな三つの鍵で施錠すると、背を向けて仁王立ちの姿勢を取る。
「ここは、どこなんですか?」
光希は鉄柵に寄ると、背中に声をかけた。
「ここは、私の私邸の一つですよ」
思わぬところから返事が聞こえて、光希は顔をあげた。靴音を響かせながら、男は檻の前までやってくる。鉄柵を挟んで対峙すると、男は興味深そうに顔を寄せて、光希の瞳を覗きこんだ。
「本当に黒い髪、黒い瞳なんですねぇ。肌も何と白いことか。部下が手荒な真似をして、申し訳ありません。珠のような肌に傷がついたら大変だ……後で見てさしあげましょう」
いろいろな欲の浮いた眼差しであった。薄気味悪くて、光希は逃げるように鉄柵から身体を離した。
「貴方は、誰なのですか?」
声は無様に震えた。
「これは失礼。私はヴァレンティーン・ヘルベルトと申します、殿下」
名前だけは訊いたことがある。
アルサーガ宮殿の理財を取り仕切る、大変な有力者だ。巨万の富を抱える貴人で、確かアースレイヤ皇太子派だとも……
光希の表情を見て、ヴァレンティーンは満足そうに微笑んだ。
「祝賀会や婚礼にご招待していただきましたが、こうして言葉を交わすのは初めてですね。さあ、どうぞ掛けて。楽な姿勢でお寛ぎください」
主の言葉に、召使達は数人がかりで、優美な曲線を描く天鵞絨 の椅子を檻の前に運んだ。
腰を据えて会話する気があるらしい。
光希は戸惑いながら、その場に腰を下ろした。痛めた腹周りに圧がかかり顔をしかめていると、その様子に気付いたヴァレンティーンは、周囲に命じて光希にも椅子を用意させた。
三人の召使が檻の中に入ってきて、壁際に置いてある豪華な肘掛椅子を光希の傍に置いた。恭しい手つきだが、有無を言わさず光希を座らせる。
更に猫脚のコーヒーテーブルを光希の傍に寄せて、水や果実酒を注いだ杯を置いた。思わず喉は鳴ったが、手をつける気にはなれない。
「喉が渇いたでしょう? 毒なぞ入っておりません。さあ、どうぞ」
「どうしてこんなことを……」
非難の眼を向けると、ヴァレンティーンは愉快そうに眼を細めた。
『……いったぁ』
「乱暴はよしなさい」
低い、落ち着いた声が聞こえた。コツコツと石床を鳴らして足音は近づいてくる。
麻袋の上から巻かれた戒めが解かれると、滞った血は急速に駆け巡り、身体はふわっと軽くなる。次いで麻袋を破かれた。
ようやく顔を外に出せて、清涼な空気を胸一杯に吸いこんだ。
光希のすぐ傍には、武装した男が十数人。彼等の中心には、身なりの良い四十歳前後の紳士が立っていた。どの顔にも見覚えは無い。
ここは、かなり豪華なお屋敷のようだ。
広い玄関ホール。精緻なアラベスクの壁面。艶やかな天然石を敷き詰めたチェス柄の床。品の良い調度品。天上から吊るされた円環の燭立て……室内には上品な香が焚かれている。
「手荒な真似をして申し訳ありません」
男は光希と目が合うと、意外にも謝罪を口にした。訳が判らない……こんなことをしておいて、なぜ今更謝るのだろう。
「誰か。湯まで案内を」
呼びかけに応じて、体格の良い召使が姿を見せた。光希の身体を起こそうと手を伸ばしてくる。気力を振り絞って振り払った。
自力で起き上がろうとした途端、膝が笑う。仕方なく人の手を借りて起き上がると、精一杯男を睨みあげた。
「僕を傷つけたら、シャイターンは絶対に貴方を許さないでしょう」
「そう噛みつかれずとも、
「ッ――」
光希の眼が据わった。
体格の良い召使に囲まれて、浴室に連れていかれた。直ぐ後ろには武装した男達もついてくる。
浴室に入ると、素早く服を脱がされ、両手、両足を鎖に繋がられた。
この状態でどうやって身体を洗えと? ……最悪なことに、髪も身体も召使に洗われた。ここがどこか訊ねても、応えてはくれない。
縄できつく締めつけられた腹周りは、予想通り鬱血している。明日には変色して痣に変わるだろう。他にも細かい擦り傷があり、湯や石鹸が触れる度に、痛みをもたらした。
湯から上がると、手の鎖だけ外されて、召使に女性物の白い衣装を着せられた。
一枚の布を交互に巻きつけて、腰で結ぶ簡単な構造だ。
下着は履かされていない。落ち着かないが、文句をいえる立場ではない。ひとまず身綺麗になり、痛めつけられた心は僅かに潤った。
着替え終えると、再び手首を鎖に繋がれる。武装した男の一人に横抱きで持ち上げられそうになり、慌てて逃げた。
「歩けます! 逃げないから、鎖を外して下さい」
両腕を前に突き出して訴えたが、主張は無視された。男は問答無用で光希を横抱きで持ち上げる。そのまま薄暗い螺旋階段を降りて、雅な地下空間に連れていかれた。
天上から吊るされた照明や、床に置かれた硝子照明に照らされて、地下とは思えない程明るい。
横に広い空間には、多種多様な骨董品や観葉植物が並べられていた。
そして天井から、幾つも金細工の鳥籠が吊るされている。空籠もあれば、色鮮やかな鳥が入っている籠もある。
異質な空間に、ヒュロロ……と鈴の音のような小鳥の囀りが響いている。
部屋の右奥に、壁と鉄柵に囲まれた牢があり、光希はその中に押しこめられた。
外観は牢そのものだが、中は手触りの良い絨緞が敷かれ、美しい衝立や寝台、調度品が置かれている。
武装した男は光希の手足から枷を外すと、硬質な音を立てて鋼の扉を閉めた。頑丈そうな三つの鍵で施錠すると、背を向けて仁王立ちの姿勢を取る。
「ここは、どこなんですか?」
光希は鉄柵に寄ると、背中に声をかけた。
「ここは、私の私邸の一つですよ」
思わぬところから返事が聞こえて、光希は顔をあげた。靴音を響かせながら、男は檻の前までやってくる。鉄柵を挟んで対峙すると、男は興味深そうに顔を寄せて、光希の瞳を覗きこんだ。
「本当に黒い髪、黒い瞳なんですねぇ。肌も何と白いことか。部下が手荒な真似をして、申し訳ありません。珠のような肌に傷がついたら大変だ……後で見てさしあげましょう」
いろいろな欲の浮いた眼差しであった。薄気味悪くて、光希は逃げるように鉄柵から身体を離した。
「貴方は、誰なのですか?」
声は無様に震えた。
「これは失礼。私はヴァレンティーン・ヘルベルトと申します、殿下」
名前だけは訊いたことがある。
アルサーガ宮殿の理財を取り仕切る、大変な有力者だ。巨万の富を抱える貴人で、確かアースレイヤ皇太子派だとも……
光希の表情を見て、ヴァレンティーンは満足そうに微笑んだ。
「祝賀会や婚礼にご招待していただきましたが、こうして言葉を交わすのは初めてですね。さあ、どうぞ掛けて。楽な姿勢でお寛ぎください」
主の言葉に、召使達は数人がかりで、優美な曲線を描く
腰を据えて会話する気があるらしい。
光希は戸惑いながら、その場に腰を下ろした。痛めた腹周りに圧がかかり顔をしかめていると、その様子に気付いたヴァレンティーンは、周囲に命じて光希にも椅子を用意させた。
三人の召使が檻の中に入ってきて、壁際に置いてある豪華な肘掛椅子を光希の傍に置いた。恭しい手つきだが、有無を言わさず光希を座らせる。
更に猫脚のコーヒーテーブルを光希の傍に寄せて、水や果実酒を注いだ杯を置いた。思わず喉は鳴ったが、手をつける気にはなれない。
「喉が渇いたでしょう? 毒なぞ入っておりません。さあ、どうぞ」
「どうしてこんなことを……」
非難の眼を向けると、ヴァレンティーンは愉快そうに眼を細めた。