アッサラーム夜想曲

第2部:シャイターンの花嫁 - 37 -

「そういえば、火事の原因が判りました」

 馬車に乗ってしばらくすると、ジュリアスは思い出したように口を開いた。

「何だったの?」

「宮女の失踪を耳にして、次は我が身と恐れた東妃ユスランが、自ら邸に火を焚いて、姿を眩まそうとしたようです」

「え……」

 表情を強張らせる光希を見て、膝に置かれた手をジュリアスは握りしめた。

「東妃も邸も無事だそうです。東妃は臆病な人柄で、社交にも殆ど顔を出さないと聞いています。今のところ西妃レイランは歯牙にもかけていないでしょうし、暫くすれば宮も落ち着くでしょう」

 無事と聞いて、身体の強張りは幾らか緩んだが、それでも、胸を締めつけられるような、苦い罪悪感に襲われた。
 パールメラを助けたことで、他の誰かを、そこまで脅かしてしまうとは考えていなかった。

「表向きは、厨房から火が出たことになっています。額面通りに受け取る者はいないと思いますが……光希も何か訊かれたら、そのように答えてください」

「はい……」

 光希は悄然と呟いた。腿の上で握りしめた拳を、ジュリアスはそっと持ち上げると、手袋の上から甲に口づけた。

「心を痛めないで。逃亡を図る宮女は、珍しくありません。アースレイヤの破滅的な公宮管理については、私からも苦言を呈しておきます」

「うん……僕も、訊きたい」

 バルコニーでアースレイヤと言葉を交わした時には、公宮にあまり目を向けていないように見えた。今回の件について、彼はどう思っているのだろう?

「何を?」

 青い瞳がきらりと光った。思わず視線を彷徨わせると、強く手を掴まれた。

「コーキ?」

「はい……大人しくしています」

 諦め半分、誤魔化し半分で返事をすると、訝しみながらも手を離してもらえた。

 間もなく会場に到着し、今夜もアデイルバッハの挨拶で、朝まで続く饗宴は幕を開けた。
 最終日ということもあり、豪華絢爛な大広間は大賑わいだ。ジュリアスと並んでいると、四方から注目を浴びる。堂々と手を繋いでいるが、人目を気にしているのは光希だけで、ジュリアスはもちろん、周囲の人々も朗らかな笑顔を浮かべている。
 社交を避けて壁際に寄っていても、ひっきりなしに声をかけられた。
 今夜は軍の礼装姿の男性も多い。彼等はジュリアスに気づくと必ず声をかける。
 女性ですら光希より背が高いのに、巨躯の軍人達に囲まれると、自分を幼い子供のように感じてしまう。
 詰襟のせいか、首まわりが締まって苦しい。
 開始から一時間も経っていないのに、光希は既に気分が悪かった。

「顔色が悪いですね……少し休みましょうか?」

 平気と応えたが、ジュリアスは人払いをして道を開いた。
 その判断は正しかったようで、廊下に出て、涼しい風に吹かれると、気分は多少上向いた。
 今夜の為に解放されている客室に入ると、光希は力なく寝椅子にくずおれた。

「ごめん、ジュリ。面倒かけて……」

「いいえ、コーキのことで面倒なんて一つもありません。私も体よく抜け出せて、良い休憩になりました」

「優しいなぁ」

 思わずほほえむと、ジュリアスも優しい笑みを浮かべた。甲斐甲斐しく、冷たい檸檬水を渡してくれる。口に含むと、すっきりとした味わいに、気分は多少和らいだ。

「ありがとう……少し休めば、落ち着くと思う。ジュリは先に戻ってください」

「傍に居ますよ。一人にしたくない」

 ジュリアスは光希の隣に腰を下ろした。肩を抱き寄せ、黒髪を優しい手つきでくしけずる。

「僕は平気です。たくさん、人がきているから、ジュリはいって……少し休んだら、僕も戻ります」

「ですが……」

 彼は、なかなか光希の傍を離れようとしなかった。
 あれこれと気遣い、世話を焼く。ようやく出ていく際にも、扉の施錠や、部屋に誰も入れないことを心配そうに繰り返した。

「はぁ……」

 一人になると、小さな吐息もやけに大きく聴こえる。少し休んだら戻ろうと思いながら、光希は静かに瞳を閉じた。