アッサラーム夜想曲
第2部:シャイターンの花嫁 - 36 -
公宮を騒がせた、パールメラの救出騒動から五日後。
連日続いた煌びやかな祝賀会も、今夜で最後だ。閉幕の挨拶をするジュリアスに、光希も同行する予定である。
今夜の為に用意された衣装を見て、光希は感嘆の吐息を漏らした。
「ちゃんと男物の服だ――……」
感動に震える光希を見て、ナフィーサは鏡越しに苦笑を浮かべている。
「殿下、男性の礼装といえど、準備が必要です。午後からはお時間を全ていただきますよ」
「ひぇ……」
容赦のない宣告に、光希は情けない声を上げた。
「どうして僕だけ……ジュリは服を着替えるだけなのに」
「シャイターンは礼儀・作法、身だしなみまで完璧でございますから。殿下はまだ男性の礼装に不慣れですし、私としても万全の準備を整えて差し上げたいのです」
「うっ……」
「今夜の礼装を見て、殿下は公宮を出るおつもりなのか、と憶測する者もいましょう。宮殿中の興味の的になるといっても、過言ではございません。お一人になられる際は、どうかお気をつけください」
「ありがとう、ナフィーサ。心配してくれて……僕は平気です、ジュリも一緒だし。一人にはならないと思うから」
少年はしたり顔で頷いた。十かそこらの子供のはずなのに、ここへきてから光希に諭すような口調がすっかり板についてしまった。
「それがよろしいでしょう。シャイターンから離れないようになさいませ」
「はーい」
光希は気の抜けた返事をすると、午後まで中庭で一眠りしようと外へ出た。
晴れ渡る蒼空が気持ちいい。背伸びをしていると、遠くの空に一筋の煙が見えた。天に向かって細く伸びていく。
「もしかして、火事?」
それも、公宮の敷地内のようだ。隣に立つルスタムも、厳しい眼差しで空の彼方を凝視している。
「確かに……東の方角ですね。公宮で何か起きたのかもしれません」
警戒したルスタムは、光希を邸の中に連れ戻すと、周囲の警備を確認して、煙が出ている方角に人を遣った。
同時にジュリアスにも伝令を飛ばす。現場を確認してきた遣いの者が戻ると、再び光希の元を訪れた。
「煙の出所は東妃 様の邸でした。幸い、大した火事には至らず、消化活動も間もなく完了するようです」
「東妃様の……? 原因は?」
「まだ特定されておりません」
先日の騒動に続いて、火事とは物騒なことだ。彼も同じことを思ったのか、火元が判明すれば良いのですが……と懸念を口に乗せた。
「今夜の予定に、変更はありませんか? ジュリは平気ですか?」
「はい。昼にお戻りになるそうです」
「え、わざわざ? ここは平気だと伝えました?」
「ご自分の目で、お確かめになりたいのでしょう」
「僕、外で昼寝……」
厳しい眼差しを向けられて、光希は途中で口を閉ざした。
テラスに出ることも禁じられたので、仕方なく絨緞にごろんと寝そべり、本を読むことにする。
彼のいった通り、ジュリアスは昼過ぎに戻ってきた。仕事が立て込んでいるようで、光希の無事な姿と邸の警備を確認すると、すぐに出ていこうとした。
「夜には戻りますから、大人しくしていてくださいね」
「はいはい」
大人しく、は最近よくいわれる小言である。つい、適当に返事をすると、聞き咎めたジュリアスはぴたりと立ち止まり、光希を振り向いて一瞬で距離を詰めた。
「な、何?」
「判っていますか? 火事の原因はまだ明らかになっていません。十分に気をつけてください」
「判った。了解です」
今度はきちんと答えたが、ジュリアスの不服そうな顔は変わらない。しかし、本当に時間がないらしく、光希の額にキスをして慌ただしく出ていった。
午後になると、光希もナフィーサに拘束されて忙しくなった。
前回ほどではないが、全身を清められて、髪の手入れ、爪に至るまで徹底的に磨き上げられる。
上品な黒の紳士服に着替え、ジュリアスのように首にタイをしめた。襟や袖がやけにひらひらしている気はするが、どこから見ても男性の格好である。
壁に立てかけた全身鏡の前で、光希はポーズを決めた。正面を向いたり、横を向いたり、回転したり……鏡の中で、笑いを堪えているジュリアスと目が合った。
(見られたァ――ッ!)
羞恥で死ねそうである。固まっていると、ジュリアスの方から近寄ってきた。
「かわいいコーキ、すごく似合っています」
眩しい笑顔で褒めてくれるが、恥ずかしくて、素直に喜べない。
「ありがとう……」
奇妙な顔になる光希の全身を、ジュリアスは愛でるように眺めてから、ぎゅっと抱きしめた。
身体を離すと、光希の足元に跪いて右手を取り、手袋の上からキスをする。男性の恰好をしていようとも、彼の騎士然とした態度は相変わらずだ。
「……人前で、しないでね」
釘を刺すと、ジュリアスは少し不満そうな顔をした。構わず手を引いて、鏡の前で並んでみる。
判っていたことだが、かなり身長差がある。恐らく二十センチは違うだろう。
彼も、今夜は夜会用の礼装姿だ。黒の上着に、艶のある靴を合わせている。同じような恰好をしていると、足の長さの違いが一目瞭然で悲しい。
いつもよりかは、恰好良いつもりの光希だが、ジュリアスを前にしては裸足で逃げ出したくなる。
勝とうだなんて思っていないが、光希も少しは恰好いいと思われたい。
「ジュリ……あんまり傍に寄らないで(自信なくすから)」
悄然と呟くと、傍で聞いていたジュリアスはもちろん、ナフィーサやルスタムにまで怒られた。
誰も味方なんていない。やさぐれた気持ちのまま、引きずられるようにして馬車に押しこめられた。
連日続いた煌びやかな祝賀会も、今夜で最後だ。閉幕の挨拶をするジュリアスに、光希も同行する予定である。
今夜の為に用意された衣装を見て、光希は感嘆の吐息を漏らした。
「ちゃんと男物の服だ――……」
感動に震える光希を見て、ナフィーサは鏡越しに苦笑を浮かべている。
「殿下、男性の礼装といえど、準備が必要です。午後からはお時間を全ていただきますよ」
「ひぇ……」
容赦のない宣告に、光希は情けない声を上げた。
「どうして僕だけ……ジュリは服を着替えるだけなのに」
「シャイターンは礼儀・作法、身だしなみまで完璧でございますから。殿下はまだ男性の礼装に不慣れですし、私としても万全の準備を整えて差し上げたいのです」
「うっ……」
「今夜の礼装を見て、殿下は公宮を出るおつもりなのか、と憶測する者もいましょう。宮殿中の興味の的になるといっても、過言ではございません。お一人になられる際は、どうかお気をつけください」
「ありがとう、ナフィーサ。心配してくれて……僕は平気です、ジュリも一緒だし。一人にはならないと思うから」
少年はしたり顔で頷いた。十かそこらの子供のはずなのに、ここへきてから光希に諭すような口調がすっかり板についてしまった。
「それがよろしいでしょう。シャイターンから離れないようになさいませ」
「はーい」
光希は気の抜けた返事をすると、午後まで中庭で一眠りしようと外へ出た。
晴れ渡る蒼空が気持ちいい。背伸びをしていると、遠くの空に一筋の煙が見えた。天に向かって細く伸びていく。
「もしかして、火事?」
それも、公宮の敷地内のようだ。隣に立つルスタムも、厳しい眼差しで空の彼方を凝視している。
「確かに……東の方角ですね。公宮で何か起きたのかもしれません」
警戒したルスタムは、光希を邸の中に連れ戻すと、周囲の警備を確認して、煙が出ている方角に人を遣った。
同時にジュリアスにも伝令を飛ばす。現場を確認してきた遣いの者が戻ると、再び光希の元を訪れた。
「煙の出所は
「東妃様の……? 原因は?」
「まだ特定されておりません」
先日の騒動に続いて、火事とは物騒なことだ。彼も同じことを思ったのか、火元が判明すれば良いのですが……と懸念を口に乗せた。
「今夜の予定に、変更はありませんか? ジュリは平気ですか?」
「はい。昼にお戻りになるそうです」
「え、わざわざ? ここは平気だと伝えました?」
「ご自分の目で、お確かめになりたいのでしょう」
「僕、外で昼寝……」
厳しい眼差しを向けられて、光希は途中で口を閉ざした。
テラスに出ることも禁じられたので、仕方なく絨緞にごろんと寝そべり、本を読むことにする。
彼のいった通り、ジュリアスは昼過ぎに戻ってきた。仕事が立て込んでいるようで、光希の無事な姿と邸の警備を確認すると、すぐに出ていこうとした。
「夜には戻りますから、大人しくしていてくださいね」
「はいはい」
大人しく、は最近よくいわれる小言である。つい、適当に返事をすると、聞き咎めたジュリアスはぴたりと立ち止まり、光希を振り向いて一瞬で距離を詰めた。
「な、何?」
「判っていますか? 火事の原因はまだ明らかになっていません。十分に気をつけてください」
「判った。了解です」
今度はきちんと答えたが、ジュリアスの不服そうな顔は変わらない。しかし、本当に時間がないらしく、光希の額にキスをして慌ただしく出ていった。
午後になると、光希もナフィーサに拘束されて忙しくなった。
前回ほどではないが、全身を清められて、髪の手入れ、爪に至るまで徹底的に磨き上げられる。
上品な黒の紳士服に着替え、ジュリアスのように首にタイをしめた。襟や袖がやけにひらひらしている気はするが、どこから見ても男性の格好である。
壁に立てかけた全身鏡の前で、光希はポーズを決めた。正面を向いたり、横を向いたり、回転したり……鏡の中で、笑いを堪えているジュリアスと目が合った。
(見られたァ――ッ!)
羞恥で死ねそうである。固まっていると、ジュリアスの方から近寄ってきた。
「かわいいコーキ、すごく似合っています」
眩しい笑顔で褒めてくれるが、恥ずかしくて、素直に喜べない。
「ありがとう……」
奇妙な顔になる光希の全身を、ジュリアスは愛でるように眺めてから、ぎゅっと抱きしめた。
身体を離すと、光希の足元に跪いて右手を取り、手袋の上からキスをする。男性の恰好をしていようとも、彼の騎士然とした態度は相変わらずだ。
「……人前で、しないでね」
釘を刺すと、ジュリアスは少し不満そうな顔をした。構わず手を引いて、鏡の前で並んでみる。
判っていたことだが、かなり身長差がある。恐らく二十センチは違うだろう。
彼も、今夜は夜会用の礼装姿だ。黒の上着に、艶のある靴を合わせている。同じような恰好をしていると、足の長さの違いが一目瞭然で悲しい。
いつもよりかは、恰好良いつもりの光希だが、ジュリアスを前にしては裸足で逃げ出したくなる。
勝とうだなんて思っていないが、光希も少しは恰好いいと思われたい。
「ジュリ……あんまり傍に寄らないで(自信なくすから)」
悄然と呟くと、傍で聞いていたジュリアスはもちろん、ナフィーサやルスタムにまで怒られた。
誰も味方なんていない。やさぐれた気持ちのまま、引きずられるようにして馬車に押しこめられた。