アッサラーム夜想曲

第2部:シャイターンの花嫁 - 38 -

 寝椅子に横になるうちに、気分は大分楽になった。全快とはいい難いが、一人でいても退屈で、光希は会場に戻ることにした。
 大広間に近づくにつれて音楽は大きくなり、人の笑い声が漏れ聴こえてくる。
 眩い世界に足を踏み入れ、さてジュリアスを探そうとしたところで、シェリーティアの姿が目に留まった。見知らぬ男に手を取られ、厭わしげに顔をしかめている。
 その様子を見て、逡巡したものの、光希は勇気を出して足を踏み出した。

「こんばんは、シェリーティア姫」

「殿下!」

 シェリーティアと見知らぬ男は、目を丸くして光希を見つめた。男は酒の回った赤ら顔を慌てて引き締め、光希に最敬礼をする。

「お会いできて光栄に存じます。この度はシャイターンとのご婚礼、誠におめでとうございます」

「ありがとうございます。彼女と少し話したいのですが、平気ですか?」

「は、はい。もちろんでございます。良ければお飲み物を」

「平気です、自分で取りにいきますから」

 笑顔でそういうと、光希はシェリーティアの手を取り、逃げるようにその場を離れた。
 会話に割って入り、女の子を連れ出すなんて真似、生まれて初めての経験である。緊張と興奮で心臓が口から飛び出そうだった。

「あの、殿下」

 困ったように声をかけられて、手を繋いだままでいることに気づいた。慌てて手を離すと、光希は改めて少女と向き直った。

「すみません、僕……」

「お助けいただき、ありがとうございました。公宮の解散が決まったものですから、耳の早い殿方達にお誘いをたくさん頂戴して、困っておりましたの」

 それは、嫌味なのだろうか……ほほえむシェリーティアの心情を読みかねて、光希はなんともいえない表情を浮かべた。

「シャイターンは、そのような自由をお許しなるほど、殿下のことを愛されているのですね……」

「え?」

「そのお召し物。とても宮女には見えませんわ」

「あぁ……宮女の礼装だといわれても、どうしても嫌で」

 理知的な瞳で、シェリーティアは光希を見つめた。品定めするような、やや鋭い視線に耐えていると、ふいと視線を逸らされた。
 彼女の視線の先には、ジュリアスがいた。
 軍の関係者と、穏やかに歓談している。
 ここから人の輪に囲まれたジュリアスまで遠く、視線の合間を幾人も通り過ぎていくというのに、彼女は吸い寄せられるようにジュリアスを見つけた。
 その眼差しはとても真っ直ぐで、焦がれるような、切ないような、憧憬に満ちた……恋する者の眼差しであった。

「……お慕いしていましたわ、ずっと。息が詰まりそうな公宮の日々も、遠くから凛々しいお姿を一目拝見できれば、幾日も幸せな気持ちに浸れましたの。あの方のお傍に寄りそうことが叶うのなら……そんな風に夢を見て、自分を慰めていましたわ」

 どこか歌うように、胸中を語って聞かせる。一途な眼差しに、微かな嫉妬と後ろめたさを覚えていると、少女は吐息を零した。

「振り向いていただけなくても、他の誰の者にもならなければ、いつまでも夢を見ていられましたのに」

 美しい双眸を光希に戻すと、少し悔しげな表情を浮かべた。

「焦がれる想いなど、寵愛をいただいている貴方には、永遠に判らないのでしょうね」

「……」

 何も答えられない。いや……答えなんて望んでいなかったのかもしれない。
 無言で立ち尽くす光希を見て、シェリーティアは満足そうにほほえんだ。

「全てお終いなのですわ。夢を見ることも、公宮の日々も。私……公宮を出ていけるのだわ」

「いつ、出ていくのですか?」

「明日。お見送りは不要ですわ。ほら、シャイターンが見ていらっしゃいますわ」

 慌てて振り向くと、ジュリアスは人の輪を抜けて、こちらへやってくるところだった。

「ご存知かと思いますが、最近パールメラ様のお姿が見えませんの。西妃レイラン様の勘気に触れてお隠れになった、と公宮では噂されております。東妃ユスラン様のお邸でも火事が起きたばかりですわ。殿下も、くれぐれもお気をつけなさいませ。先日の私の忠告は、決して大げさなものではありませんのよ」

「シェリーティア姫、僕は……」

 少女の澄んだ瞳を見て、胸中は複雑に揺れた。何をいおうとしたのか、思考もまとまらぬうちにジュリアスが近づいてくる。

「――ありがとうございます」

 あらゆる気持ちを載せて、光希は感謝の言葉を口にした。ほんの一時、黒と蒼氷色そうひいろの視線が交差する。

「さようなら、殿下」

 シェリーティアは、柔らかくほほえんだ。

「コーキ」

 名を呼ばれると同時に、腰を引き寄せられた。シェリーティアは数歩下がると、綺麗な笑みを浮かべて膝を折った。

「シャイターン、殿下、どうかお幸せに。いついつまでも、アッサラームを明るく照らしてくださいませ」

 シェリーティアからの、お別れの挨拶であった。
 光希はほほえんだけれど、ジュリアスは冷めた一瞥を投げた。光は我と共に、と返答して背を向けてしまう。
 それだけ? と思ったのは光希の方だ。
 気になって振り返ると、少女はまだ頭を垂れたままだった。次第に人が流れて、少女の姿は見えなくなる。

「声を――」

 ジュリアスは何かをいいかけたが、途中でやめた。何? と光希が訊ねても、小さく首を振る。

「それより……気分はいかがですか?」

「うん、平気だよ」
 ぎこちなくほほえむと、慈しむように髪を撫でられた。
 優しい手も、声も、眼差しも、全て光希のもの。誰よりも特別扱いしてもらっている。誰にも譲るつもりなんてない。
 それでも、見向きもされない想いを目の当たりにすると、胸が痛むのは、身勝手な感傷だろうか……