アッサラーム夜想曲

第2部:シャイターンの花嫁 - 18 -

 夢を見た――
 眠っている光希の枕元で、軍服姿のジュリアスが懺悔するように囁いている。

“すみません……怖い思いをさせて、悲しませて……”

“私を嫌いにならないで”

“愛している……私の花嫁ロザイン……”

 聞いている方が切なくなるような告白のあと、額に触れるだけのキスをして一度離れる。
 それから、我慢できないというように、もう一度顔を寄せて、頬、瞼、最後に唇にキスを一つ。
 くすぐったくて、身体が目醒めそうになると、すぐにジュリアスは顔を離した。
 けれど、部屋を出ていこうとはせず、しばらく傍に立つ気配を感じていた。

 目が醒めると、何となく唇に指で触れた。
 見慣れない天井をぼんやりと仰ぎながら、じわじわと覚醒してゆく。
 重たい気持ちと共に、昨夜の記憶が蘇った。結局、何一つ解決しないまま、泣き疲れて眠ってしまったのだ。

「お早うございます、殿下」

 まるで光希の起きるタイミングを見計らったように、ナフィーサが部屋に入ってきた。

「お早う、ナフィーサ」

「こちらにお食事をお持ちいたしましょうか?」

「ジュリは?」

「お出かけになりました。殿下には、ごゆっくりお過ごしいただくよう、仰せつかっております」

「はぁー……」

 爽やかな朝にそぐわぬ、重いため息が零れた。ジュリアスも、今頃ため息をついているのだろうか?
 仕事もあるのに、さぞ憂鬱だろう……
 食欲は殆どなく、果実水と果物だけ口にすると、身支度を整えてルスタムを呼んだ。

「お早うございます、殿下」

「お早う、ルスタム。今日も庭園にいきたいのだけど、案内してもらえますか?」

「もちろんでございます。午後からになさいますか?」

「うん……そうしようかな。その前に、公宮について教えてもらえますか?」

「もちろんでございます。書斎に参りましょう」

 一階に設けられた円形の書斎は、図書館のように広く、部屋の側面には、天上まで届く飴色の本棚が並んでいる。
 滑らかな棕櫚しゅろの机の背には、大きな格子窓があり、柔らかい陽射しが部屋を照らしていた。

「素敵な書斎ですね」

「殿下がお過ごしになりやすいように、とシャイターンが特別に造らせたのですよ」

 気さくに笑みかけられたが、素直に感謝し辛くて、光希は沈黙を貫いた。

「ここには、アルサーガ宮殿の書庫にも引けを取らない、貴重な蔵書が幾つも保管されています。文字はお読みになれますか?」

「公用語なら、何とか……」

 正直なところ、公用語でもどうにか、といったところだ。ルスタムは光希を椅子に座らせると、本棚を巡り、何冊か見繕ってから戻ってきた。

「公宮には秘密が多く、証拠を残すような一般的な書物というのは、実は殆ど存在しておりません。ですので、ここで目にした本は、決して他言されぬよう、お気をつけください」

「はい」

「これは公宮に上がる際に渡される、指南書の控えになります。ご覧の通り、宮のしきたりや、行事について記されております」

 指南書には、墨絵で男女の絡み合う絵も描かれていた。古風な春本を見ているようだ。ぱらぱらと本を捲りながら、気になっていたことを訊ねてみることにした。

「ジュリから聞いたのですが……十三歳で初めて女を抱いたって。常識ですか? 十三歳って、すごく子供だと思うのだけど……」

「シャイターンが特別なのです。成人は十三歳ですが、その年ではまだ精通も始まらない子もいますから。婚姻を結ぶ平均的な年は男女共に十八歳頃になります。女は特にですが、結婚初夜まで処女でいる者が殆どです」

「あ、そうなんですね……」

 日本よりも貞操観念は高いのかもしれない。安堵を覚える光希であったが、

「ですが、皇族やシャイターンのような権力者は、後継者を残すことも義務の一つとされますから、閨のたしなみは性教育の一環として普通に行われます」

 さらりといわれた言葉に、光希は雷に打たれたような衝撃を覚えた。

(閨のたしなみッ!!)

 大きく目を見開いたものの、頓狂な声はどうにか堪えた。通算何度目か判らない、常識という名の壁が崩れ落ちる音を、頭の片隅で聴いた。

「ルスタムは、十三歳のジュリに会ったことがありますか?」

「はい。シャイターンが赤子の頃から従者をさせていただいております。十五歳で初めてお会いして、それから彼が十三歳になるまでの十年間、ずっとお傍で見て参りました」

「へぇ! そうなの」

 ルスタムは、来し方を懐かしむように目を細めた。

「あの方が十三歳の頃は、声も高くおかわいらしい外見でいらっしゃいましたが、初陣から勝利を飾り、早くも武を示されておいででした」

 静かに傾聴していると、言葉を途切らせ、ルスタムは迷った様子を見せた。視線で問いかけると、逡巡してから口を開く。

「……成長期は神力が身体に収まり切らず、よく熱を出して苦しんでおいででした。夜の習いが始まり、公宮へ渡る機会が増えましたが、快楽を得る為ではなく、体調を維持する為でした。“宝石持ち”は私利私欲に乏しく、シャイターンも例外ではないのです」

 それはさすがに、忠信が故の弁に聞こえた。光希にいわせれば、そんなものは、精力が余っていただけに過ぎない。
 冷めた目をしている光希を見て、ルスタムは困ったように微苦笑を浮かべた。

「余計なことを申し上げました。シャイターンには内緒にしておいてくださいませ」

「“宝石持ち”は感情に乏しいって、サリヴァンも話していました。でも、彼も笑うし、ジュリはとても感情豊かだと思うけれど……」

「いいえ、シャイターンは花嫁を得られて、本当にお変わりになりました。それまでは、長くお傍でお仕えしている私ですら、笑ったお顔を見たことがなかったのですから」

「本当に?」

「本当でございます」

 信じられない……疑いの眼差しを向ける光希を見て、ルスタムはまたしても困ったような苦笑を零した。