アッサラーム夜想曲

第2部:シャイターンの花嫁 - 10 -

 あくる日。昼過ぎになり、ようやく光希は寝台から起き上がった。ジュリアスはもうとっくに出かけている。一人、ぎしぎしと悲鳴を上げる身体を引きずり、屋内の浴場へと向かった。よろよろと中に入ると、裾を捲りあげた裸足のナフィーサが入ってきた。

「殿下、お背中を流しましょうか?」

「えっ!? いや、平気です」

「ですが、歩かれるのもお辛そうですし……」

「ありがとう、でも平気です。あ、そうだ。お風呂を出たら、ご飯食べたい。いいですか?」

「かしこまりました。お部屋に運ばせていただきます。お着替えを置いておきますので、お召しになりましたらお戻りください。外に傍仕えがおりますので、ご不便がありましたら、何なりとお申しつけくださいませ」

「はい、ありがとうございます……」

 かしこまって一礼すると、ナフィーサはようやく浴場から出ていった。
 曇り硝子の引き戸が閉まるのを見届けると、思わずため息をついた。光希の身の回りの世話が彼の仕事だと判っていても、一般家庭育ちの身としては、かしずかれる度に遠慮が先立つ。特に着替えや入浴は一人で済ませる方が気楽だ。
 それに、この身体を見られるのはちょっと……
 見れば身体のあちこちに赤い跡が残っている。全てジュリアスにつけられたものだ。無垢な少年の目に晒してはいけない気がする。
 木椅子に腰かけると、太ももの際どいところに跡を見つけてしまい、思わず呻き声が漏れた。

(うわぁ、こんなところにまで……)

 昨夜はまだ陽も明るいうちから情事にふけり、夕食も摂らずに行為に夢中になった。
 疲れ果てて意識が途切れてもジュリアスは光希を離さなかったし、光希も盛り上がった気分のまま、目が醒めれば再び身体を繋げた。
 夜が更ける頃にようやく軽食をとったが、寝台に入ると口づけを交わしてそのまま……

ぅ……股関節がぁ。足開き過ぎたせいだ……サリヴァン神官に会うってのに』

 どうにか入浴を終えて私室に戻ると、ナフィーサは可憐な笑顔で出迎えてくれた。

「お帰りなさいませ。テラスに昼食のご用意ができております。どうぞこちらにいらしてください」

 当然のように、ナフィーサは手を差し伸べた。光希より、よほど可憐で華奢な少年の手を見て、どうしたものか躊躇い……よろめいた。

「殿下! 危のうございます。さ、お手をどうぞ」

「ありがとう……でも平気です」

 差し出された手を避けて歩き出すと、ナフィーサは傷ついたような顔をした。そんな表情かおを見てしまうと、葛藤を抑えてでも大人にならなければと思う。

「あ、ありがとう! 嬉しいよ」

 取り繕うように笑みを貼りつけて、華奢な掌に己の手を重ねる。ナフィーサの安堵した表情を見ると、正しい判断だったようだ。

「遠慮はいりません。さ、足元にお気をつけて」

 テラスに連れ出され、大きな日傘の下、絨緞の上に案内された。
 瞬く間に、彩色の良い果物や野菜、熱々の鳥肉の香草焼が運ばれてきた。給仕する召使達の中で、ナフィーサは誰よりも年若いが、臆せず指示する様は堂に入っている。光希よりも大人びて見えるくらいだ。
 綺麗な少年を観察しながら黙々と食べていると、空の杯に気づくや、ナフィーサは檸檬水を注いでくれた。

「ありがとう。ナフィーサ、昼食はもう済ませた?」

「お気遣いありがとうございます、殿下。私は後ほどいただきますから、お気になさらず」

「いっぱいあるし、一緒にいかがですか?」

「いえ、めっそうもございません。そのお気持ちだけで十分でございます。ありがとうございます、殿下」

 礼儀正しい少年は、きっちり腰を折って頭を下げた。綺麗な仕草に感心しつつ、気になっていたことを口にした。

「その……殿下って、いわないと駄目なの?」

「……といいますと?」

 ナフィーサは不思議そうに首を傾げた。

「でもそうか……僕の、花嫁ロザインの名前を呼ぶことは禁則なのかな。なら“桧山さん”はどう?」

「御名をお呼びできるのは、シャイターンだけでございます。ですから、私を含め他の者は、敬称でお呼びさせていただいております。お気に触りましたか?」

 心配げに訊ねられて、すぐに応えなくてはと思うが、一瞬懐かしい記憶が蘇った。
 学校の友達や、家族からは当たり前のように“光希”と呼ばれていた。他には“こーちゃん”とか……
 頭を軽く振って、らちもない思いを捨てた。仕方のないことだ。こちらには、こちらの流儀があるのだから。

「いいえ、平気です。変なことをいってすみません」

 不安そうにしているナフィーサを見つめて、光希は安心させるようにほほえんだ。