アッサラーム夜想曲
第2部:シャイターンの花嫁 - 11 -
昼食を終えると、神殿騎士のルスタムに邸の外へと連れ出された。
公宮を案内してくれるらしいのだが、邸の外に馬車が停まっているのを見て、思わず首を傾げた。
「馬車? 公宮って宮殿の敷地内でしょう?」
「アルサーガ宮殿は大変広いので、場所によっては歩くよりも馬車を使う方が速いのです。公宮一つにしてみても、舞台や湯殿、庭園、妃殿下方の邸と広うございますので、先ずは馬車で巡りながら説明させていただきます」
「そうですか……」
戸惑いつつ、馬車に架けられた梯子に近づくと、ルスタムは当然のように手を差し伸べた。これぞ騎士といった完璧な仕草だ。
この待遇は、もう諦めるしかないのだろうか。
その手を取るには勇気が必要であったが、瞬巡の後、半ば諦めたように手を重ねた。
光希に続いてルスタムも馬車に乗りこむと、緩やかな振動と共に動き始めた。
初めての馬車体験に、わくわくしながら窓の外に目をやると、ルスタムは硝子窓を引き上げてくれた。
「わぁ、いい風ー」
開けた窓から、爽やかな風が吹きこんでくる。心地良さに笑顔になると、つられたようにルスタムもほほえんだ。
「正門までは全て殿下のお邸の一部にございます。もうすぐこの辺り一面に、クロッカスが咲いて紫色に染まるでしょう」
「へぇ」
今は一面青々としている。これも十分美しいが、クロッカスとはどんな花だろう?
「お邸も庭園も、全てシャイターンが殿下の為に造らせたものです。殿下がこの庭を歩くお姿が映えるように、と遠方から種を取り寄せて植えたのでございますよ」
「……咲くのを、楽しみにしています」
照れくさそうに、光希は頬を掻いた。歩く姿が映えるかどうかは疑問だが、ジュリアスの気遣いは嬉しい。咲いた様子を、ぜひ見てみたいものだ。
それにしても、黙っていると固い印象を与える青年だが、こうして話してみると、意外に気さくで話しやすい。
狭い馬車の中でも、共に居て苦痛はなく、むしろ流れる景色を判り易く説明してくれるので楽しい。
「木々の向こうに見えるお邸はアースレイヤ皇太子の四貴妃のお一人、
「アースレイヤ皇太子の……」
「はい。西妃様は名門バカルディーノ家の生まれで、御年七歳のご子息がおられます。皇后陛下ご不在の公宮では第一位のご身分にございましたが、シャイターンの
訝しげに眉をひそめる光希を見て、ルスタムは安心させるように言葉を続けた。
「不安に思われることはございません。殿下はシャイターンの花嫁にあらせられます。信仰の象徴である御身を、例え皇帝陛下であろうとも脅かすことはできません」
淀みない説明を聞きながら、なんとなく、光希は大奥の光景を思い浮かべた。
「……公宮にはどれくらいの人が住んでいるのですか?」
「皇族の姫君達だけでも、三千人はいらっしゃるでしょう」
「三千人!?」
聞き間違いかと思った。思わず、窓の外に向けていた視線をルスタムに向けると、彼は真顔で首肯した。
「はい。貴人達の身内や召使等を含めれば三万人に上るかと」
「公宮ってそんなに人がいるんですか?」
「はい。アッサラーム宮殿の敷地には、公宮の他にも神舎や軍舎がございます。そちらには更に多くの人間がおりますよ」
「……」
半信半疑で沈黙する光希に、ルスタムは穏やかに言葉を続けた。
「実際に庭園をご覧になれば、よくお判りになると思います」
果たして、ルスタムの言葉は本当であった。
公宮の庭園は、女神の住まう
遠目にも煌びやかな装いの美しい女達が、庭園のあちらこちらで自由に過ごしている。
水辺の鳥小屋で
子兎と戯れている女。
芝に寝そべり歓談している者達もいる。
女だけと思いきや、ちらほら男も見かけた。
「ここにいる人達は皆、皇族の、その……」
ここは異世界なのだと、今更ながらに思い知らされる光景であった。
あまりにも現実離れしていて、何を訊けば良いのか、咄嗟に言葉が思い浮かばない。
「ここにいる方々は、皇族やシャイターンの妃、夫人、姫達にございます」
「えっ、シャイターン?」
光希は、食い入るようにルスタムを見つめた。嫌な予感に身構えていると、案の定、彼は平然と頷いた。
「はい、多くは皇族の姫君方ですが、シャイターンの姫君もいらっしゃいます」
頭を、ガツン、と殴られた気がした。