月狼聖杯記

9章:為政者たち - 6 -

 星歴五〇三年十月二十七日。行軍二十七日目
 野営で琥珀色に揺らめく焚火を眺めながら、シェスラは物思いに耽っていた。
 先ほどダイワシンの伝令から届けられた書簡によれば、アレッツィアとの和平交渉決裂をうけて、ペルシニアは血の驟雨に同意した。ヴィヤノシュ率いるの陽動隊は順調に北上し、間もなく狂気の刃と化し、ペルシニア領を北上する。
 予定通りだ。
 ラピニシア奪還において、重要な課題の一つは、いわずもがなペルシニア攻略である。
 古くから聖地に続く玄関要塞としてペルシニアは栄えてきた。ラピニシアへいくには、この地を通らないわけにはいかないのである。
 過去に幾度となく、掌握対象としてみなされてきたペルシニアだが、幸運にも優秀な指導者を立て続けに冠することで、自治を守りぬいてきた。
 風向きを読むことに長けたペルシニアの指導者たちは、常に勝者の側に属した。今回のセルトとアレッツィアのように、進退両難の板挟みになった際は、二枚舌外交で乗り切ってきた。
 シェスラの描くラピニシア奪還の道筋は、霊峰ネヴァール越えという奇策にあるが、世間の目を欺くために、ペルシニアを全く無視するわけにもいかなかった。
 といっても、ペルシニアの二枚舌外交と講和を結ぶ気はさらさらなく、殆ど脅しに近い決定事項を、二つ叩きつけたのみだ。

 一つ、ネロアからの輜重しちょうをペルシニア領に運び入れること。
 一つ、行軍を妨げないこと。

 この要求を、シェスラはネロアで勝利してみせたあとに、一方的にペルシニアに押しつけた。勢いに乗っているシェスラの要求を跳ねのけることもできず、ペルシニアは飲まざるを得なかった。
 掠奪も視野にいれたペルシニア行軍を、シェスラは、ヴィヤノシュという男に任せた。山賊あがりの将軍で、若く才能に満ちた精悍な男である。部下も無法者の集まりで、残虐非道をほしいままにしていた。だが同時に、無敵ともいわれていた。
 この時代、降伏勧告を無視して抗戦し敗北したら、掠奪されても文句はいえない。
 勝った方は、指揮官の許可さえおりれば、相手を敵とみなし――老若男女、死者負傷者関係なく、身ぐるみ剥がそうが、犯そうが、捕虜を身代金に変換しようが、公然と許されるのである。
 とはいえ、ヴィヤノシュの掠奪は常軌を逸していた。
 容赦なく家屋に火を放ち、女や少年を犯し、或いは奴隷商に売り飛ばし、不要な老人や反抗的な男は残虐に殺す――彼の戦いの常であった。
 暴戻ぼうれいなヴィヤノシュは、戦術として拷問的な虐殺も辞さなかった。
 例えば、相手の戦意を削ぐために、領民の耳を削ぎ落とし、山ほど荷袋に詰めて敵地に送りつけたり、平原一面に切り落とした頭部の串刺しを剣山のごとく立てたり、四肢を切断して……以下略。といった戦法を、躊躇なくやってのける男だった。
 そのあまりの残虐さに、相対することを忌避する敵将は多い。
 その苛烈さ故に、ヴィヤノシュの率いる傭兵軍団は、ドナロ大陸を震撼させるほどの常勝軍である。とりこみたいと目論む権威者は多い。
 ヴィヤノシュがシェスラに従っているのは、金払いの良さと、勝者陣営だと踏んでいるからである。ヴィヤノシュは無法者だが、鼻の利く男だった。
 シェスラは、ヴィヤノシュの働きが必要不可欠であると考えていたが、ラギスとは決定的にあわないであろうことを承知していた。
 ヤクソンの掠奪を経験しているラギスにしてみれば、ヴィヤノシュの振る舞いは到底受け入れがたい蛮行である。
 水と油のような二人が顔をあわせることのないよう、シェスラは気をつかっていた。計画をラギスに知らせることもしなかった。
 間もなく、四度目の発情期を迎える。
 そうしたら、ラギスとシェスラは谷底に身をひそめる予定だ。
 その間にヴィヤノシュはペルシニアを北上――業火の夜陰にまぎれて、登攀部隊はネヴァール山脈の麓に踏み入る。
 最終的に、北上軍はラピニシアの正面から迫り、アレッツィア軍に対抗して布陣。シェスラ率いる決勝部隊は、隠密裏に霊峰登攀せしめ、ラピニシアの背後から北上軍とで敵を挟撃する戦法だ。
 すべては、ネヴァール山脈登攀にかかっているが、もちろん勝算はある。
 指導者としてシェスラは果断をくだしたわけだが、ラギスのことを考えると苦い想いが芽生えるのだった。
 ペルシニア侵攻の全容を知れば、ラギスは激怒するだろう。
(――だが、ここでやらねば帝国に負ける)
 力でねじ伏せ、さっさとドナロ大陸を統合しなければ、月狼族は帝国の食い物にされる。
 それに、長期の遠征において万軍を食わせていくのは、それだけで大変な事業だ。ネヴァール山脈に入るまではネロアから輜重しちょうを運べるが、そこから先は難易度が撥ねあがる。軍も分割する以上、掠奪でもしないと、現実なところ補給物資を賄えないのだった。
(……ラギスには、恨まれるだろうな)
 いっそ、セルトに残すことも考えた。
 長い遠征になる。一月離れているだけで気が狂いそうだったのに、数百日も離れていられる自信はない。
 いずれにせよ、いつまでも隠し遂せることではない。
 大陸制覇は、畢生ひっせいの仕事のさきがけ。至純の目的は、国境なき月狼の法治国家を築くことだ。辿りつくまでに、幾度となく凄惨な決断に迫られるだろう。
 怯んだが最後、覇道の半ばで倒れては意味がない。
 地獄を作ることになるが、帝国と癒着する権力階級を無力化することで、月狼の権威を知らしめる効果が狙える。
 そのあとは、富裕層の利権の絡んだ軍隊を一掃し、平民と傭兵を混成した、柔軟な軍隊を創ることが可能になる。ラピニシア奪還後の、アルトニアと本格的に開戦する準備が整えるための布石であるのだが……
 主の翳った表情を見て、アレクセイはいぶかった。
「我が大王きみ、何か気懸かりなことが?」
「うむ……ペルシニア侵攻の計画をラギスに告げる機を逸してしまった。遠征前までには、話すつもりでいたのだが」
「きちんとご説明すれば、ご理解いただけるでしょう」
「あれが大人しく聞くとは思えぬ」
 難しい顔をするシェスラを見て、アレクセイは穏やかにほほえんだ。
「愛されていらっしゃるのですね」
 虚を突かれたような端正な顔を見て、アレクセイは面白がるような目つきをした。
「そのように見受けられます。氷に喩えられる我が大王きみが、つがいの心を案じて憂いていらっしゃる」
「否定はせぬ……ラギスといると心が浮き立つ。闇にいても輝いて見える」
 素直に吐露するシェスラの表情は優しく、アレイクセイの目に、恋知り初めし青年のように映った。
「我が大王きみがそのように詩人でいらっしゃるとは、存じあげませんでした」
「いわせておいて、何をいうか。だが、本当のことだぞ。私にあれほど噛みついてくる月狼はいない。誇り高い、高潔な男よ」
 本当に稀有な男だ。雄々しく、力強く、肉体的にも精神的にも惹かれずにはいられない。
 アレッツィア軍に立ち向かっていく雄姿を思い浮かべて、シェスラは目を細めた。
 水晶の瞳の奥には、優しく神秘的な、だが同時に憂いを含んだ光が浮かんでいた。

 いつの時代においても――
 指導者の悩みというのは余人には計り知れないものである。
 ペルシニア侵攻は、のちにラギスとシェスラの絆に揺さぶりをかける海溝となるが、避けては通れぬ道だった。