月狼聖杯記

9章:為政者たち - 5 -

 星歴五〇三年十月十五日。
 アレッツィアとの和平交渉決裂。全面戦争回避不可能。その旨を書簡にまとめ、ダイワシンはシェスラに伝令を送った。
 星歴五〇三年十月十七日。
 ダイワシンはさらにペルシニア城の門扉を叩き、領主バルカルを訪ねた。
 会談の内容は、戦争が起こることを前提とした、戦地交渉である。
 バルカルは灰髪に鳶色のひとみを持つ長身痩躯、五十半ばの、オルドパとは対象的な柔和な雰囲気の男である。
 彼は、ダイワシンにねんごろに挨拶をし、執務室に案内した。
 豪奢な部屋である。
 等間隔に壁を飾っている、独特の雰囲気の絵画は全て黄金の額縁におさめられ、大きく穿たれた窓は緋色の緞帳で豪奢に飾られている。
 濃い蒼色に塗られた天井からは、無数の蝋燭が灯された円環照明が垂れさがり、なめらかな大理石を照り輝かせていた。
 目の肥えた貴顕きけんであっても、この部屋に踏み入ると賛嘆を洩らす。ダイワシンも例外ではなかったが、バルカルは控えめに笑むにとどめ、本題を切りだした。
「――それでは、戦争開始ですか」
「はい。どうかお覚悟を」
 ダイワシンの言葉に、バルカルはため息を禁じえなかった。
 アレッツィアは、悪い方に変貌していった。アルトニアに追従し、味をせしめたのか、疾病がそうさせるのか、もはや帝国に唯々諾々である。だからこそ、帝国の寵を受けているのだが。
 身近に見ている者は、オルドパに危惧を抱くが、未だ金払いの良さと強大な支配者としての魅力に心酔している者は多い。
 バルカルも最初はそうだった。
 セルト国に遣わせている使節、マルサラも、当初はアレッツィアの優勢を信じて疑わなかった。
 ところが、あのネロアの闘いである。
 先制を仕掛けたアレッツィアの万軍を見て、誰しもがセルト敗北を予想しただろう。完膚なきまでに滅ぼされるだろうと。
 だが、蓋を開けてみたら、セルトの完勝で終わった。
 マルサラから聞いたところによれば、大王シェスラは出兵前に“演目だしものの余興”とまでいったらしい。
 正直に吐露すれば、オルドパとは、格の違いを見せつけられたと思った。まさか、強大であるはずのアレッツィアに、敗勢を感じることになろうとは……
 時代が変わろうとしている。
 九都市の威光は、若き月狼の王アルファング、シェスラが誕生した時から翳り始めたのだ。
 オルドパはシェスラを傲岸不遜と憤り侮るが、若き王は遥かにオルドパよりも多くのことが見えている。
 かといって、シェスラに全面的に心服するのも危険な賭けではあるのだが……
「ラピニシアに正面から挑むと? アレッツィアの陣容を承知の上ですか?」
 バルカルが怪訝そうに訊ねると、ダイワシンは自信に満ちた顔で頷いた。
「我が軍は、武をもって正面から挑みます。アレッツィア軍を圧倒するでしょう。先陣を切るのは、ヴィヤノシュ将軍です」
 バルカルは目を瞠った。ヴィヤノシュは、残虐苛烈で名高い傭兵くずれの将軍だ。
 彼が通った土地は、掠奪の限りを尽くされることで知られている。悪魔の所業におそれをなして、闘いを忌避する敵将も多い。
 セルトの若き王は、ヴィヤノシュを味方につけたのか。
 確かに彼ならば、アレッツィアの強固な布陣を突破せしめるかもしれない。
 しかし――
 残虐な掠奪と焼き討ちでラピニシアに迫ることが、果たして本当に、シェスラの計略の全てなのだろうか?
 バルカルは、ダイワシンの自信に充ちたげんを、心から信ぜずにはいられなかった。
 月狼の王アルファングの異名をほしいままにしている二十歳の青年は、圧倒的な兵数差で始まったネロア攻防戦を覆した男だ。
 ラピニシア侵攻が、見たままの通りとは思えない。
 帝国の支持を得たとばかりに、唯我独尊をうそぶくオルドパを見ていると、彼はもう既に、陥穽かんせいに陥っているのではないかとすら思ってしまうのだった。
 月狼の歴史を紐解いても、我々は同族同士による内戦しか経験がない。海を隔てた他国の侵略を受けたことがないのだ。
 この戦争が初めてだ。
 セルトとアレッツイアの縄張り争いという体だが、事実上の国際戦である。
 真の実力が問われている。
 もはや同族で争っている場合ではないのだ。その点をきちんと理解していないと、共倒れになってしまう。
「我々の真の敵は帝国です。ラピニシア奪還のためには、ペルシニア領を通らないわけにはいきません」
 ダイワシンの目がきらりと輝く。
「貴方様アルトニアに与して、我々に応戦いたしますか?」
 バルカルの顔が強張った。

“だが、よく考えておくことだ。私が軍を発したあとでまだ態度を明確にしないようなら、アレッツィア勢よりも先に私が牙を剥くかもしれぬ”

 ネロア出兵前に大王シェスラが、マルサラに放った言葉だ。
 今がその時か――苦い思いを噛みしめつつ、バルカルは力なく頸を振った。
「帝国は、自分達こそが世界の秩序だと思っています。純血の水霊族が権力を掌握し、他の種族は服従すべきだと奢っている……追従はなりません」
 ダイワシンは厳かに頷いた。
「戦禍は免れませんが、行軍は事前に決めることができます」
 ダイワシンは鷹のような目で、バルカルを射抜いた。行軍を決めることができる――つまり、掠奪して良い市街を、あらかじめ決めることができるというわけだ。
 これは悪魔との取引だ。
 バルカルの胸に暗澹あんたんとしたものが過った。被害を最小に悔いとめるために、犠牲となる場所を、バルカル自ら定めるとは、なんたる重責。
「この集落であれば……ペルシニアには手だしをされぬよう」
 生贄にさしだした集落は、このあと地獄を見るだろう。ヴィヤノシュに搾取され、奪われ、侵され、殺され、火を放たれる。
 アレッツィアへの牽制も兼ねて、その報復は残虐の限りを極めるに違いない。
(本当に――これしか道はないのか? 私は、決断が遅すぎたのだろうか?)
 アレッツィアにもセルトにも全面的にくみせずにいた代償なのだろうか?
 だが、セルトを完全に信用できない状態で、全面的にくだることもできなかったのだ。
 漫然と手をこまねいて傍観していたわけではない。が、結局は悪手になってしまった。
 間もなく灰燼かいじんに帰すであろう集落を想うと、バルカルの胸に深い哀切がこみあげるのだった。