月狼聖杯記

11章:神の坐す山 - 1 -

 霏々ひひたる吹雪のなか、ついに天辺に指がかけられた。
 岸壁を登りきると、茂みに向こうに煌々こうこうと灯りがかれていた。
 味方の基地だ。
 ラギスはよろめきながら足を踏みだし、汗を目から払いのけた。血濡れた指先でぬぐうので、顔は血濡れて、怪我の正体が不明に見える。
 さすがのラギスも満身創痍だが、背負ったヴィシャスの方はもっと酷かった。寒さに体温を奪われ、もはや虫の息である。一刻も早く火にあたらねば、命の火が尽きてしまう。
 燭光しょっこうに近づくにつれて、ラギスは気がはやった。
 力強い王気を感じる。
 月狼に特有の精神感応力が働き、シェスラもラギスを探している、求めているとはっきりと感じられた。彼に抱いていた複雑な念も忘れ、一刻も早く会いたくて、疲弊した躰に力が漲っていくようだった。
 雪を割ってラギスが現れると、歩哨ほしょうがぎょっとしたように手にした松明を掲げた。
「ラギス様!」
 その声を聴きつけたのか、ジリアンが転がるようにして駆けてきた。さらに、ロキとオルフェもやってきた。
「ラギス!」
「ラギス様!」
「隊長」
「ようこそご無事で!」
 そちこちから、驚きと喜びのいりまじった声が聴こえてくる。
 ラギスは疲労困憊していたが、しゃんと背筋をのばした。部下の前で惨めな姿を見せたら士気に関わる。
 ヴィシャスの部下もやってきて、感極まったように、ラギスの背から主を丁寧におろした。
 衛兵を呼びたてる必死の声が響き渡るなか、潤んだ翠瞳すいとうと視線がぶつかった。忠実な年若い従卒は、泣くまいと唇を噛み締めている。労ってやろうとラギスが頭に手を置くと、
「ああ、ご無事で良かった。ラギス様、ご無事で……っ」
 感極まったように声を詰まらせ、かえって涙を溢れさせてしまった。
「心配かけたな」
 ラギスが詫びると、ジリアンはしきりに首を振った。
「お戻りになると信じておりました」
 周囲は増々慌ただしくなり、近衛と共にシェスラが顕れた。
 夜闇のなかでも、白銀の髪が眩しく映える。考えるよりも先に、ラギスは駆け寄ろうとした。だが実際には、殆ど足は動かなかった。両脚の膝が、細かく震えている。
 帰ってきた――気力が限界を迎え、視界が霞んだ。巨躯が傾ぐ。ラギス様! 慌てる声を聴きながら、くずおれるラギスに向かって、白く美しい双手もろてがさしのべられた。
「ラギス!」
 幻聴ではない、彼の真実ほんとうの声が、はっきりと聴こえた。
 温かな腕のなかに、精根尽き果てた躰が、吸いこまれていくように感じられた。頬にかかる白銀の髪が、きらきらと光る氷の結晶のようだ。
「よく戻った」
 声にはまぎれもない案じる響きが滲んでいた。ラギスはシェスラの背に腕を回した。指先は、血塗れだった。
 のぼっている間、彼の幻聴が、ずっと聴こえていた。
 ――手を貸してやろうか?
 声をかけてくるたびに、今いく、ちょっと待っとけ。そんなことを答えながらのぼった。
(あったけぇな、お前は……)
 帰ってきた……しみじみ思った時、頭の芯が朦朧としてきて、意識は闇に吸いこまれていった。

 温かい……
 ラギスが再び目を開けたとき、火鉢の置かれた医療幕舎ばくしゃのなか、寝台に横臥おうがした状態で見慣れた顔ぶれに囲まれていた。
「クィンは、俺の隊は無事か」
 ラギスは掠れ声で訊ねた。ロキは重々しく頷き、
「クィンは大丈夫だ。だがヨドルは駄目だった。サルコジャは足を痛めて治療している」
「そうか……」
 ラギスは、遣る瀬無い念で瞑目した。
 報告を聞くうちに、さらに暗鬱になった。仲間の死もそうだが、生命線ともいえる輜重しちょうの被害は深刻すぎた。
 沈黙が流れた時、ぱんっと手を鳴らす小気味いい音が響いた。
「さぁさぁ、でていっておくれ。巌のような豪傑でも、疲弊してくたくたなんだから」
 アミラダが追い払おうとすると、枕元を取り囲んでいた男達が腰をあげ、隣で眠っているヴィシャスの姿が見えた。
「ばーさん、ヴィシャスの具合はどうだ?」
「満身創痍だが、息はあるよ」
 彼女らしい物言いに、ラギスは安堵を覚えた。的確な医療処置を施されていることは、傍目にも判る。アミラダが看ているのなら、もう大丈夫だ。
「お前は、人の心配より自分の心配をおし。骨に罅が入っているんだからね。ほら、あんたたちも、この男なら大丈夫だから、でておいき。見舞いは明日にしな」
 老いてなお権高い美女には、屈強な月狼の隊士たちも敵わなかった。彼等は心配そうにラギスの方を見ながら、幕舎ばくしゃをでていった。
 静けさが戻ると、アミラダはジリアンに、躰を拭う湯とたらいを持ってくるよう命じた。
 アミラダの二人の子供とジリアンが、ラギスを清めている傍らで、老女は茣蓙ござに腰をおろし、熟練の手つきで治療を施した。
 患部を傷水薬で清め、蜂蜜を塗り、腫れをひかせるための馬肉をはって、清潔な麻布で巻きつける。罅の入った脚に添え木してこれも布でまく。
 外傷の治療を終えると、酒を飲まされた。疲弊した躰に、蜂蜜と香辛料のきいた酒はおいしかった。彼女の秘伝の万能薬を溶かしたもので、血管を熱い活力が波打っていくのを感じるに任せた。
「……シェスラは?」
「すぐお戻りになるよ。安心してお眠り」
 アミラダにしては珍しく、優しい声音であった。
 自然とラギスは目を閉じた。シェスラを待とうかとも思ったが、披露困憊の極致で、眠りはすぐに訪れた。
 微睡みのなか、次にあったら彼になんていおう――そんなことをぼんやり考えていた。

 深い眠りから醒めた時、外は明るかった。
 傍にアミラダがいたので少々驚いた。ラギスに背を向けて、眠っているヴィシャスの脚首の具合を確かめているようだ。
「……ばーさん、まだいたのか」
 アミラダは殆ど白に近い眼球で、流し目を寄越した。若かりし頃は、さぞや婀娜っぽい流し目だったことだろう。
「口が減らない若造だね。夜通し看病してやったのは、誰だと思っているんだい」
 ラギスが黙りこむと、鼻を鳴らして薬籠やくろうを取り寄せ、調合済みの二種の薬をだした。湯呑に入れて湯でかき交ぜ、ラギスにさしだした。
「お飲み」
 正体不明のおどろおどろしい沼色の液体だが、ラギスは黙って口をつけた。不味い。文句を吐きながらも飲み干すのを見届け、アミラダは湯呑を片づけた。
「ヴィシャスはどうだ?」
 ラギスがいった。
「今は落ち着いているが、危ないところだったよ。あと少し遅かったら、脚頸は切り落とさなければならなかった」
「治るのか?」
「骨折と凍傷を負っているが、ちゃんと治るよ。お前が救ったんだ」
「救ったのはあんただ」
「先ず千仞せんじんの谷底から、騎士を抱えて断崖をよじのぼってきた月狼がいたからさ」
 そういってアミラダは、にやりと笑った。
「我ながら無謀と思ったが、迂回していたらヴィシャスがもたないと思ったんだ」
 ラギスの言葉に、アミラダは真面目な顔で頷いた。
「正しい判断だよ。よくやったね」
 労うように肩を叩かれ、ラギスは痛みに小さく呻いた。おや悪かったね、とアミラダは大して悪く思っていなさそうな声で応じた。
 ラギスは悪態をついたが、彼女の腕前は確かなので、大人しく治療を任せた。どんな大怪我を負ったとしても、この月狼を知り尽くしているような老女がいれば、どうにかなるような気がするから不思議だ。
 実際、肋骨と脚頸の骨に罅が入っていたが、霊験あらたかなアミラダの妙薬と一晩休んだおかげで、殆ど快癒していた。
「……シェスラは?」
「今さっき斥候せっこうに呼ばれていったよ。すぐ戻られるさ」
「そうか」
「お前が眠っている間、ずっと傍においでだったよ」
「……」
 そういえば眠っている間、髪を撫でる優しい手の感触があったように思う。
 薬のせいか、目を醒ましたばかりだというのに、強い眠気をもよおした。うとうとしながら、このまま眠ってしまおうか迷っていると、シェスラが戻ってきた。
 彼を見た瞬間、ラギスの全身に緊張がはしり抜けた。眠気がいっぺんに吹き飛び、慌てて上体を起こした。
「具合はどうだ?」
 枕元にやってきたシェスラは、ラギスを見つめてほほえんだ。
「大事ない」
 ラギスはぎこちなく頷いた。
「うむ、顔色が明るんだようだな。本当に、よく無事だった」
「まぁな……」
 ラギスは曖昧に頷いた。今ならいえる言葉があると思っていたのに、舌がうまく動いてくれない。
 ぎこちない沈黙のなか、アミラダが気をきかせて外へでていくと、衣擦れの音もなくなり、静けさに満ちた。
「俺はともかく、ヴィシャスは危なかった。だから……俺の血と、霊液サクリアを分けてやった。それでどうにか持ちこたえたんだ」
 ラギスはそこまでいってふと言葉をきり、シェスラの顔色をうかがった。粗暴な荒い気性の彼には珍しく、乞い求めるような表情だった。
 シェスラは思案げな様子で黙りこんだ。昨夜二人を見た時から、そうではないかと予想はしていた。ヴィシャスからラギスの匂いがしたし、服にもラギスの血が沁みこんでいたからだ。
 窮地を救うためとはいえ、ラギスが肌をさらし、血と霊液サクリアを与えたのだと思うと、胸が焼けるように感じる。
 彼の振る舞いは、褒められて然るべきだ。判ってはいても、嫉妬心は理屈では制御しきれない。それも、一度は自ら与えた愚行を思うと、余計に苦い思いが胸に拡がった。
 だが、断罪を待つようにシェスラの顔をうかがっているつがいを見ると、複雑な心境は静まった。
「……よく、ヴィシャスを助けてくれた。感謝する。あれも恩義に感じていることだろう」
 その言葉に、ラギスは肩から力を抜いた。
「どうだろうな。あんたを裏切ったと、死にそうな顔をしていたぞ」
「そなたに救われたことを理解せぬようなら、私も厳罰を与えねばなるまい」
「恩に着せるつもりはない。あんたの乳兄弟だから助けた。それだけだ」
 ラギスの言葉に、シェスラはまたしても黙りこんだ。
 ヴィシャスに対するラギスの献身に嫉妬を抱く一方で、彼の示した思い遣り、シェスラへの忠誠心を眩しく思う。
 誇り高い男だ。高潔な精神と魂。屈強な肉体を持つ、最強の戦士。そのような男が、仲間に自らを与え、守りながら、危険を冒してシェスラの元へ戻ってきたのだ。
「よく戻ってくれた。感謝する」
 シェスラが頭をさげたので、ラギスは驚いた。落ち着かない気持ちにさせられ、顔をあげるようにいうと、敬意のこもった眼差しに見つめられた。
「そなたが無事で本当に良かった」
 俺も会いたかった。言葉を返そうか迷ったが、ラギスは照れくさげに視線を伏せた。
 シェスラは肩をすり寄せ、ラギスの額に優しい口づけを落とした。そのまま分厚い肩を押すと、ラギスはされるがまま素直に身を横たえた。唇をそっと重ねてから顔を離すと、金色の瞳が、心地良さそうに細められた。
「少し眠った方がいい。治癒が早まる」
「殆ど治ってる」
「そうだな……だが眠そうだ。眠いなら眠れ。時間はある」
「……行軍はいいのか? 輜重しちょうも被害にあったのだろう?」
「うむ。調整をしているところだ。近く、いい知らせがあるかもしれぬ」
「いい知らせ?」
「先遣隊から連絡がきたら教えよう。今は休め……」
 優しく髪を梳かれ、ラギスは目を閉じた。気が緩んだせいか、今度こそ、抗い難い眠気に見舞われた。
 安心に包まれた、深い、深い眠りだった。

 次の日。
 動けるまで回復したラギスは、医療幕舎ばくしゃをでて、王の幕舎ばくしゃに移動した。
 枕頭にはジリアンが付き添い、献身的に世話をした。ロキやオルフェも、見舞いなのか暇潰しなのかよく判らないが、頻繁にやってきた。グレイヴも見舞いの品を手に朝夕にやってきたが、真面目な彼は、きちんと隊の様子も報告してから帰っていった。
 夜になると、シェスラがやってきた。
 彼と二人きりになった折に、ラギスは意を決して、口を開いた。
「ペルシニアの件だが……一方的に責め立てて悪かった」
 ラギスが頭をさげると、シェスラはびっくりした顔で耳をそばだてた。それから少し力を抜いて、貪るようにラギスを見つめてきた。
「いや、謝罪は不要だ。私の方こそ、隠匿するような真似をしてすまなかった。そなたには、明らかにしておくべきだった」
 ラギスが視線で先を促すと、シェスラは言葉を続けた。
「今回のような短期決戦で、金次第でどこにでも雇われる傭兵部隊を率いて、戦術の真価を発揮するのは難しい。軍を整備するのには、時間がかかる。ラピニシア攻略にはとても間にあわないと思ったのだ」
 ラギスは苦虫を潰したような顔で頷いた。
「あんたがいうのだから、そうなのだろう。だがな、公然と掠奪が認められるような戦争なんざ、ない方がいいに決まってる」
 当たり前のことかもしれないが、とラギスはつけ加えた。
「そなたの弁は正しい。一方で、戦争で機能するよう、大規模な軍隊を組織的に養成するのは、一大事業という事情もあるのだ」
 ラギスは表情を強張らせた。
「だがな、お前は俺に約束をしたんだぞ。王都の膝元と同じ威光を、辺境の山村にまで届けると。忘れたか?」
 シェスラは強い眼差しで見つめ返してきた。
「無論、覚えている。ラピニシア平定後は、常備軍を鍛え、堅硬なものにしてみせる。軍旗を尊守させて、掠奪は公的に禁じる。給金を与え、不詳したあとの面倒も見よう」
「少しずつでも、変えていけよ。あんな掠奪はやめさせろ。必要だっていうなら、俺が連中の分まで暴れてやるから」
 ラギスが静かにいうと、判ったと頷き、シェスラは膝立ちの格好で、ラギスの頭を胸に抱き寄せた。
「この戦争ばかりは避けられぬ。アレッツィアの支配をなくすには、一度地獄を作らねばならない。つきあってくれるか」
「……つきあってやるよ」
 ぶっきらぼうな、許容の言葉だった。
 けれどもシェスラには、これまでに聴いたどんな言葉よりも、力強く、美しく胸に響いた。彼の示してくれた恭順と愛情に、骨の髄までも揺り動かされた。抱きしめているのは自分の方なのに、途方もなく大きな、温かい、漲る活力に包まれていると感じていた。
 ラギスの方も、その言葉が唇からこぼれた時、心のおりが溶け流されていくのを感じた。
 心は澄み渡り、広々として、満ち足りている。
 少し震えているシェスラの胸に頬を押し当てながら、ほっそりした背中を抱きしめた。
 たとえ反発しあっても、世界中の月狼がひとり残らず敵に回ったとしても、ラギスだけは、彼のために最期まで闘うだろう。シェスラの剣であり、つがいであることを、誇りに思っているから。