月狼聖杯記

10章:背負うもの - 10 -

 早朝――空は徐々に青色に変わっていき、周りの氷も白く明るく浮きあがって見え始めた。
 ヴィシャスの流血は止まっていた。骨まで抉られていた致命傷は、どうにか肉が塞がり始めて、折れて骨の突きでていた脚頸も、いくらか真っすぐになったようだ。
 だが傷口は化膿して、昨夜の二倍にまで膨れあがっている。血流が滞っているせいで、指先は炎症も起こしかけていた。
 早くしなければ、脚頸切断の恐れがある。おまけに熱も冷めておらず、苦しげに息を喘がせている。
 一刻も早く、治癒師に診せなければ、命に関わる。
 ラギスは獣のまま外に飛びだした。雪は大分和らいで、視野は明るい。
 間もなく雪鷲を捕まえて戻ると、ヴィシャスは目を醒ましていた。
 彼は、憂いを孕んだ、思い詰めた表情でラギスを見た。憔悴した高貴な顔には、とり返し難い後悔の思いが浮かんでいた。
「“捕ってきたぞ”」
 ラギスは、咥えていた獲物を口から離した。
「……貴様が食べろ」
 ヴィシャスの声は、弱かった。
「“もう食った。おまえの分だ”」
 あえてラギスが軽くいうと、ヴィシャスは顔に悔いを浮かべ、
「感謝などするものか」
 絞りだすような声でいった。唇を歪め、だが、と続ける。
「あんなことは――二度と御免だと思ったのに、私は同じ過ちを繰り返している」
 その先を遮るように、ラギスは人形ひとがたに戻り、肉声でこういった。
「違う。あの時とは状況が全く違う。お前はシェスラの乳兄弟だ。見殺しにはできん。俺は、自分の意志で霊液サクリアを与えたんだ」
 ヴィシャスは黙りこんだ。
 あの狂った饗宴のことは、誰にとっても消化し難いおりとして、胸の底にある。だが、あの時のような汚辱おじょく感を、この時ラギスは感じていなかった。目的が全く別だからだ。
「私は……」
 ヴィシャスは苦々しく言葉を切った。
 心中は複雑を極めた。本音をいえば、ラギスに対して嫉妬の念があった。生まれた時から自己の一部とし、命ある限り尽くそうと決めている王の信頼を、かっさらっていったように感じていた。
 雪崩の窮地を救われたと判った時も、まだ屈辱の念の方が強かった。だが、聖杯を与えてまで救おうとする姿勢は、胸に迫るものがあった。
 聖杯の慟哭を知っている。
 この男は、その身を憂いて自らの腹に刃を突きたて、自尽しようとするほど思い詰めたのだ。
 それなのに――危険極まる滑落のなかヴィシャスを救い、聖杯なる霊液サクリアまでも分け与えたとは!
 その心情を思えば、とても彼を責められない。
 責めるどころか、驚嘆すべき英雄的行為ではないか。窮地を救ってくれた男に、屈辱や嫉妬を覚える前に、我が身の狭量さをたださずにしてどうする。
 生来ヴィシャスを形成する厳然たる正義感が、己を激しく責め立てた。
「……恩に着る」
 苦しげな表情には、真実と誠実の稔がありありと顕れていた。
 ラギスは唸った。
「かたっくるしいんだよ。恩義なんぞ背負うことはない。俺だって、シェスラやあんたらに何遍も助けられてきたんだ。こんなことは、どうってことないんだ」
 ヴィシャスは苦し気に顔を歪め、目を瞑った。
「どうだ、食べられそうか?」
 ラギスが問うと、ヴィシャスは躊躇いを見せた。ラギスはふと思い至り、慌ててつけ加えた。
「待て。獣化して食う気なら、やめておけ。骨が余計に悪化するぞ」
 ヴィシャスも同感だったようで、頷いた。ラギスは霊液サクリアを与えてやっても良かったが、正気のヴィシャスが頷くとは思えなかった。
「血を舐めることはできるか? このあと、断崖を一気にのぼる。俺がお前を背負っていくが、しがみつく気力はあった方がいい」
 ヴィシャスは頷き、文句もいわずに獲物に口をつけた。血を啜れるだけ啜り、口元を手でぬぐって、息を切らして横たえた。
「よくやった」
 ラギスが労うと、ヴィシャスは薄目を開いて、なんともいえぬ表情を浮かべた。
 午後になると雪はさらに弱まった。
 いくなら今しかない。
 ラギスは軍靴の紐を締め、ヴィシャスに羽毛服を着せて背負い、彼ごと胴を紐で結んだ。
 遥かなる氷の壁は、雪霞に消えるようにして聳えている。上の方は視界が悪く見透せないほどだ。
 ここをのぼるのは無謀の極みと思うが、ヴィシャスは瀕死の重傷を負っている。迂回している暇はない。
 のぼるしかない。この垂直の氷の壁を。
 ひんやりとした壁に手を這わせ、ラギスは深呼吸をした。
「いくぞ」
 背中で、ヴィシャスが苦しげに喘いだ。
 霊力を指先と脚に集めて、硬化させる。鋼のような爪を氷に突き刺し、自分とヴィシャスの体重を、自らの筋力で支え、のぼっていく。焦らず、着実に、天に向かって距離を縮めていく。
 てっぺんは途方もなく遠い。
 永遠に辿り着けない気がしてくる。
 冷たい風に吹かれながら、自分の躰が砕け散るように感じた。
 焦ってはならない。
 風に飛ばされぬよう、必死に壁に貼りつきながら、丁寧に、丁寧に手を脚を動かす。
 肩に担いだ重石のような躰を捨ててやろうか。一瞬魔が差すが、そんな考えはすぐに捨て去った。
 今どのあたりだろう?
 前も後ろも、右も左も、氷だ。
 時折、剥がれ落ちた氷塊の唸り声が、氷河から聴こえてくる。
 氷よ。
 堅い氷よ、このまま砕けないでいてくれ。
 祈りながら、天へと進む。
 骨に罅が入ったか、筋肉が悲鳴をあげているのか、手脚が熱を持って腫れている。粉々になった身体は、それでものぼることをやめない。
 ラギスも必死だが、背負われているヴィシャスもまた、大変な苦痛に耐えながら、負担になるまいと躰の平衡を保っていた。
 この命懸けの挑戦は、並々ならぬ二人の精神力があってこそだった。
 ふと、断崖の向こうの空が、雪洞ぼんぼりのように薄く照らされていることに気がついた。ラギスの心臓が鳴り、期待感がはしり抜けた。
 探している!
 待っている!!
 ラギス――幻聴まで聴こえた気がした。疲れきった躰に、力が漲っていく。
「ヴィシャス、篝火が視えたぞ」
 声をかけると、背中でくぐもった声が返された。
(俺はヤクソンの月狼だ、諦めねぇぞ。必ず、生きて、シェスラの元に帰ってみせる。のぼれ、のぼれ、俺の腕、俺の脚、踏ん張れ、俺の躰)
 自分を鼓舞しながら、腕を、脚を動かす。
 右脚を岩壁にあて、右手の爪を硬化させて、氷の壁に突き刺し、体重を支える。次は左だ。単調な動作だが、途方もない体力を消耗するため、右と左の動作が落ち着いたら、しばらく休まないといけない。
 やっとのことでニメートルのぼっても、平衡を崩して三〇センチ、或いはもっとずり落ちてしまう。
 右に手をかけ、左に手をかけ――気の遠くなるほど繰り返しながら、心に思った。
 生きるなかで、懊悩おうのうしない者などいない。
 誰しも背負うものがあり、それらの一つ一つに、決着がつけられるとは限らないのだ。
 切り捨てられる事情もあれば、引きずったまま、次の試練に身を投じなければならないこともある。シェスラ。ヴィシャス。ラギス――同じなのだ。
 ついていくと決めたなら、何があっても、背を向けるような真似はするな。
 逃げるな。
 向き合え。
 お前は最強の剣闘士だ。ヤクソンの戦士なのだぞ――
 そう自分にいい聞かせながら、手を、脚を動かし続けた。
 始めたのは昼なのに、気がつけば夜になっていた。
 陽は沈んだが、かわりに月がでた。
 高所で浴びる月明かりは、躰を温めてくれる。
 指先は血を流しても、力強くラギスを運んだ。