月狼聖杯記

10章:背負うもの - 5 -

 星歴五〇三年十一月十日。行軍四十日目。
 ネヴァール山脈標高三四〇〇メートル。
 殆ど垂直の岩壁を横に、少しずつ高度をあげてのぼっていく。風は今まで一番強く、危険だった。
 低く息を吸い、息を吐く。日頃は無意識に繰り返していることだが、ここでは注意深くやらねば死に繋がりかねない。
 ネヴァール山脈はドナロ大陸最高峰、凍れる魔の山と恐れられる所以を、全員が肌に感じていた。
「もうだめですっ」
 若い兵士が弱音を吐く。すると、山に慣れた兵士が励ましの声をかけ、どうにか一歩を踏みだす。
 登山技術は独学では習得不可能である。雪壁を登る方法、呼吸法、休眠の仕方まで、先達者から学ぶ生きた技術である。
 ラギスも生まれ育ったヤクソンが高山集落だったため、大人達から様々なことを学んだ。山の空気には慣れていた。
 塀のなかに長く囲われていても、培われた感覚は、山をのぼるごとに蘇った。
 氷の割れる音を耳に広い、ラギスはとっさにジリアンの腕を掴んだ。
 危機一髪――ジリアンのすぐ背後には、どこまで続くかわからぬ、暗黒の裂け目が覗いていた。
「あ、ありがとうございます、ラギス様……」
 ジリアンは、ぞっとしたように穴を覗きこんだまま、細い声で礼をいった。
「いくぞ」
 ラギスが声をかけると、ジリアンも表情を引き締めて頷いた。
 頑健な月狼の戦士であっても、高度を増すごとに、高度障害、日射病、氷河落下の試練に見舞われ、気力体力を奪われる。
 難所をくぐり抜けたあと、荷を解いての休息をとることになった時、将兵らが安堵の表情を浮かべるのも無理はなかった。
 しかし、ラギスだけは暗鬱な表情を浮かべていた。
 雪壁を登っている間は無心でいられても、ただ座っていると、どうしても先日の件を考えてしまう……
 苦いおりを消化するには、まだ時間がかかりそうだった。
 気晴らしに、ラギスは酒保を覗いた。
 客はまばらで、静かなものだ。賑々しかった輜重しちょうも落ち着き、軍事賄いの本来の機能を取り戻していた。
 酒を片手に、仲間から離れていくラギスの背を、ロキは追いかけた。
「ラギス、待て。どこへいく?」
 立ち止まったラギスは、肩越しにロキを振り向いた。
「すぐに戻る」
「こっちへこい……ったく、その仏頂面をどうにかしろ。士気に関わる」
 ロキのいう通り、ラギスの不機嫌は隊にも影響していた。
 陰鬱に黙すラギスに、ジリアンですら遠慮がちな様子で、変わらずに声をかけられるのは、ロキやオルフェといった、馴染みの面々だけだった。
 ラギスは、不貞腐れたように友を見た。
「今は無理だ。俺にはシェスラが何を考えているのか、まるで理解できない」
「あれだけ騒ぎにしておいて、まだ理解できていないのか」
 ロキが呆れたようにいった。
「るせぇよ、理解はしているが、納得いかねぇんだよ」
「まぁ、そう怒るな」
 隣にやってきたロキは、宥めるようにラギスの肩を叩いた。
「あいつは俺に、集落を襲わせないと約束したんだ」
 ラギスはそこでぐっと唇をひきしめた。激昂を帯びた声の調子と、それがかなり子供っぽいものであることに気づいたように。
「俺は客観的に見れる分、双方の考えが判る。だがお前は……身内を奪われた者に、道理は通用しないのだろう」
 そういわれてラギスは、ふとロキの境遇を思った。
 奴隷の子であるロキは、五歳にも満たぬ頃に、石工の下男である父を亡くし、その後すぐに病気で母を亡くしている。
 おさいロキは、奴隷剣闘士の身の回りの世話を覚えながら育ち、やがて頑健な体躯を見こまれて、剣闘士に仕立てあげられた。
 隣人の死が当たり前の環境で育ったロキにしてみれば、ラギスの怒りは、ひどく子供じみて見えるかもしれない。
「だがな、大王様はお前を理解しようとしておられるぞ。お前はどうだ?」
「……」
 ラギスは黙りこんだ。
 己が激昂の青臭ささは自覚している。部下の見ている前で、あのように大王に反駁はんばくして、普通に考えれば、厳罰に処されるところだ。除隊され、放逐されても文句はいえまい。
 一晩の謹慎という、無きに等しい体裁的な処罰で済んだのは、一重に王の恩情といえる。そのあとも、半ば強引に決闘の場を設けさせた。確かにシェスラは寛大な譲歩を示したのかもしれない……
 煩悶するラギスを見て、ロキは表情を和らげてこういった。
「王の考えが判らないとお前はいうが、心を鎮めて考えてみろ。どんな眼差しで沙汰を言い渡された? 王の御心が見えてくるんじゃないか」
「……」
「あれだけの騒ぎを起こして、一晩の謹慎で手打ちにされたんだ。お前を信頼して、捕虜の決闘も任せられた。格別のご配慮だと俺は思うがな」
 そういってロキは離れていった。
 残されたラギスは、遥かなる雪源の彼方を見ながら、シェスラの内情を思った。
 いくらシェスラといえども、霊峰登攀と、ペルシニア領横断の両方を指揮することは現実的に不可能だ。
 傭兵部隊の力を借りるにしても、旨味がなければ、誰も危険な任務に命を賭したりはしない。
 シェスラは報奨金の支払いを約束しているが、それだけでは、過酷な従軍に不釣りあいなのだろう。金で雇われる傭兵にとって、掠奪は当たり前の特権の一つだ。
 それに手段はともかく、攻め滅ぼすより少ない労力で、ペルシニアにセルトを選ばせたのは大きい。
 結果だけを見れば、シェスラの宣言した通り、九都市の半数を味方につけたことになる。
 ……そうやって状況を俯瞰ふかんしてみると、複雑な念がこみあげてくる。
 自分が彼の立場だったら、どのような判断をくだしただろう?
 掠奪を禁じて、ペルシニア侵攻とネヴァール霊峰登攀を実現できただろうか?
(――無理だ)
 ラギスに政治は不向きだ。経世にも疎い。剣をふるうことしかできない。
 だが、その全てを担い、自らも前衛として斬りこむシェスラの重責、懊悩おうのうはいかほどだろう?
 違う――だからといって、掠奪の免罪符にはならないはずだ。
 ましてや発情期で外との接触を絶たれていた間に行われたと思うと……
 どんな残虐な殺戮にも見慣れてしまい、もはや特別の感慨もないと思っていたが、この得体の知れぬ憂愁は、結局のところ、シェスラがラギスに隠そうとした事実からきているのだろうか?
 この怒りをねじ伏せ、シェスラを肯定すべきなのだろうか?
 心の折りあいがつかず苦しい。
 どう昇華すればいいのか判らない。
 考えれば考えるほど、膿んで瘴気を漂わす沼のなかに、沈みこんでいく……
 シェスラに敬慕の念、愛情を抱きながら、出口のない葛藤にラギスは喘いでいた。