月狼聖杯記

10章:背負うもの - 4 -

 星歴五〇三年、十一月八日。行軍三十八日目。
 ネヴァール霊峰標高三〇〇〇メートル。
 将兵らは高所順応も兼ねて、慎重にのぼっていた。
 山の天候は変わりやすく、晴天から一転して曇天にかわることはざらだった。ざっと雨にふられ、やんだと思ったら暗黒の裂け目から、玻璃のような青が覗いたりした。
 一歩踏み外せば谷底という、崖にそった細い道が続いている。
 落下の危険は、常に隣りあわせだった。
 急勾配ともなると、先導者が縄を垂らさねばならなかった。命綱を伝ってでないと、転げ落ちてしまうのだ。
 ろくに休めず、兵士の疲労は蓄積している。縄があってもなお、足元を誤った者が、なすすべもなく谷底へ消えていった。
 なかには、暴れる戦蜥蜴をなだめる最中、命を落とす不運な者もいた。戦蜥蜴は頑丈で寒さにも強いが、南国暮らしのせいか、高所では機嫌が悪く、兵士が手綱を引くと、怒って噛みつこうとし、こちらも獣化せざるをえない場面がしばしば起こった。
 細い道でそのような事態が起きれば、悲劇である。
 午後になると吹雪いてきて、真横から吹きつける雪のつぶてに、全員が足を踏ん張って行軍していた。
「うわぁ――……ッ」
 風に攫われた兵士が、谷底に落下し、悲鳴までもが呑みこまれていった。
「姿勢を低くしろッ!」
 ラギスは後ろを振り返り、声を張りあげた。いった傍から、別の者が転落していく。
 時には巨大な雪の塊が、絶壁の側面から剥がれ落ちて、雪煙を立てながら、人や馬を巻きこんで谷底へ轟音とともに崩れ落ちていった。
 何が起こってもシェスラは行軍をやめはしなかったが、悲鳴が聴こえる度に、振り返ってラギスの無事を確かめていた。
 あの決闘の日から、ラギスはシェスラを避けていた。
 休憩の号令がかかっても、傍に寄りつかず、向こうが近寄ってこようものなら、唸り声を発した。……不敬の極みだが、シェスラは咎めたりせず、じっと見つめてくるのみだった。
 決闘を終えて、片はついたと周囲はみなしているが、ラギスの憤りは胸の奥でくすぶったままだった。
 確かに、けじめはつけた。
 痛々しい決闘を見るうちに、傭兵も騎士も、最後は胸に同じ想いを宿したことだろう。
 敵味方関係なく、勇敢に戦い、命を落とした捕虜たちに、苦難の狼生を終えることができたことへの共感で、拍手が送られた。涙を流す者があとを断たなかった。
 氷山の一角だとしても、あの場にいた傭兵たちの思想に、一石を投じたことは間違いない。
 ラギスも、戦争の法を変えるために、立身を望むと決めた。
 心は前を向いている。
 だが、そう簡単に亀裂は癒えはしない。
 特に、泰然とした態度を保ち、指揮を執るシェスラを見ていると、心の底でおきが燻るのを感じるのだった。
 強烈な吹雪で一時休息をとることになり、兵士達は壁を背にうずくまった。
 全軍を休ませるに足る宿営地など、望むべくもない。
 休憩といっても、大抵は陣幕を張る場所さえ見つけられず、それらを身体に巻きつけて、風と寒さを凌いだ。
 獣化できる者は獣の姿になり、丸くなって他の兵士に温もりを分け与えた。全身毛皮を纏った月狼の姿の方が、寒空の下では都合がいいのだ。
「さ、寒い……」
 青褪めた唇から、疲労と寒さに震える声を絞りだし、若い兵士は自分を両腕で抱きしめた。
 霊気の捻出すらできぬほど体温低下したものは、獣化もままならない。
 今にも死にそうな様子を見て、ラギスは素早く軍服を脱ぐと、月狼の姿に変わった。力なくラギスを仰ぐ兵士を見て、風から守るようにして傍に寄り添った。
「隊長……」
「“いいから。そのまま休んでいろ”」
 月狼の声で、ラギスは囁いた。
「すみません……」
 兵士は涙声でいった。ラギスは何もいわずに、尾で兵士の身体をぺしぺしと撫でるように叩いた。
「“おい。お前ら、死にそうなら俺の陰に隠れていいぞ”」
 ついでとばかりに、うずくまっている兵士に声をかけると、生気のない顔をあげて、おずおずとにじり寄ってきた。
「すいません、隊長……」
「“いいから寝てろ。お前ら、余っている幕を身体に巻いておけ”」
「はい……」
 過酷なネヴァール山脈に全員が疲弊していた。窪みのあちこちで、歯を食いしばり、慄えている。吹き荒ぶ雪は、彼等の頭や背中に雪を積もらせた。
 このまましばらく足止めされるかと思われたが、間もなく、猛烈な雪は弱まった。
 ふと気づけば、ラギスの周囲に隊員たちが丸くなっていた。
 今みたいにラギスが休息をとると、その周囲に隊士らは集まりたがるのだ。聖杯の香りに幸せになれるらしい。
 だが、まともに風呂に入っていないので、全員が旅塵りょじんに塗れ、軽く異臭を放っている。そんな連中に擦り寄られても、ラギスは別に幸せではなかった。
「“チッ、鬱陶しいぞ、てめェら! そろそろ離れろ”」
 ラギスが怒鳴っても、疲労困憊している兵士に怖いものはないらしい。丸くなって身を寄せてくる。
「クンクン……隊長、いい匂い……」
 むにゃむにゃいいながら、まだ若い新兵が眠りに落ちた。
 しょうがないので、ラギスは交差した前脚に顔を乗せて伏せた。
 周囲を眺めると、月狼姿のシェスラと目が遭った。
 少し離れた処から、じっとこちらを見ている。物言いたげにも見えるが、相変わらず冷然としているようにも見える。
(……ふん。知ったことか)
 忖度そんたくする気になれず、ラギスは瞼を閉じた。