月狼聖杯記

10章:背負うもの - 2 -

 シェスラが去った後、牢にいるラギスを一目見ようと、傭兵共がからかいにやってきた。
 彼等は、擾乱じょうらん騒ぎのとがで、北上軍の野営から、登攀組に連行されてきたのだ。
「大王様のご寵姫がいい様だなァ」
「そんなにとこの具合がいいなら、俺のお相手もしてくれよ」
 傭兵くずれが酒精を孕んだ呼気で、げらげらと笑った。ラギスは相手にしなかったが、
「ここに近づくな。向こうへいけ」
 従卒のジリアンが番犬よろしく、苛立った声で追っ払った。
 牢番は半ばジリアンにせっつかれるようにして、襤褸らんるとなった毛布を投げいれたが、ラギスは横にならずに胡坐をかいて、月を見あげていた。
 このような仕打ち、屁でもなかった。奴隷剣闘士時代は、長いこと石床で寝起きをしていたし、気に食わないことがあれば――なくても、しょっちゅう殴られていた。格子檻で謹慎なんざ、今更どうということもない。
 だが忠実な少年従卒、ジリアンはそうは思わないようで、ラギスを死して守るとでもいうように、決して牢の傍から離れようとしなかった。
「俺のことは気にするな」
 ラギスは宥めるようにいったが、ジリアンは頷こうとしない。平静を装っていても、悲壮な雰囲気をかもしており、檻にいるラギスよりよほどこたえている風だった。
「もういいから、お前は休め」
「いいえラギス様! お傍におります!」
「あのなぁ……」
 何遍いっても聴きやしない。ラギスは困って頭を掻いた。
 しまいには、どこから持ってきたのか、藺草いぐさや香草を牢屋に運び入れようとするので、ラギスは仕方なく大声でオルフェを呼びつけて、ジリアンをさがらせた。
「ラギス様、ラギス様っ、ラギス様ぁッ!」
 まるで今生の別れとばかりに、悲痛な声をあげるジリアンを、オルフェと牢番の二人がかりで引きずっていった。
 再び静寂。
 ようやく静かになったと思ったら、今度はロキがやってきた。
「いよぉ、酒もってきたぞ」
 ラギスは飽きれた目で友を見た。
「いいのかよ。一応、謹慎の身だぞ」
「恰好だけだ。牢のなかにおさまってるんだから、文句はないだろ」
 そんなことはないが、牢番も、巨躯のロキに注意する勇気はなく、見て見ぬふりをしていた。
「俺は間違ったことはしちゃいえねぇ」
 ラギスは鋭い眼光をロキに投げた。判っている、とロキも頷き、
「お前は正しい。俺も連隊の仲間も、ヴィヤノシュのやりおうには賛同していない。あんな邪悪な行為は、慙愧ざんきして然るべきだ」
「だったら、なぜ――」
「一方で、賛同している傭兵も多いんだ。奴らは旨味がなければ、危険に身を投じたりしない」
 ひどく現実的な言葉に、ラギスは苦い物を噛んだように唇を歪めた。
「……シェスラはなぜ、あんな奴に北上軍を任せたんだ。こうなることを知っていたんじゃないのか」
「承知しているさ。だが、暴きたて律するばかりが正解ではない。傭兵軍団も大王様を知れば心服するだろうが、二万を超える有象無象の混成部隊で後衛ともなれば、威光も薄れる。がちがちの軍規は不満を爆発させるだけだ」
 不服げに唸るラギスを、ロキは視線で制した。
「大王様は大局を見据えておられる。一つの窮地を救うために、ラピニシアを失っては元も子もないだろうが」
「へっ、詭弁きべんだろ」
 ラギスは鼻白んだ。
「反対意見や不満感情は百も承知だ。それでも決断しなければならない。それが指導者の役目だ。取捨選択の苦痛は、上に立つ者が全部背負うんだ」
 箴言しんげんと共に、ロキの鋭い深紅の視線がラギスを射た。
「ラギスのいいたいことは判る。命は等しい、掠奪はよせ、女子供に手をだすな。だがそれでは、傭兵は戦わない。俺たちは全滅する。アレッツィアが勝利しても繁栄はない。帝国の侵略を赦し、畢竟ひっきょう月狼は滅びる」
「……」
 ラギスは黙りこんだ。ロキはまじめな顔でさらに続けた。
「何が重要なのか、順序立てて考えてみろ。俺たち正規軍は、六万を超えるアレッツィアと帝国軍の、半数にも及ばないんだぞ。大王様の奇策をもってしても、野戦では圧倒的な大軍を擁した方が有利に決まってる。傭兵なくしてどう勝つんだ?」
 腕を組み、不満げに押し黙るラギスを見て、ロキはため息をついた。
「大王様には、そういわれなかったのか」
 似たようなことをいわれた気もするが、あの時はとても冷静に考えられなかった。シェスラも、弁明を繰り返すような真似はしなかった。
 今は頭が冴えているせいか、ロキにいわれた言葉が、鉛のように重く腹に沈みこむ。
 判っている。傭兵は忠誠心や自己犠牲といった美徳から戦ったりしない。実利が全てだ。そんなことは、いわれるまでもなく判っているのだが……
 ラギスは暗鬱なため息をつき、拗ねたようにこういった。
「なんだ、さっきは俺が正しいといっただろうが」
 ロキは険を和らげ、少し笑った。
「要は、自分が力をつけるしかないってことだ。自分の価値観で規律をける立場までのしあがるんだ」
 ラギスは嫌そうに顔をしかめた。
「俺は出世や奸智かんちには向かん」
「いや、そうでもないぞ。大王様にあんな態度が許されるのは、お前くらいなものだ。最強の切り札だろう」
 ラギスは鼻柱に皺を寄らせた。
「シェスラは俺の言葉に左右されたりしねぇよ」
「何をいう、大いに汲み取っておられるだろう。捕虜との決闘を成立させたのだろう? ……結局殺すのだろうという者もいるだろうが、俺はそうは思わん」
 思わず、ラギスはロキを見た。奴隷剣闘士としての思いが、視線を行き交う。
「お前は潔くて気持ちがいい。軍にはお前のように実直な奴も必要だ。そう思うのは、俺だけじゃないだろう」
「……」
「よく休めよ」
 そういってロキは離れていった。
 一人になると、ラギスは腕を組み、目を閉じた。
 掠奪行為が公然と認められる戦争なんて、どんな理由があるにせよ、ただの殺戮行為だ。
 規律をける立場までのしあがるしかないというのなら、のしあがってみせる。
 誰からも一目置かれる存在になってやる――掠奪を肯定する戦争の法なんざ、この俺が変えてやる。
 この時、ラギスの身内に往年の不屈の闘魂が、めらめらと湧き起こった。ヤクソンの闘志が息吹いぶいたのだ。