メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

6章:告げる想い、秘する想い - 2 -

 扉前で立ち尽くしていると、中からヴィヴィアンが扉を開いた。見下ろす美貌が般若に見え――危うく出かけた悲鳴を呑み込んだ。
 眼の錯覚だ。
 ティカは帆柱マストのように、背筋をしゃんと伸ばした。

「何してるの?」

「あ……」

「お帰り。入ったら?」

「アイ……」

 中へ入ると、ヴィヴィアンは机に座り、書類に眼を落としてペンを走らせる。ティカの方を見ようともしない。
 入浴を終えたばかりなのか、艶やかな白銀の髪は濡れている。服装も華美なものではなく、上は襟の開いたシャツに、ジレという身軽な装いだ。
 入り口で突っ立っていると、ヴィヴィアンはつと顔を上げ、無表情でティカを見た。

「……臭い。お風呂に入っておいで」

「アイッ、キャプテン!」

 命令だ!
 疾風のように浴室に飛び込むや、甲板磨きのように自分を磨き上げてゆく。
 髪を洗い流す時、酒精や香水の匂いがぷんと漂った。自分では気付かなかったが、雑多な匂いにまみれている。これでは、臭いと言われても仕方がない。
 ふと閃いた。
 そんな匂いにヴィヴィアンもまみれたから、彼も湯を浴びたのだろうか。だから髪が濡れて――
 苦しみに襲われ、呻きそうになった。駄目だ。今は、考えない方がいい……
 石鹸の匂いに包まれたことを確認して浴室を出ると、ヴィヴィアンの前で勢いよく頭を下げた。

「すみませんでしたっ!」

 頭を下げたまま反応を待っていると、深いため息が聞こえた。
 恐る恐る顔を上げると、彼の視線はティカになかった。そっぽを向いて、茴香ういきょう入りの強そうな蒸留酒を煽っている。口元を拭い、吐息と共に長し目にティカを見る。
 眼が合った瞬間、金縛りに合ったかのように、身体は固まった。
 指でちょいちょいと呼ばれ、小刻みに傍へ寄ると、彼は肘掛椅子に座したまま、身体をティカの方に向けた。

「まぁ、皆が上陸しているのに、留守番させた俺も悪かったよ」

 恐い……かつてないほど、声に不機嫌が滲んでいる。

「だけど、待ってろって言っただろ?」

「ごめんなさい」

「しかも、アルバナ酒家……」

 怖くてヴィヴィアンの瞳をまっすぐ見れない。肘置きを弾く爪を見つめていると、ふいに垂れた手を握りしめられ、大袈裟なほど肩が跳ねた。

「ティカ、どうして行ったの?」

 穏やかな口調だが、冷たい響きが滲んでいる。ティカの緊張は否応なしに増した。

「怒らないから、言ってごらん?」

 ヴィヴィアンは優しい声で言うが、青い双眸の奥には、隠しきれない怒りが浮いて見える。

「ティカ」

 静かに名を呼ばれて、ティカは観念したように口を開いた。

「大人になりたくて……それで……」

「大人?」

「アイ。めくるめく大人の世界……いえ、なんでもありませんっ!」

 どうにか説明を試みようとしたが、ヴィヴィアンの纏う空気は一瞬で冷えた。貝のように口を閉ざして、虚空を見つめるしかない。

「めくるめく、ねぇ……」

「ごめんなさい」

「どうして謝るの?」

 凍りつく空気に耐えられない。もう、ここから逃げ出してしまいたい。

「ティカ?」

「キャプテンが、怒ってるから……」

 もはや涙目である。ヴィヴィアンの顔を怖くて見られない。

「そう見える?」

「アイ……」

「そうかもね」

 彼は、いかにも憂鬱そうに呟くと、暗いため息をついた。小さな吐息なのに、沈黙した部屋にやけに響いて聞こえた。

「確かに、面白くはないな……」

 こんなに彼を怒らせるとは、思わなかった。こんなことになるのなら、大人しく待っていれば良かった。どうにもならぬ深い悔悟を噛みしめていると、腕を掴まれ、引き寄せられた。

「あっ」

 冴えわたる青い瞳に射抜かれる――眼を合わせたまま、ティカは小さく息を呑んだ。

「どうして大人になりたいと思ったの?」

「キャプテンが、ほ、他の人と……」

 言い終わらぬうちに感情が昂り、あっけなく、ぽろっと涙が零れた。

「え、俺? どうして泣くの?」

「うぅ……っ」

 胸が痛い。
 顔を歪ませるティカを更に引き寄せ、ヴィヴィアンはティカのまなじりに口づけた。瞳の端ににじむ涙を優しく唇で吸う。

「教えてよ。どうして?」

「悲しかったから……」

「どうして悲しかったの?」

 どうして? そんなの決まっている。
 ヴィヴィアンが知らない人と、キスをして、ティカの知らないそれ以上のこと――親密な時間を過ごしていたのだと、想像するだけで胸が痛かったから。
 胸元のシャツをぎゅっと掴んでいると、上からヴィヴィアンは手を重ねた。甘く囁く――

「教えて。どうして悲しかったの?」

 言いたくない。彼は、何もかも知っている気がする。

「判りません……っ」

 さっきまで怖い顔をしていたのに、ヴィヴィアンは嬉しそうに笑った。