メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

16章:セイレーン - 7 -

 目が醒めると、潮の香がした。
 懐かしい、波に揺られる感覚……舷窓げんそうの向こうには、どんよりと曇っている空が拡がっている。荒ぶる波のうえに、冷え冷えとした冬の霧が立ちこめているようだ。
(え……?)
 ティカは見知らぬ豪奢なベッドの上に寝ており、南国の観葉植物に囲まれていた。
「何、ここ……」
 身体を起こすと、じゃらりと金属の擦れる音が鳴った。
「何これ!?」
 右足首に鋼鉄の足輪がはめられ、そこから延びる鎖は、巨大な鳥籠を思わせる鋼鉄の檻に繋がっている。
「こんな鎖……うぎぎ……外れないっ」
 ティカは鎖を掴んで引っ張った。いかりのように頑丈で、しばらく奮闘してみたが、次第に心拍数があがり、掌は汗ばんできた。諦めて手を離すと、赤くなった掌を服にこすりつけながら、ベッドを降りた。鎖は邪魔だが、檻のなかを動けるくらいの長さはあるようだ。
(何が、どうなっているんだろう?)
 檻は鳥籠の形状をしているが、この事態からして、小鳥を入れるためのものでないことは明らかだ。誰かが、ティカを閉じこめるために、わざわざ檻を部屋に運んだのだろうか?
 部屋は、広く、贅沢で趣味の良い家具で調えられていた。壁には値打ちものの絵画や、樫材の戸棚が固定され、濃紺に金糸装飾の絨毯は幾重にも織られた豪奢なものだ。鎧戸や扉の真鍮の金具類までもが、ぴかぴかに磨きあげられている。
 そうした部屋の煌びやかさは、ティカを一層不安にした。海の上で、見知らぬ船のなか、鎖をつけられ閉じこめられている。何か、重大なことに巻きこまれてしまったのだ。
「……なんで?」
 声にだした瞬間に、恐怖が全身を駆け抜け、はらわたを締めつけた。動機を覚え、神経を昂らせながら、扉を両手で引っ張った。素手ではびくともしない。扉には、頑丈そうな南京錠が三つもぶらさがっている。外へでるには、鍵を開けるしかなさそうだ。
 再び足輪を外そうと試みるが、こちらも素手ではどうにもならなそうだった。ここにブラッドレイがいれば、いとも簡単に開けただろう。針一つあれば、開けられない鍵はないと本人も自負している通り、彼の鍵破りの腕はピカ一だ。こんなことになるのなら、ティカも教わっておけば良かった。
(慌てちゃだめだ。焦っても碌なことにならないぞ。こういう時こそ、落ち着いて行動しないと)
 鎖と格闘するのを諦めて、ティカは寝台の上で胡坐をかいた。あらためて室内を見回してみる。
 一体、誰の船なのだろう?
 窓から見えるに、この船は喫水浅き黒々とした快速船で、冬の荒波を蹴立てて進んでいる。船足は、七から八ノットといったところだ。周囲に船影は見えない。一艘いっそうで走っているようだ。
 部屋には火の灯された固定暖炉があり、空気は快適に調整されている。大洋航路にも臨めそうな性能を有しているようだが、行き先は不明。せめて星を見れば推測できるが、今は昼である。
(あぁ……参ったなぁ……)
 ティカは悄然となった。海にでた船というのは、確立された一つの小世界だ。その境界を飛び超えるのは容易ではなく、味方のいない今は特に、豊穣の海を荒涼と感じてしまう。
 鬱々とし始めた時、はっと閃いた。意識をなくす前に、オデッサの歌を聴いた気がしたが、彼女は無事なのだろうか? ヴィヴィアンはどこにいるのだろう?
 その時、廊下から足音が聴こえてきて、ティカは弾かれたように振り向いた。
 扉が開く様を凝視していると、紳士然としたアダムが部屋に入ってきた。彼はベッドに腰かけているティカを見て、余裕のある笑みを浮かべた。
「やぁ、お目覚めかね?」
「アダムさん……?」
 呆然と呟くティカの傍に、アダムは優雅な足取りで近づいてくる。
「悪いが、足枷をつけさせてもらったよ。気分はどうかね?」
「どうして僕は檻のなかにいるの?」
 警戒も露に睨みつけるティカを、アダムは王者のように見下ろした。
「ある御方が、君に会いたがっているものでね。休暇中のところを悪いが、一緒にきてもらうよ」
「ある御方?」
「ビスメイル女王の懐刀、枢密顧問官を兼任する大海賊だよ。君も面識があるそうじゃないか」
 ティカのだいだい色の瞳に、嫌悪とも恐怖ともつかぬ光が灯った。推測される男は一人しか思いつかない。
「……まさか、ジョー・スパーナ?」
「その通り。ビスメイル十指に数えられる重臣の一人だが、君はどうして、あの方と面識があるのだね?」
 ティカはあからさまに憂鬱げに唸った。
「嫌だ! ジョー・スパーナには会いたくない!」
「安心しなさい。私も彼も、痛めつけるつもりはないよ。なにせ、傷一つ負わせぬよう指示されたくらいだ」
「ここからだして」
 アダムは肩をすくめた。
「残念だが、それはできない相談だ。苦労して君を捕まえたのだからね」
「きっとヴィーが助けにきてくれる! こんなところ、すぐにでていってやる!」
 檻を掴んでティカが叫ぶと、アダムは薄く含み笑った。
「それはどうかな? 既にアプリティカの沖から一日が経過している」
「一日!?」
「そうとも。ヘルジャッジ号はまだ造船所ドックのなかだろう? 偉大なキャプテン・ヴィヴィアンといえども、この船に追いつくことはできないだろうよ」
 どこか教師を思わせる口調で説明する。ティカの強張った顔を眺めやり、理知的な微笑を浮かべた。
「不便をかけて申し訳ないが、閣下のお召しだ。あと二日もすればビスメイルに着く。そうすれば、晴れて自由の身になれるよ」
 穏やかな表情で、死刑宣告を口にする。ティカは暗澹あんたんとなって顔を俯け、ぼそりと呟いた。
「……ビスメイルにはいきたくない」
 アダムは顎を撫で、事務的な眼差しでティカを眺めた。
「閣下の口ぶりからすると、そう悲観することもないと思うがね……まぁ、少し休みたまえ。あとで食事を運ばせよう」
 そういって踵を返すアダムの背中に、ティカは慌てて声をかけた。
「待って!」
 振り向いた男を見て、意を決する。
「アダム、メル・アン・エディール!」
 いにしえの魔法を放った。