メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

16章:セイレーン - 6 -

 夜も更けてから始まった競売会は、昼とは様子が一変していた。
 意気揚々と会場に足を踏み入れたティカは、異妖な空気に圧倒されてしまった。
 労働階級の客は一人も残っておらず、上等な服をまとった男女の誰もが仮面をつけている。照明を落とした室内には、魅惑的な芳香が漂い、陰鬱で退廃的な空気に包まれていた。
「席にいこう」
 ヴィヴィアンに手を引かれて、ティカの呪縛は解けた。昼と同じボックス席におさまると、緊張はさらに和らいだ。ずっと同じ席に座っていたので、愛着のようなものが芽生え、座ると心が落ち着くようだ。
 さて、競売にかけられる商品は、最初のうちは珍しい海洋の生き物、金の鳥籠に入れられた小鳥や、葉巻といった嗜好品で、ティカも抵抗なく眺めていられたのだが……
「さぁ、いよいよ本日の目玉商品。精霊界ハーレイスフィアに住む伝説の人魚です!」
 アダムの言葉にティカは強張った。いよいよオデッサの登場だ。
 舞台の中央に、厚布で覆われた巨大な水槽が運ばれてくる。左右から従業員が布を剥がすと、会場は賛嘆の声にどよもした。
「美しい海水青色の髪と神秘的な瞳、きらめく鱗はもちろん本物です。さぁ、どうぞ近寄って。奇跡の人魚をとくとご覧あれ!」
 観客たちは檻の前に集まり、値踏みするように人魚を眺め始めた。彼等は見るからに裕福そうで、にやにやした気持ちの悪い笑みを浮かべている。
 奇妙なことに、オデッサは怯えた風でもなく、遠くを見るような眼差しで、口元に笑みすら浮かべていた。
(オデッサ? 大丈夫?)
 ティカがそっと心に呼びかけてみても、反応を示さない。聴こえないだろうか? 違和感を覚えたが、その正体は判らなかった。
「さぁ、ご満足いただけただでしょうか? それでは始めましょう」
 席についた富豪たちの目は、欲望にぎらついていた。絶対に人魚を手に入れたい、そう思っていることは明らかだった。
「それでは始めましょう、十億ルーヴから!」
 想像していた通り、檻に入れられたオデッサには、途方もない金額がつけられた。
「三十億ルーヴ!」
「最高値、三十五億ルーヴ! 他には?」
「四十億ルーヴ!」
「あちらのお客様から、四十五億ルーヴ。他には?」
 刻一刻とつりあがっていく値段を、ティカは歯痒い気持ちで見守っていた。
 コールは次第に減っていき、最後は五十二番の女性と、カーヴァンクル商会――ユヴェールの一騎打ちとなった。
 ティカの心臓は早鐘を打ち始めた。シルヴィーが用意した資金は、途方もない金額だが、今まさに、その上限に差し迫ろうとしている。
「百十億ルーヴ」
 ユヴェールが札をあげた。
「二十三番のお客さま! 最高額です! 他には?」
 ティカは両手を胸の前で組み、天に祈りを捧げた。どうかこれ以上のコールがありませんように、と胸が苦しくなるくらい切実に願った。
「決まりです! 二十三番のお客さま!」
 思わずティカは、嬉しそうな声をあげて踊りあがった。飛んで跳ねていきかねないティカの手を、ヴィヴィアンは苦笑気味に引っ張った。
「座っていなさない」
「すみませんっ……やりましたね!」
 ティカは声を押さえて満面の笑みでいった。しかし、最高の気分は一分と続かなかった。
 オデッサの檻が幕の内側へ運ばれていき、新たな檻が舞台中央に運ばれてくる。アダムは檻の布に手をかけて、群衆を見回した。
「さぁ、ここからは愛玩奴隷の競売となります。先ずはこちら、美しい三人の姉妹たちをご覧にいれましょう!」
 布がばっとめくられるのを見て、ティカは表情を凍りつかせた。
 大きな鉄製の檻のなかに、十歳にも満たぬ三人の少女が、着飾った姿で囚われていた。
 愛玩奴隷と呼ばれた少女たちは、天使のように愛らしい顔立ちをしていた。しかし目は虚ろで、まるで無感情に見える。
 ティカは言葉がでてこなかった。人間を、別の人間が買おうとしている――その異様さを誰も訝しむことなく、当然のように札をあげて、熱狂的に競売を続けていることが、理解不能だった。
「ティカ、オデッサを迎えにいこう」
 ヴィヴィアンに肩をゆすられて、ティカはふらふらと立ちあがった。
「ヴィー……」
 不安そうに仰ぐティカの髪を、ヴィヴィアンはくしゃっと撫でた。
「待っていた方が良かっただろう?」
 ティカは悄然と俯いた。ここで何が行われるのか、判っていたはずだった。覚悟していたはずだった。だが、話に聞くのと見るのとでは、衝撃の度合いがまるで違った。
「……あの子も買えませんか?」
 自分でも、愚かなことを口走ったという自覚がティカにはあった。答えを判っていても、いわずにはいられなかったのだ。
 怯えの交じった哀願の眼差しを、ヴィヴィアンは理性的に受け留めた。
「買わないよ、ティカ。この話はあとでしよう。今はオデッサのことに気持ちを集中させなさい」
 ティカは項垂れた。ふらふらと階段を下りていく途中で、三人の少女は落札された。そのあとも、競売は止まることなく続けられていく。受取専用の扉に入る時、幼い少年が競売にかけられる光景が視界の端に映った。
 瞬く間に起こった一連の出来事には、まるで現実味がなく、奇妙な戯画を眺めているようだった。
(僕は何をしているんだろう……)
 人間は幾つもの顔を持っている。悪徳と美徳は表裏一体で、時に相互扶助の思い遣りを発揮することを知っている。
 けれども、目の前の光景を見ていると、疑問を抱かずにはいられない。人はなぜ、優しいままではいられないのだろう? 正直に生きられないのだろう?
 疑問を覚えたところでどうにかできるわけではなく、心のなかで囂々ごうごうたる非難の声があがるばかりだった。
 現実は想像より遥かに奇怪で、ティカの思いも及ばぬ恐ろしい出来事が、幾つも同時に起こっている。その全てに介入し、手を差し伸べることは到底不可能なのだ。
 畢竟、ティカのしていることは、命の取捨選択なのだろうか?
 命の錬金術は神の摂理に触れる禁忌だというが、ティカの行いはどうなのだろう?
 ティカは自問自答に落ちこんだ。自己満足的な思考の浅薄せんぱくさを、思い知らされた気分だった。

 オデッサの移送は通夜のように静かだった。
 ヘラージョ・アプリティカをでて馬車に乗りこんだティカは、力なく背もたれに沈みこんだまま、口を閉ざしていた。
 夜空をふり仰げば、無数の星が散りばめられているというのに、無感動状態に襲われている。普段であれば柔らかく感じる月光も、雪片のように薄く、冷ややかにしか感じられない。
 クライ・エメラルドは想定以上の価格で売れ、オデッサを助けたというのに……ちっとも心が高揚しない。
 眩い夜空や、風情のある光景を見つめるでもなく、ただ遠くに焦点を結びながら、思索に耽っていた。
 いつになく悄気しょげている少年を見て、ヴィヴィアンは静かに切りだした。
「奴隷売買は、一朝一夕で解決できる問題じゃないんだ。何とかしたいと思うのなら、根気よく模索し続けていくしかない」
「……」
「仮に俺が、今日売られていた子供たちを全員買いあげたとしても、連中は売るのをやめるわけじゃない。今夜行われた人身売買は、この世界で起きている悲惨な場面の、ほんの一端に過ぎないんだよ」
「……苦しいです。僕はオデッサのことしか考えていなかった。オデッサは買ったのに、他の子のことは買わなかったと思うと……僕より小さい子たちばかりだった。僕は……っ」
 胸のあたりを掴み、ティカは血を吐くかのようにいった。ヴィヴィアンは俯いているティカの髪をそっと撫でた。
「アダムの調書をまとめたら、兄上たちにも報告するよ。時間はかかるかもしれないけど、いつか必ず処罰されるだろう。この世は因果応報だからね」
 俯いたままティカは頷いた。そのあともヴィヴィアンは気遣う言葉をかけてくれたが、ティカは一言も口を利かなかった。心のなかで怒りと苛立ちが渦巻き、言葉を発することができなかったのだ。
 憂鬱に耽っていたティカだが、そういえば、今日はまだ一度も少女の囁きを耳にしていないことに気がついた。荷台の水槽が気になり、後ろ窓をのぞきこんだ。
(オデッサ?)
 呼びかけてみたものの、少女は応じない。虚ろな表情で、俯きがちに視線を伏せている。ティカの憂鬱が伝染してしまったのかもしれない。
 ティカは、頭を一つ振って、オデッサのことに気持ちを集中させた。無限に落ちこむばかりではないけない。他の子は救えなかったが、少なくとも彼女を自由にしてあげられるのだ。そこに疑問を感じる余地はない。
 このあと、海岸までオデッサを連れていき、彼女が海に適合できるか様子を見る。大丈夫そうなら、造船所近くの沿岸に連れていく予定だ。そこは比較的に浅瀬で、彼女の天敵となりうる殺人魚はやってこないし、珊瑚や魚もたくさんいる。
 明日は船医のキーラにきてもらい、彼女の食餌や健康状態を診てもらうつもりだ。
「……よし!」
 ティカは、自分の頬をぴしゃりと叩いて、喝を入れた。ヴィヴィアンは不思議そうに首を傾げている。
「どうしたの?」
「いえ……」
 ティカは賢明の努力で、笑みに口元を緩めた。気持ちを切り替えねばなるまい。迷った時は基本に立ち帰るのみ。一つずつ、できることから始めるのだ。と、再び後ろ窓を覗きこみ、水槽のなかのオデッサに目を凝らした。
「ねぇ、オデッサ。大丈夫?」
 心に思ったことをそのまま声にだしてみたが、オデッサは返事をしない。
「海岸までもう少しだからね。すぐに海へいけるよ……ヴィー、あとどれくらいですか?」
 後半はヴィヴィアンを見つめていった。ヴィヴィアンは懐中時計を見て、
「あと半刻かな」
「オデッサ、聞こえた? あと半刻だって……ねぇ、オデッサ、聞いてる?」
 妙だな、とティカは訝しんだ。泉で話した少女とは思えないほど無愛想だ。
 ようやく、オデッサは顔をあげて水面から顔を覗かせた。何を喋るのだろうと見ていると、唐突に、旋律を紡ぎ始めた。
「オデッサ?」
 ティカは目を瞠った。ヴィヴィアンも驚いた様子で、後ろ窓に顔を寄せた。
「急にどうした?」
 と、ヴィヴィアン。
「判りません、なんだか様子が違うみたい……」
 うっとりするような美しい声だが、もの哀しい響き……妙に眠気を誘われる。
「この歌は……」
 ヴィヴィアンは警告を発するように呟いた。ティカもはっとして窓の外を見た。
 馬車の振動は不自然なほど緩やかになり、馬車を守る護衛兵たちは、居眠りの船を漕いでいる有様だ。
 ティカのなかで警鐘が鳴り響いた。緊急事態だ。とんでもないことが起ころうとしている。
「ヴィー……」
 隣を見れば、ヴィヴィアンも眠たそうに瞼を擦っていた。
「不味い、あの歌をやめさせないと……」
「オデッサ、やめて……」
 ティカは鋭くいったつもりだが、弱々しい、眠たげな声にしかならなかった。ヴィヴィアンはいよいよ険しい表情になり、ティカの肩に手を置いた。
「ティカ、馬車を降りろ。逃げるんだ……早く……」
 言葉の途中でヴィヴィアンは意識を手放した。背もたれに沈みこみ、瞼は完全におりている。
「ヴィー、だめ、起きて……オデッサ、歌をやめ……お願、い……」
 ティカは喘ぐようにいった。歌を止めたかったが、眠りの揺りかごに抗えず、窓に添えた指が滑り落ちたところで力尽きた。