メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

15章:アプリティカ - 7 -

 作戦会議から数日。
 その日は朝から雨が降っていたが、情報収集の任務に燃えるティカは、躊躇なく森に入った。
 しかし、オデッサの気配を感じられることもなく、精霊たちも沈黙していたので、これといった成果は得られなかった。肩を落として邸へ引き返したが、戻る頃には雲間から暖かな陽が差しこみ始めたので、沈んでいた心は上向いた。
 雨あがりの陽気に誘われ、猟犬のテンペストを連れて、造船所に向かうことにした。
 プラナタスの並木道を抜けて、煉瓦造りの町屋敷が立ち並ぶ通りにでると、テンペストの軽やかな足取りが、砂利の小径に軽快な音を響かせた。昨夜の雨でまだぬかるんでいてわだちが深く地面を抉っていたが、ティカは路肩によって草の上を歩いた。
 緑の瑞々しい匂いが辺りに満ちている。至るところに鳥がいて、雨で地表に姿を見せた虫をついばみに下りてきては、また木の枝に戻っていく。
 気持ちの良いことである。造船所が見えてくると、自然と笑顔になり、駆け足になった。
 高くなりつつある陽射しを浴びて、シャツの腕をまくりあげた大工たちが、あちらでもこちらでも動いている。木材や機材を運ぶ者、船板を削りあげる者、様々だ。
 入口で小柄な少年がきょろきょろしているのを見て、ダンカンはしかめつらをつくった。
「おい、坊主。そこで何してる?」
 男は腕を組み仁王立ちで睨みつけたが、ティカは臆することなく、それどころから橙の瞳をきらきらさせてほほえんだ。
「ダンカンさん、こんにちは!」
 ダンカンは一見強面だが、規律を重んじる親切な男で、労務者たちから尊敬されていた。資産家でありながら質素な暮らしをしており、労務者たちと小屋掛け暮らしをしている。
 事実、広大な造船所で、労働荷重や賃金不足を訴えるものは一人もいない。彼の熟練の技術とあまりに素晴らしい人柄のため、自然と周囲の尊敬を集めていた。彼は職人であり、生粋の紳士であり、ロアノスが特別に目をかけている造船所の支配人であり、年間数百もの取引をしている、やり手の事業家でもあった。
「キャプテンにはいってあるのか?」
 ダンカンは火のついていない葉巻を口にくわえて、マッチで火をつけた。
「アイ! テンペストが一緒ならいいよって」
 賢い猟犬は、返事をするようにひと吠えした。
「ならいいけどよ……おう、そういえばヘルジャッジ号の船底の測定が終ったんだ。今日から修繕作業に入るぜ」
 ダンカンが説明を始めると、ティカは生き生きと好奇心にみちて聴き入る姿勢をとった。
 少年の顔に浮かんだ、一遍の曇りもない、明るく清い畏敬の表情は、頑固なダンカンにも笑みをもたらした。
 その様子を、少し離れたところから、イアンは増悪の眼差しで見つめていた。ティカが一人になると、文句をいってやろうと後をつけた。
 油染みた茶色の布で両手を拭いながら、不機嫌そうに近づいてくるイアンを見て、ティカは身構えた。
「またきたのかよ」
 刺々しい口調で、イアンはティカを見下ろすようにしていった。
「いけない?」
「いい気なもんだな。仕事もせず、ただ見ているんだからさ」
 イアンは、怒りと痛みが入り混じった目で、ティカを見つめた。
「イアンは、どうしていつも怒っているの?」
「なんだと?」
「僕が働いていないから? 今は休暇中だけどね、航海の間は、毎日休まずに働いていたよ」
「そうかよ」
「造船所を見るのが好きなんだ。邪魔をしないように気をつけるから、ここにいてもいいかな?」
「嫌だね」
「どうして?」
「目ざわりなんだよ! お前は腰抜けの子犬だ。最初はサーシャ、今度はキャプテン・ヴィヴィアン。誰かに守ってもらわないと、一人じゃ歩けないんだろ?」
 イアンが劇的にぶるりと身を震わせてみせる。怒りに打ち震えるティカを見て、嘲るように鼻で嗤った。
「どうした、腰抜け。俺とやろうってのか?」
「僕は腰抜けじゃない!」
「なら、証拠を見せてみろよ」
 ティカは逡巡し、拳を構えた。
「どうした腰抜け、ほら、かかってこいよ!」
 ティカが鳩尾みぞおちに素早く拳を打ちこむと、防ぎきれずにイアンはよろめいた。ぎょっとしたようにティカを見ている。
「もうあの頃の僕じゃないよ。ヘルジャッジ号に乗って、何度も航海してきた。怖い敵とも戦ったし、深海にだって潜ったんだ」
 そういって、挑発するように手をくいっと曲げると、イアンは怒りに顔を歪めた。
「ティカのくせに!」
 腰を屈めて突進するイアンを、ティカは巧みにかわすと、尻を蹴飛ばしてやった。かっとなったイアンが土を掴み、ティカの顔面に投げつける。
「わぷっ!? ……このぉっ!」
 頭にきたティカは、格闘の型も忘れて、イアンに飛びかかった。たちまち二人とも地面を転がり、のたうち、取っ組み合いの喧嘩になった。互いの髪や服を引っ張り、鼻を殴りあい、無秩序混沌と化した。
 しかし、煌く土埃がおさまる頃には、ティカの優勢に傾いていた。イアンに馬乗りになり、拳骨で殴っている。
「参ったといえ!」
「いうもんか」
「参ったといえ!」
 ティカは攻撃の手を緩めない。イアンも気力を振り絞って、ティカの頬をぐいぐい押しのけた。
「くそぉ! お前ばかり、不公平じゃないか!」
 イアンは悔しげに叫んだ。
「何が!?」
「キャプテン・ヴィヴィアンの船に乗って……えらそうに!」
 その文句は、ティカには心底不思議だった。
「イアンだって、ダンカンさんの造船所で働いているじゃないか!」
「うるせぇ!」
「イアンは僕より計算も暗記も得意だし、素晴らしい造船所で働いているじゃないか!」
 ティカが怒鳴り返すと、イアンはかっとしたようにティカに掴みかかった。
「偉そうにいうなよ!」
「ちっとも不公平じゃないよ!」
「黙れよ腰抜け!」
「判らず屋め!」
 ティカは容赦なく腕を捻って転がし、そのまま締め技をしかけた。
「僕を馬鹿にすると、痛い目にあうぞ! 昔みたいに、やられっぱなしだと思うな!」
 鼻息荒くイアンをねじ伏せる。イアンは憤怒に顔を真っ赤にし、身を振りほどこうと、もがくばかりだった。
 やがて喧騒に気づいた従業員たちが、集まってきた。
「なんだなんだ、イアンが締めあげられているぞ」
 彼らは面白がるようにいうと、ぱんぱんと手を叩きながら仲裁に入った。
「ほらほら、喧嘩はよせ。二人ともぼろぼろだぞー」
 二人はもみくちゃになり、頬は赤く腫れ、鼻から血を流し、髪には土と葉がついている、目もあてられない有様になっていた。最後までティカの締め技を振りほどけなかったイアンは、地面を叩いて悔しがった。
「親方に怒られたら、お前のせいだぞ!」
「最初にやったのはイアンだよ! キャプテンに怒られたら、イアンのせいだからね!」
 ティカも怒鳴り返した。
 再び戦いが勃発しかけた時、ダンカンがやってきた。彼は咳払いし、厳しい一瞥を投げかけて大騒ぎを静めると、二人の少年を交互に見てから、イアンの頭を軽くはたいた。
 ほら見たことか――ティカは思ったが、悔しげに視線を落とすイアンを見て、すぐに良心の咎めに苛まれた。したり顔で黙っていることはできず、
「あの、親方……イアンと喧嘩して、ごめんなさい。イアンに殴られたけど、僕も殴り返しました」
 イアンは理解不能な奇妙な生き物を見るような目でティカを見ていたが、もう一度、ダンカンに向かって頭をさげた。
「親方、迷惑をかけてすみません。ティカがぼろぼろになったのは、俺のせいです」
「イアンよりはぼろぼろじゃないよ」
 ティカはすかさずつけ加えた。イアンは思わず握り拳を作ったが、ダンカンのひと睨みで大人しくなった。親方はイアンをじっと見下ろし、次にティカを見た。
「イアンが悪かったな。大丈夫か、坊主?」
「アイ、このくらい平気です」
 不服げな顔をしているイアンを見て、ダンカンはにやりと笑ってみせた。
「イアン、ティカに感謝しろよ。気に食わない奴も、喧嘩する奴もこの先五万と出会うだろうが、一緒に頭をさげてくれる奴は、そうはいない」
 まだ不満そうな顔をしている少年の頭を、大きな手でぐしゃぐしゃと撫でた。
「まぁ、いずれ判る日がくる。今日のことをよく覚えておけよ」
「……はい」
 イアンはしぶしぶといった風に頷いた。
「よし、判ったら仕事に戻れ」
「はい!」
 イアンは勢いよく頭をさげた。その声には、誠意と謝罪の気持ちがこもっていた。駆けだす前にティカを見て、唇を開きかけたが、何もいわずに倉庫に入っていった。
「坊主も、今日はもう帰れ。キャプテンに怒られたら、イアンを詫びにいかせる」
 ティカは苦笑いを浮かべた。
「大丈夫です、なんとかします……」
 仮にヴィヴィアンの前にイアンを連れていったとして、彼が素直に頭をさげるとは思えなかった。
 恐る恐る邸に戻ったあと、ヴィヴィアンに見つからないうちに着替えを済ませた。顔の傷は、ホリーが手当てをしてくれたが、誤魔化しようがなかった。夕食の席に座ると、ヴィヴィアンはぎょっとしたような表情で、
「その顔、どうしたの?」
 当然の疑問を口にした。
「転びました」
 憮然と答えるティカを、ヴィヴィアンは探るような目つきで見つめた。
「誰にやられたの?」
「……ちょっとした喧嘩です。でも、僕が勝ちましたよ」
 ティカが上目遣いに答えると、ヴィヴィアンは小さく笑った。
「なら、名誉の勲章かな?」
「アイ」
「じゃぁ、怒れないなァ……ほどほどにね。かわいい顔に傷を作ったらだめだよ」
「ごめんなさい……」
 ティカは照れて口ごもった。きつく叱られなかったことに安堵し、密かに胸を撫でおろす。
 ヴィヴィアンは芝居がかった仕草でグラスを掲げ、
「今夜は、ティカの勝利を祝って乾杯しよう。でも、次は相手を制裁するからね」
 優雅だが、脅すような口調でいった。ティカは苦笑いを浮かべつつ、彼の真似をしてグラスを掲げた。