メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

15章:アプリティカ - 2 -

 ヴィヴィアンは先ず、ティカを書斎に案内した。
 そこは彼の趣味が反映された部屋で、書き物をするための立派なマホガニーの机、読書をするのにぴったりの椅子が幾つか置かれ、部屋の両脇には蜂蜜色の暖炉があった。
 そして、裕福な書物蒐集家もしりごみするほど、美しく希少な書物で溢れていた。
 オークの棚には二万冊もの書物がずらりと並んでいる。細い階段をあがると、狭い通路につながり、棚の上の方にある本に手が届くようになっている。炉棚に立てかけてあるのもあれば、木製のキャビネットや長椅子の上、丸いコーヒー・テーブルの上にも、本が積まれている。
「……これ全部、ヴィーの本ですか?」
 美しくて希少な書物たち。黒や葡萄色の革表紙に金でした文字がなんとも豪華だ。
「そうだよ。しばらくここで過ごすから、あちこちに保管してある本を集めたんだ」
「へぇ~」
「ティカなら好きに出入りしていいよ。気に入った本があれば、部屋に持っていくといい」
「本当?」
 ティカは瞳を輝かせた。
「もちろん。読んだあとはローランドに預ければ、書架に戻してくれるよ」
 ヴィヴィアンはほほえみ、ソファーに腰かけると、ティカの手を引っ張って、膝の上に乗せた。
「それにしても、今朝は起こしてくれたらよかったのに。置いていくなんて酷いな」
 親密な距離でほほえまれて、ティカは朱くなった。
「ごめんなさい……」
 もぞもぞと膝から降りようとするが、ヴィヴィアンは優しく、だがしっかりとティカを拘束した。
「ティカ……」
 前髪を指で梳かれて、ティカの胸は高鳴った。青い瞳に熱っぽく見つめられて、直視することができない。さっきまでの寛いだ気持ちは、あっという間に霧散してしまった。
「俺が怖い?」
 ティカはおずおずと顔をあげて、謎めいた微笑を浮かべているヴィヴィアンと視線をあわせた。
「……いいえ、怖くありません」
「じゃあ、恥ずかしい?」
 ティカは頷いた。もはや身体中の細胞がヴィヴィアンを意識している。もう一度、膝から降りようと試みるが、彼はティカの肘を捕まえ、頭のてっぺんにキスを落とした。ティカの鼓動がどくんと音を立てる。
「キスしてくれる? そうすれば、今日はもう何も求めないから。約束する」
 ティカは驚きに目を瞠った。だが、返事も待たずに、ヴィヴィアンは瞳を閉じてしまった。
「え……」
 精緻に整った顔が目の前にある。けぶるような銀色のまつげ、すっと通った鼻筋……完璧な形の唇。おずおずと顔を近づけて、唇を押し当てた。そっと、慎重に。
 短いキスが終ると、ヴィヴィアンは瞼をもちあげて、蠱惑的にほほえんだ。
「おしまい?」
 これが精いっぱいだ。ティカが戸惑ったように視線を泳がせると、今度はヴィヴィアンの方から顔を寄せて、唇を重ねた。今度はしっとり、深く。
「……んっ」
 優しく下唇を吸われて、ティカは震える手でヴィヴィアンの襟を掴んだ。すぐに優しく力強い抱擁で答えてくれる。身体がとろけてしまいそうになるが、部屋に射しこむ明るい陽射しに、理性を呼び起こされた。
「ふぁ……こんなキスは、しちゃいけないんですよ」
「どうして?」
「だって、朝だから」
「休暇中だよ? 仕事もないし、ゆっくりしてもいいんじゃないか?」
 ヴィヴィアンは悪戯っぽく微笑し、ティカの首筋に顔をうずめた。
「あ……」 
 優しく、点々と肌を啄まれていく。ティカは思わずのけぞった。全身に火が点いたようになり、喉のあたりで心臓の鼓動が響いている。
「待ってください……っ」
 ティカは焦って顔を反らしたが、ヴィヴァンは構わずに襟に指をかけた。一番上の釦が外される。鎖骨のくぼみに、そっと唇が触れた。
「だ、ダメです!」
 ティカは一瞬の隙をついて、ヴィヴィアンの腕から逃れた。ハリネズミのように警戒している姿を見て、ヴィヴィアンはくつくつと笑いだした。
「判った。もうしないよ」
「う~……」
「ごめん、ティカがかわいくてつい……ほら、こっちにおいで」
 頬をふくらませるティカを見て、ヴィヴィアンは笑ってはならぬと笑いを噛み殺した。
「もう笑わないよ。ほら笑ってない」
 真面目な顔をするヴィヴィアンを見て、今度はティカが笑った。
「よし、探検の続きをしようか。暇潰しにうってつけの、遊び場を紹介するよ」
「やったぁ!」
 ティカは笑顔になり、今度は躊躇わずに、さしだされた手をとった。
 探検は有意義で非常に楽しく、何を見ても、好奇心をそそられた。
 幼少時代に毎年、夏の間をここで過ごしていたというヴィヴィアンは、邸のことは何でも知っていた。
 彼しか知らぬ仕掛けや、秘密の抜け道、子供時代の遊び道具なんかを、気前よく幾つも教えてくれた。
「子供の頃、この大廊下で徒競走をしていたよ。長くて真っすで、外の様子がよく見えて気持ちいいんだ」
 懐かしそうに語るヴィヴィアンを見て、ティカはほほえんだ。
「ヴィーの子供時代を見てみたかったな」
「絵でよければあるよ。見る?」
「本当?」
 ティカは目を輝かせた。
「おいで、こっちだよ」
 二人は、廊下の突きあたりにある、窓の並んだ広間へ入った。豪壮な部屋で、壁には金箔装飾の額縁におさめられた細密肖像画が、幾つもかけられている。
 ロアノス国王と王妃は、美しい容姿をしていた。どちらかといえば、ヴィヴィアンは王妃に面差しが似ている。
「綺麗なお母様ですね」
 ティカは見惚れながらいった。ヴィヴィアンは両手をポケットに突っこみ、穏やかにほほえんだ。
「ありがとう。意外と気の強い人で、頑固な父を従わせられるのは、母だけなんだ」
「へぇ~! ……こちらはお兄さんですか?」
「そう。皇太子のアルトゥルと第二皇子のエリアーシュだよ。二人ともティカに会いたがっていたよ」
 驚いた顔をするティカを見て、ヴィヴィアンはほほえんだ。
「今度、俺の家族に会ってくれる?」
 ティカは無言のまま、はにかんだ様子で頷いた。絵に視線を戻して、じっと眺める。二人とも実に容姿端麗である。ヴィヴィアンの家族。ロアノスで最も高貴な一族、王族の家系なのだと、いまさらながらに実感させられる。
 宮廷の礼服に身を包んだヴィヴィアンの絵を見て、ティカは足を止めた。端正な微笑を浮かべている肖像画と、本人を何度も見比べてしまう。その忙しない様子に、ヴィヴィアンは思わず笑った。
「似ている?」
「すごい、本物そっくりです! こんな風に描ける人がいるんですね」
「王宮専属の絵師だからね」
「僕は毎日ヴィーを見ているけど、とてもこんな風には描けないなぁ」
 ティカの前衛的な絵の才能を思いだして、ヴィヴィアンは声をあげて笑った。それから閃いたように、
「そうだ、今度ティカの肖像画も描いてもらおうか」
「えっ」
「時間はたっぷりあるし、王都から人気の絵師を呼ぶよ」
 ティカは目をぱちくりとさせた。
「絵を描くために? ここへきてもらうんですか?」
「そうだよ」
 彼が平然と肯定するので、ティカは慌てた。
「大変じゃありませんか? 僕、描いてもらわらなくても平気ですよ」
「俺は描いてほしい。ここにティカの絵も並べよう」
 明晰めいせきな口調で告げられ、ティカはおずおずとほほえんだ。
「……じゃあ、お願いします」
「うん、任せておいて」
 ヴィヴィアンは満悦そうに、ティカの肩を叩いた。
 ふと子供の頃のヴィヴィアンの肖像画を見つけて、ティカは立ちどまった。
「小さいヴィーだ!」
「十二歳くらいかな」
「天使みたいですね」
 聖書に描かれている、賢く美しい智天使を思わせる。見惚れるティカの頭を、ヴィヴィアンは優しく撫でた。
「ティカもかわいいよ」
「ヴィーの方が、ずっとかわいいですよ!」
 力強く断言されて、ヴィヴィアンは少し照れたように笑った。ふと何かを見つけたような顔になり、おもむろに出窓の方へ歩きだした。
 何だろうとティカが見守るなか、彼は窓のしたにある戸棚を開いた。
「やっぱり、まだあった」
 ティカも傍に寄ると、ヴィヴィアンは体をずらして場所を譲った。棚のなかには、ボードゲームや縄跳びにボール、積み木なんかが入っている。
「ヴィーの玩具ですか?」
「そうだよ。雨の日は、この部屋で兄たちと遊んだものだよ。暇を潰すのにもってこいなんだ」
 ティカは戸棚の前で屈みこみ、目を輝かせた。
「あっ! パズルだ! 部屋に持っていってもいいですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます! ヴィーも一緒に遊びましょう」
「いいよ」
 ティカはパズルを抱えてにっこりした。
「さて、そろそろ俺は書斎に戻るけど、ティカはどうする?」
 戸惑った顔のティカを見て、ヴィヴィアンは笑った。
「邸のなかでも庭でも、この敷地内なら、自由に過ごしていいよ」
「庭にいってもいいですか?」
「もちろん。庭のことなら、サムに聞いてみるといいよ」
「サム?」
「この邸の庭師で、森番もしているんだ。猟師の家系で、森や馬にも詳しい。彼に訊けば、なんでも教えてくれるよ」
「へぇ!」
 ティカの胸は期待に膨らんだ。ヴィヴィアンと廊下で別れると、一旦パズルを置きに部屋に戻り、それから庭に向かった。
 このあと何をしようか? 選択肢を与えられるのは久しぶりのことだ。
 船ではやることが山ほどあった。朝も昼も甲板で働き、休憩のあとはオリバーと夜直に就いて、夜明けまで水平線を見張っているのだから。
 道すがら、幾つも楽しい考えが浮かび、ティカの足取りは自然と軽くなった。