メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

14章:帰郷 - 2 -

 期号ダナ・ロカ、一五〇三年九月二十二日。早朝。晴天。
 ヘルジャッジ号は大檣帆メインスルと二つの斜檣帆ジブとを張っていて、黒い帆で東風を受けていた。聳え立つ帆柱の頂きでは、髑髏とダイヤモンドの海賊旗ジョリー・ロジャーが悠々と靡いている。
 好天が続いており、既にロアノス領海にも入っているため、甲板にでている船員たちの顔は寛いで見える。
 陽射しのした、檣桜しょうろうで見張りについている水夫の顔が、ぱっと輝いた。
 きらめく水平線の彼方に、うっすらと陸の陰影が浮かびあがったのを発見したのだ。
「パージだぞう!」
 彼が声を張りあげると、他の船員も競うようにして最上甲板ハリケーン・デッキに駆けあがってきた。
「ひゃっほーぃッ!」
「おお、我等がパージ・トゥラン! 夢にまで見た都に着いたぞぉ!」
 彼等は口々に喝采を叫び、待望の光景に狂喜乱舞した。ある者は興奮のあまり、服を着たまま海へ飛びこんだ。
 後檣ミズンマストの傍で、吊索ちょうさくの点検をしていたティカとオリバーも、顔を見合わせ笑顔になり、船縁ふなべりに駆け寄った。
「久しぶりの陸だなぁ!」
 オリバーの嬉しそうな声に、ティカも満面の笑みで頷いた。
「王都に帰ってきたね!」
 色彩豊かなパージ・トゥランは、離れていても、湾と大空に映えて眩しかった。王都に相応しい、耳をろうさんばかりの喧騒が今にも聞こえてきそうだ。
「あぁ、パージの匂いがする」
 肺いっぱいに空気を吸いこめば、コールタールと潮の入り混じった匂いに、華やかなジャカランダの香が鼻腔をくすぐる。
「ティカは俺より鼻が利くね」
 オリバーは笑っていったあと、ティカと同じように両腕を広げ、深呼吸をした。
 誰も彼もが笑顔になっている。ボーラとロダンがドラムを鳴らすのにあわせ、足でリズムを刻んだ。明るい陽射しのなか、彼等は船縁に顔を並べ、焦がれ続けた光景にしばし魅入った。
「おら、ぼさっとするな! 手を動かせ、野郎共!」
 サディールの声に、浮かれていた兄弟たちは我に返り、それぞれの持ち場へ戻った。
 湾に近づくと、それまで吹いていた微風がぱたりとやんだ。水面はなめらかになり、凪ぎの海は青く輝いている。船員たちは帆をきっりち畳み、巧みにかいを操って船を内港へと導いた。

 ガロ=セルヴァ・クロウ連合王国、王都パージ・トゥラン。
 世界有数の貿易港は、あいかわらず賑やかで狂騒的である。
 大洋の品々を乗せた幾つもの大型快速帆船が帆を畳んで湾に入り、はしけせわしなく埠頭に行き来している。
 スパイスの香り漂う波止場では、まだ喫水線の浅い、マストが何本も聳え立つ巨大な艦船かんせん数隻に物資が積みこまれている最中だ。海賊を取り締まっている僚艦りょうかんの加勢や、海戦に向かっていくのである。
 ヘルジャッジ号も世界的な海賊船だが、軍港に堂々と寄港できるのは、この船がロアノス公認の私掠船しりゃくせんだからである。
 内海をとりまく肥沃ひよくな海岸沿いの住人たちは、一年ぶりに寄港したヘルジャッジ号を一目見ようと、早朝から桟橋に押し寄せていた。彼等は、黒塗りの海賊船が湾に入ってくるのを見て、歓迎と畏敬の念をこめて拍手喝采を送った。
 熱狂的な歓迎に、船員たちは気をよくして手を振っているが、クールな一等航海士シルヴィーは苦い顔を浮かべていた。人が集まりすぎているので、このあとの荷卸しを心配しているのだ。
「畜生、野次馬は近づけるなとあれほどいっておいたのに……ヴィーに頼んだ俺が馬鹿だった」
 悔しそうに呟いている。
 だが、集まっている野次馬――群衆はご機嫌である。
「キャプテン・ヴィヴィアンだ!」
 誰かが歓喜を叫んだ。我らがキャプテン・ヴィヴィアンが砲列甲板の船縁に姿を見せると、わっと拍手喝采が沸き起こった。
 押しかける大衆の殆どにとってそれは、肉体をそなえた伝説上の人物に出会うようなもので、興奮するなという方が無理な話であった。幾つもの歌や詩が、彼の大胆不敵な冒険のいさおしを褒めたたえている。キャプテン・ヴィヴィアン――その名を知らぬ者が、果たしてこの世にいるだろうか? 
 ヴィヴィアンが颯爽とタラップを降りると、新聞記者たちにより、眩いばかりのフラッシュが焚かれた。波止場に降りた英雄に、一斉に群がり集まる。
「お会いできて光栄です、キャプテン・ヴィヴィアン! 一年ぶりのパージはいかがですか?」
「お帰りなさい、キャプテン・ヴィヴィアン! 無限幻海から生還したと噂ですが、本当ですか?」
「キャプテン・ヴィヴィアン! カルタ・コラッロではどんな宝石を手に入れたのですか?」
 競うように質問を浴びせかける記者たち。ヴィヴィアンは鷹揚に一つ頷き、すっと手をあげて、彼等の興奮とざわめきを静めた。
「親愛なる諸君、暖い出迎えに感謝するよ。俺からの贈り物を受け取ってくれ」
 そういって指を鳴らすと、ぽんぽんっと小さな包みが宙に現れ、群がる市民、記者たちの頭上に雨霰あめあられと降り注いだ。
「お菓子だわ! まぁっ、真珠が入っているわ!」
「こっちは純金だ!」
 歓喜の声があちこちから発せられた。たちまち港には、喜びと興奮が渦巻いた。
「東洋のナッツをからめたキャラメル、ベリーのぐみ、無花果も入っているよ。それから宝石もね」
 そういってヴィヴィアンは、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「「ありがとうございます! キャプテン・ヴィヴィアン!」」
 悦びの声が幾つも重なった。ヴィヴィアンは帽子を手にとり、恭しく胸にもっていくと、気取った仕草でお辞儀をした。
 そのちょっとしたパフォーマンスを、シルヴィーは船縁からうんざりしたように見下ろしていた。
「あいつがいると、荷卸しがちっとも進まないな」
 不機嫌そうにぼやく航海士の隣で、ティカは苦笑いを浮かべた。甲板部員であるティカも、これから荷卸しを手伝わなければならないのだが、波止場は押し寄せた群衆に占拠されている状態だ。
 仕方がないので船員たちは、観衆が少し落ち着くまで、甲板からヴィヴィアンによる独壇劇場をしばし鑑賞することにした。
「キャプテン・ヴィヴィアン、王都にはどれくらい滞在される予定ですか?」
 目を輝かせて記者の一人が訊ねた。
「七日後には、アプリティカに船を動かすよ。しばらく造船所に船を預ける予定だからね。休暇中は、夜会にも顔をだすと思うから、どうぞよろしく」
 魅力的な笑みを浮かべるヴィヴィアンに、またしても無数のフラッシュが焚かれた。
「アプリティカのオークションの狙いは何ですか?」
 別の記者からの質問に、ヴィヴィアンはほほえんだ。
「それは秘密だよ。カーヴァンクル号から仕入れた、とびきりのエメラルドも出品するよ。競売会で披露するから、ぜひとも見にきてくれたまえ」
 ヴィヴィアンは自信たっぷりにいって、片目を瞑ってみせた。
 波止場に溢れる、ときめきを孕んだ無数のため息。主に女性の、時に男性の。愉快で頭の回転が速く、とびきり魅力的な無限海の大海賊に、誰もが虜になっていた。
 尚、カーヴァンクル号が実はヘルジャッジ号であることは、世間には秘密にしているので、エメラルドの入手元はカーヴァンクル号だと、ヴィヴィアンはわざわざ口にしたのである。
 ふいに取材陣がカメラの向きを変えた。面紗ヴェールを被った女性が現れたのだ。
 彼女がおもむろ面紗ヴェールを持ちあげると、薄絹から顕れた女神もかくやという美貌に、周囲から賛嘆の声があがった。
 最先端の髪型に整えられた、鮮やかな金赤色の髪が日射しを浴びて燦然さんぜんと煌ている。顔に沿って幾筋か垂らした巻き毛は肩を撫で、濃いブルーの絹のドレスが身体に纏いつき、見事な肢体を引きたたせている。大胆に開いた胸の開きに大粒の紅榴石ガーネットが輝き、男ならば視線を惹きつけられずにはいられないだろう。
 彼女のくっきり明るい青い瞳が、ヴィヴィアンを認めてぱっと嬉しそうに輝いた。
「会いたかったわ! キャプテン・ヴィヴィアン」
 彼女は、他人の目を気にすることもなく、恋する乙女のような仕草でヴィヴィアンの首に腕をからませた。
「あのひとは……」
 その様子を船縁から見下ろしていたティカは、記憶を探るように呟いた。見覚えのある女性だ。確か、パージ港を出航する際に、見送りにやってきた女性の一人である。
 彼女は大胆にもヴィヴィアンに豊かな胸を押しつけ、頬にキスを贈った。ドラマティックな絵に、眩いばかりのフラッシュが焚かれる。
 ばっちり見てしまったティカは、小さな雷に打たれたように目を瞠った。
「ユージニア・グアンタモナ。キャプテンの過去の恋人の一人だよ」
 同じく隣で見ていたオリバーがいった。ショックを受けている様子のティカを見て、
「心配しなくても、キャプテンはティカ一筋だよ。もう彼女のことは何とも思っちゃいないさ」
 慰めるようにつけ加えたが、ティカにはそうは見えなかった。ユージニアは親しげにほほえみ、ヴィヴィアンの頬に手を伸ばしている。彼はその手を優しく剥がしたものの、満更でもなさそうな様子で明るい笑みを浮かべているではないか。
 表情を曇らせるティカの肩を、オリバーは元気づけるように抱き寄せた。いつもするように、頭をこつんと軽くぶつける。
「どの港に寄ってもキャプテンは人気者だろ? いつものことさ。気にするなって」
「……うん」
 ティカは力なく頷いた。ヴィヴィアンは人気者――よく知っているが、あんな風に親密な距離で笑みを浮かべている彼を、少しばかり恨めしく思ってしまう。
 傍にブラッドレイがやってきて、ティカの視線を辿り、ひゅぅっと口笛を吹いた。
「わぉ、いい女」
「煩いよ、ブラッドレイ」
 にやにやしている兄弟を叱りつけるように、オリバーはぴしゃりといった。
 ティカはすっかり悄気しょげてしまった。二人は全くの美男美女で、甲板から見ている自分を、山猿のように感じてしまう。
「――おい! 誰か下にいって、ヴィーをどかしてきてくれ!」
 ついに我慢の限界に達したシルヴィーが叫んだ。
 我に返ったティカが甲板を振り向くと、ロザリオが煙草を咥えながら桟橋に降りるところで、彼は巧みに記者の群れをかきわけ、ヴィヴィヴァンの隣に並んだ。
「「おおぉっ! ヘルジャッジ号の剣銃士だ!」」
 騒ぎは収まるどころか、一層どよもした。
 ロザリアは、沸き立つ群衆の期待に応えて、ヴィヴィアンと肩を組んでみせた。次の瞬間、眩いばかりのフラッシュが焚かれたのはいうまでもない。しかし、彼は気前よく写真撮影に応じたあと、そのままヴィヴィアンを連れて、ゆっくり広場の方へ移動し始めた。
「……群れてる魚の渦みたいだな」
 オリバーが呟いた。ティカも同じことを思った。ともかく、波止場がようやく空いたので、シルヴィーの顔に笑顔が戻った。
「よし! 今のうちに荷卸しを終わらせよう」
「「アイ・サーッ!」」
 兄弟たちは威勢よく答えると、てきぱきと動き始めた。その手順は、驚くほど整然としていて手際がいい。ティカも袋を担ぎ、波止場から荷揚げ甲板に渡された弾力的な板の上を、何度も行ったり来たりした。
 たちまち波止場は荷積みの山で溢れかえった。
 シルヴィーとサディールの指示で、珈琲や砂糖、香辛料、樽積めの牡蠣かきや小麦粉、葡萄酒の数々が大型自動車に積まれて運ばれていった。
 最後に第四甲板の船艙、宝庫に保管されていた金品の半分が下ろされた。船員が慎重に作業する様子を、ユヴェールは砲列甲板に立って監督している。金銀の揚陸ようりく作業は彼の管轄なのだ。
 大小様々な銀貨が十三ひつ分、およそ五十キロの金、銀の延べ棒二十トン。真珠やエメラルド、サファイヤといった貴石の数々、三十箱がおろされた。想像を絶する財宝だが、これでもまだ半分である。
 これらのうち一割は、王に進呈する為に、王宮の紋章の入った自動車に乗せられた。残りは銀行に預けられ、未だ船にある財宝はアプリティカでおろされる予定だ。
 賑々しかった波止場は一転して、物々しい雰囲気を醸していた。
 想像を絶する高額な品々を守るために、武装した船員の他にも、銀行から派遣された警備員、軍の憲兵隊が警備についている。彼らが睨みを利かせるなか、途方もない財宝は陸へ運びこまれた。
 尚、ヘルジャッジ号の膨大な収益は、世界中の銀行に預けられている。特に大きな五つの銀行には、多額の資金を預けてあり、このパージ・トゥランもその一つだ。シルヴィーやユヴェールの勧めに従い、それぞれ個人口座に預けている船員も少なくなかった。