メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

14章:帰郷 - 1 -

 期号ダナ・ロカ、一五〇三年七月七日。
「「船長キャプテン! 誕生日おめでとうございまーす!」」
 陽気な船員たちの声が、ごった返し部屋――第二甲板の食堂に響き渡った。
 ヴィヴィアンの二十六歳の誕生日を祝って、今夜は無礼講、豪勢な海の幸、羊に牛肉、とっておきの葡萄酒が振る舞われていた。
 船員に囲まれてご機嫌なキャプテン・ヴィヴィアンは、黒いズボンと上着に銀色のベストというシンプルな装いで、年代物のウィスキーを飲んでいる。
 その様子を、ティカはそわそわしながら見守っていた。この日のために、ちょっとした贈りものを用意しているのだが、うまくいくかどうか心配しているのだ。
「ほら、ティカ。出番だぞ!」
 ドラムを鳴らしている義足のボーラが、小声でティカに呼びかけた。
「アイ……」
 ティカは緊張気味に返事をすると、皆の前におずおずと進みでた。視線が集中して非常にやりづらい。ヴィヴィアンと目があうと、彼は碧眼を期待に煌かせて、にっこりほほえんだ。
(き、緊張するなぁ……)
 ティカは顔を赤らめ、ぎこちなくお辞儀をすると、視線を反らさぬよう意志の力でヴィヴィアンを見つめた。
 大丈夫。
 この日のために密かに練習をしてきたのだ。きっとうまくいく。ヴィヴィアンに喜んでほしい――心を決めて、肺いっぱいに息を吸いこんだ。

 お誕生日おめでとう、ヴィヴィアン
 今日は素晴らしい日
 我が悦び、愛しき命よ
 この世界に生まれてきてくれてありがとう
 貴方に出会えて、私はとても幸せ

 とても有名なお祝いの歌である。ティカが歌い始めると、面白がるように見ていた海賊たちの顔は、驚いたものに変わり、はては賛嘆めいた光さえ浮かべた。
 少なくとも四ヶ所は音程を外していたが、きらきらと透き通ったティカの歌声は、変声期を経て尚、無垢な天使のようだった。

 お誕生日おめでとう、ヴィヴィアン
 今日は素晴らしい日
 曙の光よ、未来を照らす灯火あかり
 この世界に生まれてきてくれてありがとう
 ありがとう、ありがとう……

 光輝の福音ふくいんを受けて、後半の拍子は皆が声をあわせ、賑やかな大合唱となった。
 歌い終わり、ティカがお辞儀をすると、やんやと拍手喝采が沸き起こった。
「いいぞ――ッ!」
 オリバーが叫んで、ぴゅーっと指笛を吹いた。ヴィヴィアンは席を立ち、両腕を拡げながらティカを迎えた。
「ありがとう、ティカ! 嬉しいよ」
 ぎゅっと抱きしめられ、腕のなかでティカは照れ笑いを浮かべた。
「おめでとうございます、キャプテン。上手に歌えなくて、ごめんなさい」
「とんでもない、聞き惚れたよ! 今までに聞いたどんな歌声よりも、心に響いた。天から贈りものを授かったような気分だよ」
 そういって、頭のてっぺんにキスを落とす。見守っていた兄弟たちは、指笛を鳴らし、盛大な野次を浴びせかけた。
「ティカ、やるじゃねぇか~!」
 と、ボーラが濁声だみごえでいう。
「意外な特技があったものだな」
 壁にもたれて酒を飲んでいるシルヴィーまでもが、感心したようにいった。
「驚いたぜ! また歌ってくれよ!」
 班仲間のブラッドレイやセーファスも笑顔で労った。すっかり気をよくしたティカは、照れ隠しに頭を掻いてみせた。
「そうかなぁ? 僕、歌で食べていけるかなぁ?」
 途端に部屋にこだまする、呵々かか大笑。
「そりゃ、調子に乗り過ぎだろ」
「やってみろよ! 酒場に立つなら見にいくぜぇ」
「というかお前、金の勘定はできるのか!?」
 海賊仲間は愉快そうに笑っているが、ヴィヴィアンは密かに感動していた。
 王宮にいた頃は、誕生日ともなれば王宮楽師たちが最高の音楽を演奏したものだが、ティカの歌声はこれまでに聴いたことがないほど、福音書的な響きを心の奥深くにまでもたらした。
 人の歌声にこれほど心を打たれのは初めてのことで、深甚しんじんなる賛嘆の念が油然ゆうぜんとして沸いてくるのだった。
 彼がそれほどまでに感動しているとは知らず、ティカは何の打算もなく、ただ照れ臭そうにはにかんでいる。その純真な姿に、ヴィヴィアンの心は一層温まるのだった。

 零時を過ぎる頃には、ティカはすっかり泥酔していた。船長室キャプテンズデッキに戻ろうにも千鳥足で、ヴィヴィアンに腰を支えてもらいながら、どうにか歩く有様である。角を曲がったところで、ティカは唐突に足を止めた。
「どうしたの?」
 気持ちが悪いのかと心配して、ヴィヴィアンは身を屈めて顔をのぞきこんだが、ティカはおもむろに腕を伸ばしてヴィヴィアンの髪を撫でた。
「すごい、さらさらだ……っ!」
 滅多に動じないヴィヴィアンが、咄嗟に反応できず、目を瞬いた。
「……そう?」
「アイ……髪が、さらさら……している!」
「……まぁね。ほら、こっちだよ」
 髪に触れてくる手に好きにさせながら、しっかりと腰を支え直した。酔っているせいで、いつもより暖かな体温が、肌寒い夜気のなか、心地よく感じられた。
 船長室キャプテンズデッキに戻り、ベッドにおろすと、靴を脱がせてベルトもはずしてやった。自分も上着を脱いで隣に並ぶと、ぼうっとしているティカの顔を覗きこんだ。
「水を飲む?」
「アイ……」
 呂律も危うく、だらしのないことである。ティカにはキャプテンに迷惑をかけている自覚があったが、へろへろの身体はどうにもならなかった。
「ほら、ゆっくりお飲み」
 幸い、ヴィヴィアンは怒っていないようだ。穏やかな眼差しでティカを見つめている。
「ありがとうございます……」
 ティカは両手でグラスを受け取り、ゆっくり檸檬水で喉を潤した。一息つくと、感謝の眼差しでヴィヴィアンを見つめ返した。
「僕……この船に乗ることができて、ヴィーに会えて、本当に幸せです」
 ヴィヴィアンはほほえんだ。優しくティカの肩を抱き寄せ、額に唇を押し当てた。
「それは俺の台詞だよ。ティカの傍にいると、嬉しいという感情が驚くほど頻繁に湧いてくるんだ。今夜もすごく嬉しかった。また歌ってくれるかい?」
「アイ、もちろんです……」
「ありがとう、ティカ。君は俺の宝物だよ」
 暖かく輝く優しい声は、ティカの耳に愛撫のように響いた。長く繊細な指に優しく髪を梳かれ、心地いい眠気を誘われる……目を閉じかけた時、頬に唇が触れた。
「ティカ」
 瞼をもちあげると、熱っぽい瞳と視線がぶつかった。思わずどきっとなり、身体が強張る。彼はティカの腰に腕をまわし、軽くのけぞらせた。
「ん……っ」
 唇を重ねあわせ、優しく啄むようなキスが繰り返される。ヴィヴィアンは唇を動かし、そっと舌でティカの唇に触れ、やがて大胆に舌に触れてきた。
「ん……っ」
 思わず声が漏れてしまう。眠気は遠のき、心臓が騒ぎ始めた。
「ヴィ……待っ……!」
 服のなかに手が忍びこみ、ティカは反射的に体を離そうとするが、強く抱きしめられて距離をとれない。キスがいつまでも続く。舌と舌が触れ合い、強く舌を搦め捕られ、ティカの声も次第に甘く溶けた。
「ふわぁ……っ……んん」
 広い肩を掴んでしがみつけば、彼も両腕をティカの背中に回し、ぴったりと抱き寄せた。掌に、硬い筋肉の躍動が感じられる。
「ティカ……」
 ヴィヴィアンは囁きながら、掌をティカの頭のうしろにあてがい、より深く唇を重ねあわせた。もう片方の手でティカの背中を撫でおろし、丸い尻を包みこみ、下腹部を密着させる。
「んんっ!」
 貪るようなキスに、瞼の奥に青い閃光が光り、飛び散った。素晴らしく気持ちよくて、唇が離れたあとも、ティカは茫然自失状態だった。うっとりするような美貌を見つめて、もう一度首に腕を回した。
「大好きです」
「俺は愛している」
「僕も、あ、あい、あい……」
 途端にもじもじするティカを見て、ヴィヴィアンは堪えかねたように吹きだした。
「アイアイ、判っているよ! ……全く、このかわいい子はどうしてくれよう。誰にもとられないように、鳥籠にいれて閉じこめておかないと」
 身を包む甘い気だるさに抗えず、ティカはぐったりとしてヴィヴィアンにもたれた。
「そんなのなくたって、僕はヴィーの傍から離れません……ょ……」
 語尾は不明瞭に溶けて、ヴィヴィアンの腕のなかで温かな身体は弛緩した。
「……ティカ? あれ、寝ちゃった?」
 ヴィヴィアンが顔を覗きこもうとすると、ティカは寝言を呟いて身を寄せてきた。その寝顔はあどけない。ぐっすり眠っているせいで、体温が高く、ふっくらしていて無防備だ。
「ヴィー……ふぴぃ~……」
 間抜けな寝言に、ヴィヴィアンは忍び笑いをもらした。不完全燃焼な欲情を宥めながら、額にかかった髪をうしろに撫でてやる。これが幸福というものなのだろう……腕のなかの少年が愛おしくてたまらない。
「お休み、ティカ……」
 なめらかな額に唇を押しあて、ヴィヴィアンは囁いた。目を閉じて、ゆっくりと息を吸いこむ。ティカの鼓動や息遣いを感じながら全身の力を弛緩させ、やがて穏やかな眠りを結んだ。