メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

14章:帰郷 - 10 -

 しばらく走ると、見事な並木道に入った。
 街路には虹色を帯びた灰色の煉瓦が敷き詰められ、樹齢百年を超えるようなプラナタスの幹が、左右に整然と並んでいる。
 アプリティカは晩秋に美しい。夏が過ぎ、木々の色づきは最高潮を迎えている。あと数日もすれば、湖沼地帯はどこまでも続く、金襴緞子きんらんどんすの絨毯を拝めるだろう。
「綺麗だなぁ」
 ティカがしみじみとつぶやくと、ヴィヴィアンも窓の外を眺めて、目を細めた。
「燃えるような色彩だよね。ティカの瞳の色みたい」
 ティカはほほえみ、再び窓を開けて、顔を突きだした。
 涼風と落ち葉の柔らかな匂いが流れこんでくる。生動する十月の涼しい大気が、遠く離れたところまで、花の香を運んでくるようだった。
 やがて長いプラナタスの並木道の先に、邸が見えた。
 芝生が奥深く広がる前庭の向こうに、赤煉瓦の立派な邸が建っている。巨大な曲面硝子をいれた曲線型の張りだし窓が目を引く。暮れなずむ空を映して煌めく様は、絵画のように美しい。
 別荘と聞いて、ティカは島で見たバンガローを想像していたが、まるで見当違いだった。城にも劣らぬ立派な邸である。
 金銭のことに疎いティカでも、ヴィヴィアンが途方もない資産を有していることは、疑う余地がなかった。
 邸のアーチ型の門の前の脇に、大きなアカシアの木が立っていた。丸い樹冠はそよ風に吹かれ、道の上に優しい影を揺らめかせている。ティカは、一目でその木が好きになった。
「大きな樹だなぁ」
 車窓から身をのりだすようにして眺めるティカにつられて、ヴィヴィアンも体を窓の方に寄せた。
「俺が子供の頃からある樹だよ。よく登って怒られたな」
「ヴィーも樹に登るんだ!」
「昔はね」
 馬車は速度を落として、正門をくぐった。
 邸は二階建てで、左右に円錐型の屋根を戴いた塔部屋があり、どの窓にも高価な硝子が嵌めこまれている。
 二階の正面には大きくて広いポーチがあり、燦爛さんらんと紫に咲きほこる、藤や蔓薔薇、クレマチスが手すりから壁まで這いあがっている。ちょうど今、庭師が梯子にのぼり、剪定ばさみで、窓や戸口にかかる蔓を切っているところだ。
 車を降りると、ヴィヴィアンはティカの肩を抱いて邸へ向かって歩きだした。
「あ、馬がいる!」
 ティカが立派な厩舎を指さすと、ヴィヴィアンはにっこりした。
「今度、乗馬を教えてあげるよ」
「本当!?」
「ああ、約束する」
「やったぁ!」
 ティカは有頂天でいった。ずっと乗馬をしてみたいと思っていたのだ。
 玄関の外に、身なりの良い初老の男性と、使用人が数人立っていた。視線で問いかけるティカを見て、ヴィヴィアンはほほえんだ。
「これから半年間はここで過ごすから、使用人を呼んだんだ」
 ヴィヴィアンの言葉にティカは驚いた。専属の使用人がいる生活なんて、想像もつかない。
「お帰りなさいませ、旦那様。ティカ様。私は執事のローランドです。半年間、お世話をさせていただきます」
 ローランドは、慇懃いんぎんな物腰でお辞儀をした。ティカは慌てて頭をさげ、
「アイ、サーッ! よろしくお願いします」
 威勢の良い返事に、隣でヴィヴィアンが吹きだした。ローランドも灰色の瞳を細めている。厳格で生真面目そうに見えたが、ほほえむと印象がぐっと柔らかくなる。
「私に敬称は要りませんよ。どうぞローランドとお呼びください」
「ありがとうございます、ローランドさん、これからお世話になります」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
 ティカは使用人たちにも笑顔で挨拶をした。自己紹介を終えると、使用人が左右によけて、両側から扉を開いた。それは白い瀟洒な扉で、二つ扉の上部には、色硝子をはめこんだ大きな扇窓がついている。
 扉の前で立ち止まり、ヴィヴィアンはティカを見つめた。
「ようこそ、我がアプリティカの別荘へ」
 ヴィヴィアンは気取った口調でいうと、そっとティカの背中を押して、優しく招きいれる。
「すごい……」
 唖然茫然、立ち尽くすティカを見て、ヴィヴィアンは得意そうに笑った。
「気に入った?」
 ティカは惚けたように頷いた。邸の見事さに見惚れていたこともあるが、初めて見るはずなのに、不思議な既視感を覚えたのだ。
「すごいや……本当にヴィーのお家ですか?」
 ヴィヴィアンは笑みを深め、
「他に誰の家だと思うの?」
「判らないけれど……すごく立派で大きくて、綺麗だから」
「ここより、実家の方がすごいよ」
 実家とは、いわずもがな王城のことである。
「ひぇ~……」
 そうであった。彼は海賊業をしているが、このうえなく高貴で輝やかしい人物でもあり、その正体はロアノス王国の第三王子なのである。
 広々とした玄関広間は、方尖柱オベリスクが硝子の円天井にむかって聳えたっていた。
 垂れさがる水晶の円環照明が、甘美な輝きを放ち、鮮やかな瑠璃色と緋色を織りこんだ東洋の絨毯を照らしている。
「すごいなぁ……」
 先ほどから、感嘆のため息を何度ついただろう? 落ち着きなく、辺りをきょろきょろしているティカの肩を、ヴィヴィアンは軽く叩いた。
「ところで、お腹が空いただろう?」
 ティカは思いだしたように両手でお腹をさすり、
「お腹ぺこぺこです」
「だと思ったよ。晩餐にしようか。腕のいい料理人を呼んであるから、きっと美味しいぞ」
 二人が応接間に移動すると、後ろをついてきたローランドが控えめに口をはさんだ。
「ティカさまは、何か苦手な食材はございますか?」
 ティカは彼を振り向いて、かぶりを振った。
「僕、何でも好きです。どんな風でも、用意していただいたままで、いただきますから」
 深々とお辞儀をするティカを、執事は好ましい者を見る眼差しで見つめた。
「かしこまりました。では、こちらで少々お待ちくださいませ。準備が整いましたら、お呼びに参ります」
 一礼して部屋をでていくローランドを見送り、ティカは改めて室内を見まわした。
 広い応接間は美しかった。硝子塗装された白い壁が、清潔感を感じさせる。窓際に置かれたオーク材の長テーブルはぴかぴかに磨きあげられ、まるで鏡のようだ。
「ティカにプラムの食前酒をつくってあげる。そこに座って」
 ヴィヴィアンはカウンターの奥に立つと、慣れた手つきで未開封の瓶をあけた。
 ティカは背の高い椅子に座ると、魔法のように鮮やかなヴィヴィアンの手もとに目が釘づけになった。間もなくさしだされた細いグラスに、恐る恐る口をつけ、目を輝かせた。
「美味しい!」
「気に入った?」
「とても!」
 ヴィヴィアンはにっこりした。ティカのために違う味のカクテルを作り、ティカが二杯を飲み干したところで、ローランドが呼びにやってきた。
 食事専用の部屋は、あの巨大な張りだし窓のある広間だった。天井は高く、贅を尽くした豪奢な空間だ。
 長テーブルには、様々なポッドや銀食器が置かれ、瑞々しい生花で飾られている。ヴィヴィアンの計らいで、食器はテーブルの端と端ではなく、隣あった席に設置されているのだが、それでもなおティカは緊張した。
 ぎこちなくテーブルにつく少年を見て、ヴィヴィアンはほほえんだ。
「楽にしていいよ。ここには俺とティカしかいないんだから、格式ばった礼儀は不要だ」
「アイ……」
 ティカはまだ緊張していたが、さやえんどうとマッシュルームのサラダ、牛肉の赤葡萄酒煮。とどめに砂糖がけのプラムが運ばれてくると、マナーも忘れて歓声をあげた。
「やったぁ! プラムだ!」
 下唇にソースがつき、それを舌で舐め取っていると、ヴィヴィアンの視線を感じた。ティカが首を傾げると、碧眼がふっと優しく笑う。
「……美味しい?」
「とっても!」
「良かった」
 暖かい料理を食べ終えると、素晴らしく豪華な寝室に案内された。
 壁を背に、胡桃材で造られた立派な四柱式のベッドが鎮座しており、毛の長い絨毯の上に脚のせ台が置かれている。
 こんな豪華な邸にティカが泊まるなど、一体、誰が想像しただろう? これから半年間をここで過ごすことが信じられない。どの部屋にも緑や花が飾られていて、窓の外からは、薔薇が香っているのだ。
「は~……広いなぁ……」
 呆然と呟くティカの肩を、ヴィヴィアンは優しく抱き寄せた。
「やっと二人になれた」
 髪にキスをされて、ティカは強張った。打ち解けた雰囲気が、急に熱を帯びた親密なものに変わったように感じられた。
「あのっ」
「ん?」
「ここで僕、何をすればいいでしょうか?」
「なんでも、好きなことをすればいいよ」
「でも、当直も甲板の仕事もないし、船を降りて、僕にできることってあるかなぁ?」
 ヴィヴィアンは虚を突かれた顔になったが、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「働かなくていいんだよ。せっかくの休暇なんだから、のんびり過ごせばいいさ。思う存分楽しむことが仕事だよ」
「楽しむことが仕事? ……怒られちゃいそう」
「俺が許しているのに、誰に怒られるんだ? いつも一所懸命に働いてくれているご褒美だよ。今頃、他の船員も楽しくやっているさ」
「そっかぁ……」
 とはいえ、何もしないで使用人が働くのを眺めているのは、奇妙な気分である。
 船では、腹が空けば自分で厨房へいき、人手が足りなければ配膳も手伝った。それなのに、ここでは座っているだけで、暖かい料理が運ばれてくるのだ。
「二人で、楽しいことをたくさんしようね」
 ヴィヴィアンの言葉に、ティカは目を瞬いた。
 陸の上では甲板仕事がない……夜直に就く必要がないということは、夜の間もずっとヴィヴィアンと過ごせるのだ。
 そう考えると、喜びの実感が沸いてきて、ティカは笑顔になった。思いついたように鞄を漁り、カードを持ってベッドに飛び乗ると、
「ヴィー、カードしませんか? ブラッドレイに教えてもらったんです!」
 あまりにもティカが無邪気にいうので、ヴィヴィアンは一瞬、面食らってしまった。
 ここはベッドの上で、薄いシャツを羽織ったしどけない姿でいる自覚が、ティカにはまるでなかった。寄宿学校で監視の目を逃れて羽を伸ばす学生のように、夜更かしすることしか頭にないようだ。
「……いいよ」
 ヴィヴィアンは苦笑をこぼし、穏やかな顔と声でいった。
 今夜は己の欲望に蓋をして、健全な遊びを楽しむことにしよう。焦らずとも、時間ならたっぷりあるのだから……
 しばらくカード遊びに興じ、やがて疲れて眠くなると、二人は並んで横になった。
 窓の外からは、眠気を誘う梟や鈴虫の合奏が聴こえる。
 海と違う、森の音に、ティカは懐かしさを覚えた。幸福館で過ごした夜が思いだされる。あの頃のように、傍にサーシャはいないけれど……一人ではない。ヴィヴィアンがいる。
「お休みなさい、ヴィー」
「お休み、ティカ」
 ヴィヴィアンは、あやすようにティカの胸のあたりに手を置きながら、同じく満ち足りた気持ちでいた。明日は邸を案内してやろう――楽しみに思いながら、やがて眠りについた。