メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -

3章:気まぐれな夜に、薔薇祭の調べ - 1 -

 雨を予感させる暖かな夜。
 遠くから聞こえる雷鳴を耳に拾いながら、オフィーリアは物憂げなため息をついた。
 精霊界にきてから、百を越える昼と夜を過ごした。もう間もなく、薔薇際が始まる。
 結局、解呪を手に入れられぬまま、今日まできてしまった。
 薔薇際が近付くにつれて、気は重くなっていく。
 いよいよアンジェラに面会が叶い、解呪を手に入れた暁には、アシュレイの魔法を解かねばならないのだ。
 覚悟していたはずなのに、恐い……
 憂鬱が続き、部屋から出られない日々が続いている。
 いけないと思いつつ、アシュレイが訪ねてきても、体調が優れないから、と面会を拒んでしまう。
 最も信頼している親友だけは部屋に招き入れているが、暗い表情のオフィーリアを見て、少女の眼差しも次第に曇るようになった。

(いっそ、早く薔薇際が始まらないかしら……)

 思い悩む日々に終止符を打ちたい。
 気が滅入っているせいか、天空から垂れる雨の雫が、哀しげな涙に見える。寝椅子に力なく寝そべりながら、オフィーリアは鬱々とした思考を拭えずにいた。

「……オフィーリア様」

 控えめな召使の声に、意識を呼び戻された。
 来客と聞いて、アシュレイかと身構えたが、思慮深い召使は意外な人物の名を告げた。

「幽玄の君がいらっしゃいました」

「えっ」

 聞き間違いかと視線で問うと、水霊の召使は思慮深い眼差しで応えた。喉が渇いていく心地を味わいながら、オフィーリアは席を立った。
 半信半疑で扉を開けてみれば、本当にアンジェラがいた!
 ずっと面会を望んでいた、もう一人の天下始祖精霊マナ・マク・リールだ。
 透き通った肌に、瑠璃色の瞳。
 艶やかな白銀の髪は、肩で綺麗にそろえられている。アシュレイとよく似た美貌の、絶世の美女だ。

「こんにちは、オフィーリア。ご機嫌いかが?」

 女神に優しく笑みかけられ、思わず背筋は大樹のように伸びた。

「は、はい。過分な待遇を頂戴して……あの、ずっとお会いしたいと願っておりました。どうぞお入りください」

「ありがとう。私もずっと会いたかったわ。オフィーリア」

 ふんわりと抱きしめられ、オフィーリアは石になった。緊張する様子を見て、うふふ、と女神はほほえんでいる。
 抱擁の余韻から我に返ったオフィーリアは、しどろもどろで席を勧めた。拙い仕草にも構わず、アンジェラは優雅に寝椅子にかけると、立ち尽くすオフィーリアを手招いて、横に座るように促した。

「貴方が部屋から出てこないと、アシュレイに叩き起こされたのよ」

 唖然とするオフィーリアを見つめて、アンジェラは花が綻ぶような笑みを閃かせた。

「あの堅物を動揺させるなんて、やるじゃない!」

 気安い仕草でぽんぽんと肩を叩かれ、オフィーリアの瞳は点になった。

「え……」

「世界樹で眠っていても、状況は把握していたのよ。会いにいくのは楽しみに取っておこうと思って、一人焦らしプレイをしていたんだけど、そろそろ限界だったの。会えて嬉しいわ!」

 熱烈に抱きしめられ、おろおろと、オフィーリアは中途半端に腕を上げた。この高貴な人に触れていいものかどうか、思考は乱れ、花の香りに心を惑わされる。

「わ、私も、ずっとお会いしたいと願っておりました」

 上擦った声で応えると、肩に手を置いたままアンジェラは身体を離した。アシュレイとよく似た双眸を、優しげに細める。

「本当は、薔薇際まで待とうと思っていたけど、貴方を苦しめたいわけではないから。老婆心ながら、口を挟みにやってきたわ」

「え……」

 かける続ける言葉が見つからず、狼狽えるオフィーリアを見て、アンジェラはにっこりと微笑んだ。

「遠慮はせずに、何でもいってちょうだい」

「では……ご存知かと思いますが、私は聖域の魔法に触れてしまい、手にした魔法を、その、我が君に」

「そうね。かけちゃったわね」

「申し訳ありませんッ!」

「あら、謝らなくていいのよ」

 蒼白になるオフィーリアを見て、からりとアンジェラは笑った。見惚れるほど美しいほほえみに、翳りは欠片も浮いていない。