HALEGAIA

7章:楽園コペリオン2 - 9 -

 スプリントは全力走ができる状態にアップするのに時間を費やすが、測定自体はあっという間だ。
 三五名の選手全員の測定が終わると、最後に上位五名による一〇〇メートル決勝戦が行われた。
 その最終メンバーのひとりに、陽一も選ばれた。
 普通は一〇〇メートルを一〇秒台で走れれば、どこの学校でも大抵は一番の俊足だが、ここでは一〇秒のタイムは珍しくない。陽一もわずかコンマ秒差で六位だった。
 選手がスターティング・ラインに集まってくる。
 本番の負荷プレッシャーがない分、練習の気質が強いが、それでも陽一の心臓はドキドキしていた。
 短距離走という競技はいたってシンプル。一番脚の速い奴が勝つのだ。しかし必ずしも最速記録保持者が勝つとは限らない。その時のコンディション、メンタル、様々な要因に左右される。だから、五位でぎりぎり選ばれた陽一にも勝機はある。
「勝負しようぜ」
 橋岡がいった。
「おう!」
 驚きつつ、陽一は返事した。
 はっきりいって橋岡は別格だ。“勝てない”という判り切った答えが胸に飛来すると同時に、挑まずにはいられない。強烈な熱い風を胸に吹きこまれた気がした。
 スターティング・ラインに並ぶと空気が変わった。陽気な橋岡も、研ぎ澄まされた空気を纏っている。当然だ。ここにいるのは全員スプリンターなのだから。
 ――勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ。
 どの顔も闘気でギラギラしている。タイトルなんて関係ない、今ここが最前線だ。
「On Youre mark」
 声がかかり、白線の前に指をつき、クラウチングスタートの態勢をとる。
「Set」
 腰を浮かす。
 ピッ! と空に響く笛の音とともに、右足で思いきりスターティングブロックを蹴った。
 風が頬を撫でる。前傾姿勢で風圧を最小限に、脇をすりぬける白線を視界に捕えながら、トラックの外にいる陸上選手たちが視界から消えて、歓声がフッと途切れる。
 後ろはどうでもいい。前だけ。橋岡の背中しか見ない。絶対に離されるものか。ここで千切れたら五〇からの加速で巻き返せない。死に物狂いで追いかけて、千切れずに五〇をきった。勝負だ。初速は橋岡が上だが、トップスピードは陽一も負けていない。
 太陽の光を全身に浴びながら、前へ、前へ、進んでいく。弾丸のように力強く。
 力が漲る。走る力があふれでてくる。テンションがあがって、プラスアルファの力が。
 筋肉の躍動。心臓の鼓動。大きく素早く手を振って、躍動する脚。
 本当に最後の一瞬、すべてを忘れた。橋岡のことすら。神経は研ぎ澄まされて、世界は陽一だけ。挑まずにはいられない――真っ白な世界に足を踏み入れた。
「一〇・五〇!」
 ゴールラインを切ると同時に、音が戻ってきた。
「陽一! 一〇・五〇! 記録更新!!」
 歓喜の声に、陽一は振り向いた。ミラはすぐ傍にいた。陽一の後ろを追いかけたきたのだ。
 一〇・五〇。
 ストップウォッチに数字がくっきりと刻まれている。
 頭が真っ白になる超越状態から、心と躰が現実に戻ってきた。途端に、焔のような高揚に包まれた。
 ほかのマネージャーは両手にストップウォッチをふたつもって計測するが、ミラはひとつだけだ。でもいい、ミラの計測は信じられる。確実にタイムは伸びている。あと少しで一〇秒前半に手が届く!
「ッシ!」
 思わず拳を握りしめながら、一〇・三六! 橋岡のタイムを熱狂的に叫ぶ声を聴いた。
 ――怪物モンスターか?
 走るたびに速くなるとか、メンタルお化けだ。ビビリな陽一とは土台が違う。
(……くそっ)
 胸の奥が熱い何かでひりひりする。だけど、これが現実タイムだ。
 陸上競技は、調整やコンディションなど様々な要素が関係してくるし、突然変異みたいに記録更新する奴もいるが、陽一が今日記録を伸ばせたのは、橋岡と走れたからだ。
 彼に負けたくないという強烈な闘争心が、いつも以上の速さを、プラスアルファの力を引きだしたのだ。
(橋岡は?)
 先頭を走る橋岡の視界には、誰の背中も映らない。それでも一位だ。どういうモチベ―ションでトップスピードを維持しているのだろう?
(……いや、考えてる余裕なんてあるか?)
 思いだそうとしても、ラスト一〇……二〇あたりから記憶がない。頭のなかが真っ白になって、気がついたら終わっていたのだ。
「――遠藤!」
 はっと顔をあげると、橋岡と目があった。
「俺の勝ち!」
 ニカッと笑う橋岡に、陽一は挑戦的な笑みを向けた。なんだかもう、いっそ清々しくて。
「速すぎだろ! 次は俺が勝つ!」
「おう」
 橋岡は返事をすると、先生に呼ばれて、そちらへ走り寄っていった。
 ちょっと眩しい気持ちで、陽一が橋岡の背中を目で追っていると、ミラに肩を抱き寄せられた。
 菫色の瞳が細められる。ミラは、甘やかな毒を含んだ目をゆっくりと、橋岡に向けた。
「あんなのに心を奪われるの?」
「何、いってんだよ」
「殺してきていい?」
 静かな声に本気を感じとり、陽一は青くなった。
「ダメに決まってんだろ」
「……僕も走れば良かった」
「零秒はシャレにならねーぞ」
「……」
 ミラは沈黙した。手加減をして走るなどと口にすれば、陽一が激怒すると判っているのだろう。当たり前だ。そんなのはスプリンターに対する侮辱だ。
 お互いに不機嫌になり、その後は殆ど会話をしなかった。

 一九時。
 ナイター照明が点く頃、合同練習は終わった。
 最後に先生から総評があり、選手ひとりひとりも自分の課題と目標を、全員の前で言葉にする場面があった。
 ちなみに橋岡の目標はすごかった。スプリントの三冠制覇――国体かインターハイで、一〇〇、二〇〇、四〇〇の三種を制する。もう、言動のすべてが漫画の主人公だ。
 その後、陽一は躊躇いながらも、インターハイ個人優勝をくちにした。橋岡の答えを先に聞いていなければ、精一杯見積もった末に“インターハイ出場”だったかもしれない。
(くっそ~~! 負けてらんね――ッ)
 と、半ば意地で優勝なんていってしまった。ほかにも橋岡に引きずられた選手はいたと思う。
 正直なところ、優勝なんて目標が大きすぎて現実味がないのだが、少なくとも優勝を目指していれば、その手前の目標であるインターハイ出場は叶うのだ。
 解散後、選手たちはへとへとになって更衣室に入っていった。陽一も自分のロッカーの前にいき、シャツを脱ごうとすると、その手をミラが掴んだ。
「肌が見える」
 やっと喋ったと思ったら、ソレか。陽一はうんざりしたが、
「……別に、っ!?」
 腕を掴まれ、いきなり顕れた衝立の内側に引っ張りこまれた。ミラの胸に顔がぶつかる。文句をいおうとしたが、視線の熱さに、言葉を飲みこんだ。菫色の瞳に焔が揺れている……超合金でも溶かしてしまいそうな視線だ。
「着替えるから、離せって」
 何度か手を振ると、ようやくミラは掴んでいた手を離した。陽一に関しては衆目を気にするくせに、ミラ自身は普通にジャージを脱ぎ捨て、制服に着替えた。
 ぎくしゃくしたまま、競技場をでていこうとすると、出待ちしていたミラのファンに取り囲まれた。陽一は呆気に取られてしまった。咄嗟に動けない陽一の肩を、ぐいっとミラは強引に抱き寄せた。強めの威圧で周囲を黙らせると、さっさと群衆を抜けてしまった。
「お姫様を守る、騎士ナイトみたいだな」
 後ろから追いかけて橋岡が、からかうようにいった。
 陽一は引きつった笑みを浮かべた。騎士っていうか、魔王だ。
「さっきの目標ってやつさ、一ついい忘れてたんだけど、俺、四継でも遠藤と戦ってみたい」
 驚いた顔の陽一を見て、橋岡は笑った。
「勝負は来年か~。短距離のオフ・シーズンって長いよなぁ」
「橋岡のところは、もう冬季練習始まってる?」
「おうよ。一月は陸部りくぶの冬季合宿で、二月は高体連合宿だな。遠藤もくる?」
「俺は呼ばれないよ」
 高体連合宿は全国レベルのエリートが呼ばれる強化合宿だ。なんかもう、すごすぎて、陽一は言葉がでてこなかった。尻込みしているのを見抜かれて、橋岡は真剣な顔をした。
「冬季練習から、二年目は始まってるんだぜ。お互い頑張ろう! またな!」
「……おうっ」
 慌てて陽一が返事をしたときには、もう、橋岡は横断歩道を駆けていた。渡った先でこちらを見て手を振りあげ、そのまま駆けていってしまった。
 ちなみに四継、リレーとは四人で一〇〇メートルずつバトンを渡し繋いで走り、そのタイムを競う陸上競技のことだ。
 都立菖蒲高等学校の陸上部のスプリンターは十二名。陽一は一〇秒台の選手として一年でもレギュラー確定だが、個人戦はともかく、リレーは壊滅的だった。
(橋岡はバトンもうまそうだな……やになるぜ。あいつにできないことってあんのかな?)
 考えていると、ミラに手を引かれた。
「帰りましょう」
 なんだか声に元気がない。綺麗な横顔が、憂鬱に沈んでいるように見える。
「……こない方が良かった?」
 陽一は目を伏せて訊ねた。きっと陸上の魅力が判ると思って誘ったのに、不機嫌になるくらいなら、誘わなければ良かった。
 半ばふてくされた気持ちで黙っていると、ミラは繋いだ手に少し力をこめた。
「きて良かったです。陽一の走りは、とても綺麗でした。ものすごくエネルギーを感じて、力強いのにしなやかで、流れるみたいに走る姿から目を離せませんでした。陽一が一番綺麗でした。本当に綺麗で……誰にも見せたくないくらい」
 後半の言葉が少し冷たくて、陽一はミラの表情を見ようとした。薄闇のなかで、菫色の瞳が猫みたいに光って見える。怖いとは思わなかった。
「……ミラって、意外と独占欲あるのな」
「意外ですか?」
「だってミラ、人間に興味ないじゃん。俺を大事にしてくれてるのは判ってるけど、その、他の人とのギャップがすごくて、驚くっつーか」
「僕だって驚いています」
 拗ねたようにミラがいった。そのいい方がかわいくて、陽一は素直な気持ちになれた。
「……きてくれて、ありがとな。俺も、今日の走りは、見てもらえて良かったと思う」
 ミラは黙ってほほえんだ。
 ちょっと面映ゆいような沈黙のあと、さて、とミラは気を取り直すように声にだし、明るい笑顔で陽一を見た。
「陸上合同練習が終わりましたね」
「うん」
「週末は魔界ヘイルガイアに遊びにいきましょうね」
 陽一が目を丸くすると、ミラはちょっとうかがような表情で陽一を見つめ返してきた。
「約束したでしょう?」
 陽一は笑った。
「覚えてるよ。わかった、日曜ね」
 いいながら、走りだした。
「陽一?」
「走って帰ろうぜ!」
 陽一がにっと笑うと、ミラは目を細めて、当たり前のように並走を始めた。