HALEGAIA

7章:楽園コペリオン2 - 5 -

 淡く煌めく異次元宇宙の極光オーロラを揺らして、ミラは応召した。鳥籠のなかへ入ると、椅子に座っていた陽一は、ミラを見て、ほっとしたような顔をした。
 その安心した表情を見た瞬間、ミラの胸の鼓動がはやくなった。心情を映すかのように、天井から垂れさがるランタンの炎が一際赤くぜる。
「ただいま、陽一」
 笑みかけると、陽一もぎこちない笑みを浮かべた。
「お帰り」
 ミラはつい、人間にはありえない素早い動きで、陽一の前に移動した。胸と胸がくっつきそうな距離まで近づいて、そのまま悪魔の幻惑を脱ぎ捨てそうになったが、自制した。
「陽一……」
 目をあわせてから、腰に腕を回し、もう片方の手を頬に押し当て、くちびるを重ねた。舌を触れあわせると、陽一の香りが拡がった。それに甘い……ほんのりクッキーの味がする。舌で愛撫しながら刻印スティグマを与えると、陽一は小さく呻いた。
「ん……っ」
 もっと深く味わおうとすると、陽一は、遠慮がちにミラの肩を押し返そうとした。弱弱しい抵抗だが、ときには、ミラはそこでくちびるを離す。離さないときもある。今日は、ゆっくり舌を吸いあげてから離した。ざっと鳥籠の様子を感知しながら、ティーテーブルに意識が向いたのだ。
 空腹だったのだろう、お菓子の袋がいくつか空いている。悠久の楽園コペリオンにいても、人間は生命維持のため栄養補給が必要なのだ。
「ごめんね、お腹空きましたよね」
「うん……呼んで平気だった?」
 慎重に訊ねる陽一に、ミラは微笑した。
「もちろん。ひとりにしてすみません」
仕事・・は終わったの?」
「終わりましたよ。食事にしましょうか」
「……ラーメン食べにいく?」
 陽一は慎重に、上目遣いに訊ねた。
 ミラは優しくほほえんだ。怖がらせないように、優しく笑いかけたつもりだが、瞳に欲望が顕れているのが自分でも判った。夜のとばりに覆われた鳥籠のなかで、紫の瞳はさぞ光って見えることだろう。
「それはまた今度。もう少しだけ、鳥籠で過ごしたいな」
「……」
 顔を俯ける陽一の顎に、そっと手をあてて上向かせると、迷子のような顔をしていた。
「ちゃんと帰してあげます。約束する……そんなに不安そうにしないで……」
 陽一は視線を彷徨わせたが、間もなく、観念したように目をあわせてきた。
「とりあえず何か食いたい。腹へった」
「ラーメンがいい?」
 提案してみると、陽一は頸を振った。
「それはまた今度、リベンジしよう。今は~……豚の生姜焼きは? いいかな?」
「もちろん」
 リベンジのいい方が気にいった。ミラは口角をあげながら、魔法の合図にパチンと指を鳴らした。テーブルは一回り大きくなり、ベージュ色のクロスがかけられ、その上に木製の箸置きと箸、麦茶の入ったグラス、湯気のたつ料理が顕れた。
「おぉ!」
 レモンを添えた豚の生姜焼きを見て、陽一は目を輝かせた。いそいそと着席すると、いつもの調子を取り戻し、
「白いご飯もらえる? 大盛で。あと味噌汁、あと茄子の揚げ物、ツナサラダもいい?」
 リクエストに応じて、ミラはテーブルのうえに次々と料理を並べた。陽一の対面に着席すると、彼は満面の笑みで手をあわせた。
「うまそー! いただきます!」
「どうぞ召しあがれ」
 ご満悦でパクパクと食べる陽一を、ミラは頬杖をついて眺めている。
「うまい! この絶妙な肉の厚み、最高!」
 陽一の食事姿……とりわけ肉を食べるところを見るのは好きだ。肉欲を刺激される。色艶よく輝くくちびるが美味しそう……
「ミラは食べないの?」
 凝視し過ぎたのか、目があった。
 悪魔は食事しなくても生きていけるが、食べられないわけでもない。人間は複数人で卓につくと、皆で食事をしたがるものだ。
「僕はこれで」
 そういって、赤ワインとオリーブとチーズ、生ハムの盛りあわせを出現させた。人間の嗜好品はミラもなかなか気に入っている。
「お洒落ね。俺も生ハム食べたい」
 どうぞ、とミラが木製トレイをテーブルの中央に寄せると、陽一は嬉しそうに手を伸ばした。ミラがグラスを傾ける様子を、今度は陽一が満足そうに眺めている。
 穏やかな沈黙の後、あのさ、と陽一は切りだした。
「……学校、どうなった? 鮫島さんたちは無事?」
 一瞬、たったいま滅ぼしてきた三千世界が眼裏まなうらった。呵々かかと笑う悪魔の声、人間の絶叫が耳の奥にこだましている。
「どうもしませんよ。いつも通りです。人間は何が起きたのか忘れて、どこへなりと消えていますよ」
 まぁ、地球の大気圏に異界の門が開きかけたのだが、天界パルティーンが復旧作業をしているので大した問題はない。
「そっか……」
 陽一はほっとしたように息をついた。それから、思いだしたように続けた。
「“天使の輪”は壊れたまま?」
「いえ、新品に交換してもらいました」
 ミラが指を広げ、親指と人差し指でつまむ仕草をすると、手のなかに金色の腕輪が顕れた。陽一は目を瞠っている。
「神様が直してくれたの?」
「はい。さっき、ジュピターが届けにきました」
「良かったじゃん!」
 にこっと陽一は笑った。
「良くはないけど、地上を歩くにはこれが必須なので、仕方ありませんね」
 微妙な表情でミラがいうと、陽一は苦笑いを浮かべた。それから黙って食事を再開したが、ふと気がついたように顔をあげた。
「……そういや俺、帰ったらまた家で夕飯食うのかな?」
「後で家まで送りますよ。その時はきっと空腹を覚えているだろうから、美味しく夕飯を食べれると思いますよ」
 にっこりしながらミラがいうと、陽一は、胡乱げな目をした。どういう意味だ? と思いつつ、突っ込んだら墓穴を掘ると思っている顔だ。
 くすくすとミラは笑いながら、話題を変えてあげることにした。
「久しぶりの楽園コペリオンはいかがですか?」
「まぁ……変わらないよね。少し懐かしいかな? さっきから気になってたんだけど、なんで星が赤いの?」
 鳥籠の外を眺めながら、陽一は不思議そうに訊ねた。
魔界ヘイルガイアの星座はいつも変わりますから」
「なんでもアリだよなぁ、この世界」
 よほど空腹だったのか、陽一はあっという間に料理を平らげた。どんぶりご飯も空っぽになっている。満足そうに麦茶で喉を潤す姿を見て、ミラは訊ねた。
「食後の珈琲はいかがですか?」
「あ、飲みたい」
 ミラは一瞬で空いた皿を全て消し去ると、熱い珈琲をふたつ、陽一とミラの前に出現させた。ふたりともブラック派なので、砂糖やミルクはいらない。
「ありがとう」
 陽一は、ゆっくり、時間をかけて珈琲を飲んだ。
 寛いでいる風を装っているが、彼の緊張が伝わってきて、ミラはぞくぞくする。喰ってやろうか――欲求がこみあげるが、がっついて嫌われたくない。だから、優しい声を意識しながら、誘ってみることにした。
「……えっちしたい」
 陽一は目を大きく見開いた。
 彼の脈拍が急速に早まるのを感じる。慎ましく照れて、恐れながらも期待している。
 ミラは、陽一の返事を待つつもりだった。静かに辛抱強く。彼がくちびるを開くまで、何もいうつもりはなかったのに、視線を伏せるのを見て、思わず陽一の手に自分の手を重ねていた。
「酷くしない。優しく、ゆっくりするから……怖くないよ」
 陽一は、はにかんだように笑った。
 その笑顔にミラは心を奪われた。不滅の心臓がドクンッと大きく打つ。
 突然、魔界ヘイルガイアの夜空は姿を変えた。深紅の星空は白く煌めき、金色の極光めいた輝きの帯が夜空に放たれた。物語のように、幾つもの流星が流れていく。
「わ……」
 陽一は星空に目を奪われた様子だったが、ややして、ミラの指先にそっと指先を搦めた。
「……じゃあ、する?」
 密やかな囁き。
 甘いときめきに囚われ、ミラはうっとりする。心の園に薔薇の花が咲いたように感じられた。