HALEGAIA

7章:楽園コペリオン2 - 4 -

 千変万化せんぺんばんか魔界ヘイルガイアの星座が魔王城パンデモニウムの上空できらめいている。
 今夜は紅玉ルビーの星がちりばめられ、薔薇の星座というより、血のしずくが垂れているようだ。
 美しくも禍々しい夜空に、魔王の帰還を告げる法螺貝を吹き鳴らす音が、朗々と響き渡った。
 たいまつの炎に照らされた魔王城パンデモニウムは、蒼古そうことした廃墟のようにも幻想のようにも見える。赤と黒のつる薔薇のからまる尖塔には、ミラを象徴する深紅の旗がなびいている。
 絢爛豪華な玉座の間に、深紅の衣装をまとったミラが顕れると、眷属たちは膝をおって出迎えた。
 ――お帰りなさいませ。
 臣下たちの囁きが折り重なる。天井の黄水晶シトリンのシャンデリアも、硝子の囁きのような音を奏でた。
 目が眩むような空間は広く、高く、照明の光が窓硝子やシャンデリアに反射して、濃縮された炎の蚕白石オパールのように、青、緑、赤、黄、色とりどりの無数の光を壁や絨毯に投げかけている。
「お帰りなさいませ、魔王様。地上はいかがでしたか?」
 玉座の傍に控える魔女、リストラリスは、恭しく跪いたまま訊ねた。
「いつもと同じです」
 ミラは淡々と応えながら、豪華な玉座にもたれた。陽一のいない地上は退屈だ。
「陽一様のいらっしゃる地上のことですわ」
 リストラリスは静かに立ちあがった。彼女は三メートルもある長身で、斜陽を背に立つときなどは、彼女の影は全世界を被う。
「……陽一とラーメンを食べにいきたかったのに、邪魔が入りました。腹いせに三千世界を滅ぼしてきたところです」
 ふぅ、とミラが物げにため息をつくと、リストラリスはくすくすと笑った。
「地上は阿鼻叫喚ですわね」
 いつでも微笑を浮かべている謀略の魔女。魔界ヘイルガイア一柱ひとはしらでもある。瞳は全てが白く発光していて虹彩が判らない。女神のような美貌だが、彼女はゆっくりと痙攣が止んでいく人間の心臓を、最後の鼓動の音を愛している。血の滴る心臓に頬ずりする姿は魔女そのものだろう。
 しかし美しい。曲線の美しい、繊細で妖しげな紫色のドレスが素晴らしく似合っている。ボディスは薄い紫で、胸には真珠と血のしずくの形をした紅玉ルビーの複雑な細工のネックレスが幾つも連なり、大胆に開いた背中にも垂れさがっている。紫の地に、光を受けて煌めく金の粒子が散らされ、濡れた花と、魔女の血、魔法を思わせる。
「こちらにいらしてよろしいのですか? 陽一さま、楽園コペリオンにいらっしゃるのでしょう?」
 小首を傾げた拍子に、波打つ豊かな藤色の髪が肩からこぼれた。
「野暮用です。それに……呼ばれるのを待ちたい」
 少し視線をそらして答えるミラを見て、リストラリスはくすくすと笑った。
「悪魔を焦らすなんて、陽一さまは罪な御方ですね」
「本当に」
「時間ならいくらでもありますわ。心行くまで甘いしとねを愉しまれては?」
 悠久の魔界ヘイルガイアに時間はない。ここにいれば、時間の流れを気にせず、いつまでも陽一と戯れていられる。
「そうしたいけれど、あまり長時間いると陽一は元気をなくしますから……本当は魔王城ここにも連れてきたいのだけれど……」
 この場所は陽一にとってトラウマだ。もしかしたら、いまなら平気なのかもしれないが、彼が悲鳴をあげたりしたらと思うと、胸が痛む。
 躊躇っているミラを見て、リストラリスは不思議そうに小首を傾げた。
「陽一様を誘惑なさればよいのでは? 我々の専売特許でしょうに」
「神の加護が邪魔をします」
「魔王様なら、いかようにもできるのではなくって?」
「……強引な真似をすれば、陽一に嫌われてしまう」
「まぁ」
 リストラリスはほほえんだ。
「想われていらっしゃるのですね」
「ええ……陽一を想うと胸が苦しい。陽一もこうして離れている時、僕を想ってくれたらいいのだけれど」
 肉の疼きだけではない、心も強く陽一を求めている。陽一にも同じように想われたい……彼の心がほしい。早く名前を呼んでほしい。
「想われていますわ。魔王様に想われて平静でいられる人間なんて、この宇宙にいませんわ」
「……だけど陽一には神の加護がありますから。僕の魅了がいまいち効かないんですよねぇ」
「恋煩いですわね」
「そう、恋をしているんです。陽一が足りない。もっと陽一に好かれたい……」
 リストラリスはちょっと考えてから、くちを開いた。
「陽一様の趣味嗜好に寄り添うのはいかがですか? 好きな書物や観劇など」
「サブカルチャーですね。確かに陽一のいる人間界も、様々な漫画や小説、映画にゲームと娯楽で溢れかえっていますよ」
 雑談しているところに、灰色の作業着姿に、“安全第一”と印字されたヘルメットをいただいたジュピターが顕れた。
「魔王様~☆ “天使の輪”をお届けに参りました」
 玉座から少し離れたところで片膝をついたジュピターは、両手で恭しく硝子箱を差しだした。
「ご苦労さまです」
 ミラは頬杖をついたまま答えた。
 “天使の輪”はリストラリスが受け取り、彼女は箱をあけると、中身が見えるようにしてミラにさしだした。
 白い絹のうえに、金色に輝く“天使の輪”が納められている。
 忌々しい神の魔法が漂うそれを、ミラは仕方なさそうに受け取る。地上で過ごすための必須アイテムと実感したばかりだが、進んで身に着けたいと思うような代物ではない。
天界パルティーンの最新情報をお届けします。東京上空の大気圏に魔界ヘイルガイアの門が開きかけたので、大急ぎで工事中です☆」
 ジュピターは騎士のように、手を胸に押し当てて答えた。凛とした所作だが、妙なヘルメットのせいでいまいちキマらない。
「すみません。うっかり本性が覗いてしまって。やはりこれがないと、人間への殺意を抑えるのは難しいですね」
 “天使の輪”をひとさし指でくるくると回しながらミラはいった。
「地上にお戻りになる際は、どうぞお忘れなく! それでは私はこれで失礼します☆」
 はきはきと応えて、ジュピターは優雅にお辞儀をすると、玉座の間を颯爽とでていった。
「……シュピターは、すっかり変わりましたね」
 リストラリスは頬に白い繊手を押しあて、そうコメントした。
「ええ、僕に対する執着が消えて快適です。いきすぎた嫉妬をお仕置きするのも面倒でしたからね」
「魔王様に盲目でないジュピターは、新鮮ですわ。焦がれるほどの夢を奪われて、少しかわいそうな気もしますけれど」
「今のジュピターは神様LOVEですよ。理想の相手に懸想していられるのだから、幸せでしょう?」
 悪魔らしい俗っぽく傲慢な言葉に、リストラリスはくすりと微笑した。
「そういえば、文化祭の様子を見ましたよ。素敵な演奏でしたわ。魔王様も陽一様も、本当に嬉しそうで、お楽しそうで……ルネとオデュッセロが羨ましいですわ。わたくしもご一緒したかったわ」
「うん、あれは楽しかった」
 ミラは優しく微笑した。顔が赤くなるような性質たちではないのに、ほんのり頬を染めて。
 その初々しい姿を見て、リストラリスは慈母のように微笑する。敬愛する我が偉大な魔王が、まるで恋する乙女のようだ。悪魔と人間の恋の結末がどうなるかはさておき、いま、彼が幸せそうで何よりだと思う。
「陽一には、前に怖い思いをさせてしまったので、魔界ヘイルガイアを好きになってほしいです。なにか良い案はありませんか?」
「そうですわねぇ……楽園コペリオンのビーチにお連れしてみては? 地球でも海辺の別荘で寛ぐのがお好きなようですし」
 確かに、アドリア海の孤島は陽一も気にいってくれて、よく遊びにきてくれる。夏になったら泳ぎたいといっていた。楽園コペリオンなら常緑だし、なんなら気候も温度も自由に調整できる。
「ビーチですか……いいかもしれませんね」
 雑談していたミラは、弾かれたように席をたった。陽一に名前を呼ばれたのだ。次の瞬間、嬉々として召喚に応じた。
 残されたリストラリスは、主不在の玉座を見つめて、白く発光する瞳をさらに煌めかせた。
「これがカプリング萌えですのね。推せますわ」