HALEGAIA

5章:魔王サタン万歳! - 3 -

 部室に入ると、何人か部員がいて着替えをしていた。陽一も自分のロッカーの前にいき、ジャージに着替えようとすると、いきなり時が凍りついた。
 まるで透明な琥珀に搦め捕られたみたいに、人も、光の筋に浮かぶ塵すら、微動だにせず固まっている。
「えっ……」
 唖然とした陽一は、背後に蠱惑的な温かさが漂うのを感じて、きっと睨みつけた。
「何した!?」
「どうして服を脱ぐのですか?」
「はぁ? そりゃ、練習するからだよ。ジャージに着替えないと」
 単純明快だが、ミラは納得がいかないようだ。菫色の瞳が、不機嫌そうに細められた。
「陽一の羞恥心がよく判らないのだけど、僕がキスしようとすると衆目を気にするくせに、どうして今は素肌を露わにして平気なの?」
「変ないいかたするなよ。運動部なんだから、着替えるのは当たり前じゃんか」
「当たり前? 肌を見せることが?」
「そうだよ、更衣室なんだから」
 なんとなく戦闘モードで答えると、ミラの纏う空気もぴりっと緊張感を帯びた。
「普通ねぇ……」
 菫色の瞳が迫力を増した。長身を屈めて、陽一の顔の横に手をつく。
 強気でいた陽一は、危険な雰囲気をかもしたミラに怖気づいた。悔しいと思いつつ、顔を近づけられると、視線をそらしてしまいそうになる。
「何だよ……」
「そんな裸同然の恰好をさらして、誰かに襲われたらどうするの?」
「誰も襲わねぇよ!」
 目をあわせて怒鳴ると、ミラの瞳に奇妙な感情の閃きが見えた。
「今、僕が襲ってますけど?」
 むきだしの肩をするりと撫でられ、陽一はカッと頭に血がのぼった。
「やめろ!」
 沸き起こった怒りと拒絶に、神の加護が呼応し、陽一の全身は黄金きん色に煌めきだした。ミラは忌々しげに眉を顰めると、
「卑怯ですよ、もう! そうやってすぐ光るんだから」
「うるせぇ、俺はこれから練習すんだよ。邪魔するな」
 悪態をつきながら素早く着替えを済ませると、ロッカーをしめてミラを睨んだ。
「ほら、着替えたぞ。早く皆を元に戻せよ」
「練習しているところを見学しています」
 ミラは腕を組んで、威圧的に陽一を見下ろしている。
「ダメ! ミラがいたら絶対人が集まる。絶対集中できない」
「人目につかないようにします」
「ああ、もう、なんでそんなに見たいんだよ?」
「陽一を見ているのは好きですよ」
「なんでだよ! 見ても別に面白くないと思うけど」
「僕は陽一をるために、人間界にきているのですよ? それが叶わないのなら、こんな世界もう滅ぼしちゃおっかな」
 ヤバい方向でミラが拗ねた。ただの厨二発言で片づけられないところが、やっかい極まりない。
「……判ったよ。見てもいいけど、邪魔はするなよ」
 渋々といった風に陽一が許可すると、ミラはまだ不機嫌そうな顔をしていたが、判りました、と答えて姿を消した。
 ふっ、と止まっていた時が動きだした。
 衣擦れや、ロッカーの開閉音。平常の環境音が戻ってきて、陽一は一瞬呆けてしまう。我に返って部室をでると、ミラの姿を探したくなる衝動を堪えて、練習を始めた。
 股関節を重点的に柔軟ストレッチしてから、ケンケン、Aスキップ、ツースキップ、ハイニー、ハードルドリル等の短距離走者向けのトレーニングメニューをこなし、最後はクラウチングスタート練習だ。
「On Your Marks」
 計測係の声にあわせてスタートラインに立つと、姿なきミラの視線が感じられた。どこかで見ているのだろうか?
「Set」
 スターティング・ブロックに脚を置いて姿勢を整える。大会でもないのに緊張している。
(――これは練習。いつもと同じ練習だ)
 何千回と繰り返してきた動作を頭に思い描く。指先とつま先に集中し、目線を足元の先に。
 ヒュィッ! ホイッスル音と共に爆発的に跳びだした。
 角度低く二歩目の股関節可動域も広い。前傾姿勢だが潰れない。いい走りだしだ。腕振りはコンパクトにピッチをあげて二次加速に突入。風はやや重いが推進力はある。トップスピードに乗った! いいペースだ。ひたすらに前へ! 前へ!!
「一〇・九七!」
 計測係が読みあげた瞬間、
「自己ベストタイ!」
 思わず陽一は叫んだ。部員仲間も笑顔を向けてくれる。記録更新には及ばずとも、ぎりぎりだが十秒台だ。高揚感は大きい。
 同じ陸上部に、陽一のほかに一〇〇メートル一〇秒台の選手はいない。一一秒で走れれば中高では間違いなくトップクラスで、一〇秒台は選手のなかでも一握りといわれている。
 陽一は中学生で既に一一秒台だった。高校の陸上部に入った当初は部員からの風当たりが強く、夏のレギュラー選抜では辛い思いもしたが、それでも走ることをやめなかった。本気で一〇〇メートル走を続けている。目標は一〇秒前半の世界にいくことだ。
 練習を終えて水場にいくと、いつものように上半身裸になろうとシャツに手をかけ……思い留まった。今まで気にしたこともなかったのに、ミラが変なことをいうから妙に意識してしまう。
 水道の蛇口をひねって、頭から水をかぶる。濡らしたタオルで手足や、シャツのなかに手を突っこんで腹や背中をぬぐうと、気分はだいぶ良くなった。
 部室に入ると、ロッカーから鞄をだしてタオルを突っこみ、ジャージのまま部室をでた。家に帰ったら、そのままランニングにいくので、いちいち制服に着替えるのは面倒なのだ。
「一緒に帰りましょう」
 扉を開けると、ミラが立っていた。機嫌が直ったのか、柔らかい笑みを浮かべている。
 うっかり見惚れてしまった陽一は、身も心もぐらりと傾いた。が、自分に向かってさしのべられた手をぺしっと叩いて、ミラの隣に並んだ。
「つながねーよ」
「残念」
「ずっと見てたの?」
「はい」
「どこにいたの?」
「幻惑で姿を隠していましたが、校庭にいましたよ」
「退屈だったでしょ?」
「いいえ、目の保養でした」
「保養ぉ?」
 男共が汗水たらして走る姿のどこらへんが?
「素肌に汗を光らせて、筋肉を躍動させて、陽一の全身から新鮮な生命力とエネルギーが放たれるのを見るのは、なかなか気持ちがいいです」
「生命力って目に見えるものなの?」
「はい。見るだけじゃなくて、感じることもできます。陽一の放つ命のパワーが波のように押し寄せて、躰のなかを炎のように駆け巡るのを感じるのは、とても心地良いです」
「ふぅん……悪魔は皆そうなの?」
「僕が悪魔で、君が陽一だから」
 ミラは陽一を見て、優しくほほえんだ。照れて紅くなる陽一に、ミラは笑顔のまま続けた。
「他の人間の走る姿を見たところで、転ばせたい、吹き飛ばしたいくらいにしか思いませんよ」
「絶対にやめろ」
 スン……陽一は真顔でいった。
「それに、白いシャツを着て光のなかを走る陽一は、半ば透き通って見えて、天使より天使でした」
「天使ぃ?」
「淡い光の危険な幻惑ですね。黄昏が煌めいて、斜陽に縁取られて走る姿を見ると無性に……穢したくなります」
 妖艶な流し目を送られて、背筋がぞくっとした。もはや脊髄反射で、ミラの脇腹にひじ鉄を喰らわす。ふふっとミラは楽しげに笑ったあと、そういえば、と続けた。
「陽一が練習している間に、入部届を提出しておきました」
「マジで? ……ミラにマネージャーとか……」
 頭痛を堪えるように、こめかみを押さえる陽一の肩を、ミラはぎゅっと抱き寄せた。
「うぉっ」
「一緒に頑張りましょうね、陽一」
 きらきらと輝く笑みを向けられて、陽一の胸に、予期せず温かいものがこみあげた。
 ふだんにはない高揚感。胸の高鳴り。恋? 青春の煌めき?
 ……判らないが、自分でも不思議なほど、ミラと過ごす日々にわくわくしている。