HALEGAIA

5章:魔王サタン万歳! - 10 -

 人々の視線が集中するなか、ミラは淡い微笑を浮かべたまま、
「人類が宇宙を満たすダーク・エネルギーを観測できないのは、人智のおよばぬ高次の領域だからです。三千世界に生きる人間は、未来永劫イベント・ホライズンを、ドメイン・ウォールを、ハッブル球を、宇宙の果てを越えることはできないのです。ですが、陽一のクラスメートには特別に、ブラックホールを見せてあげましょう」
 余興を振舞うような口調だが、ミラの纏う空気が危険なものに変わった。
 禍々しい妖気と、さくらの花びらのような薄紅の彩片。そよ風が流れて、夜烏の羽黒のごとき艶やかな黒髪が揺れる。

“我は――なり。我は久遠の郷土ヘイルガイアを支配する者にして、魔界ヘイルガイアの意志であり、血である”

「ミラ!? 何する気!?」
 陽一は慌てて止めに入るが、視線をよこしたミラは、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「心配いりませんよ、あたいは不要ですから」
 大サービスみたいにいわれても、端からそんな心配はしていない。いやいや待て、と陽一は蒼い顔で言い募るが、ミラの詠唱は止まらなかった。

無辺際むへんさいあまねく銀河よ、M87と呼ばれしブラックホールよ、我は永劫の宇宙をけみする支配者として、過去未来現在において、汝を星の彼方から呼びだし、ここに召喚す”

 ミラの掌に、空虚うつろが、否――極小宇宙、宇宙の特異点とも呼ばれる無限の最小世界が生じ始めた。およそ五五〇〇万光年彼方のM87銀河を、牽引するほどの超重力である!

“我は魔界ヘイルガイアの王であり、我が支配の力により、汝は従わねばならぬ。宇宙にあまねく銀河よ、我が呼びかけに答え、う、きたれ!”

 力ある言葉――宇宙の深淵を呼び起こす詠唱を紡いでいる。
 空想も現実も凌駕する、空間と重力の制約外――異次元を結びつける超魔法。幾星霜もの時を超え、年た銀河を呼び寄せる、闇の詠唱である。
 特別な防壁で固く守られていてなお、空気がざわつき、窓硝子に震えが走った。緊張が琴線のように張り詰めて、誰ひとり動くことも、くちを開くこともできない。が、陽一だけは違った。
「待てぇぇぇいッ!!!」
 勇をして陽一は、ミラの両腕を強引に掴んで、詠唱を遮った。
「何です? 陽一」
 きょとんとした顔でミラが訊ねる。
「こっちの台詞だ! 何しようとしてるんだよ!?」
「ブラックホールを召喚しようとしています」
 しれっと悪魔がのたまう。陽一のこめかみに青筋が走った。
「アホか! ヤバい感じしたけど、地球は大丈夫だろうな!?」
 忙しなく四方に視線を走らせる陽一の肩を、ミラはなだめるように軽く叩いた。
「大丈夫ですよ、この星の物理法則を捻じ曲げないように、ちゃんと膜をはっていましたから。人間曰くダーク・エネルギーですね」
「本当だろうな!?」
「もちろん」
 ミラは胸をはって答えたが、不自然に光がさして、翡翠色の大翼をそなえた天使が顕れた。中性的な肢体と天与の美貌に、波打つ金糸きんしの髪を肩のあたり、翡翠色の瞳を悪戯っぽくきらめかせて、
「きゃわわっ、世界門開きかけてますけど、大丈夫ですか~っ?」
 ジュピターが茶目っ気たっぷりにいい放った。
「えぇッ、ジュピターさん!?」
 陽一は我が目を疑った。突然の顕現も然ることながら、陽一の記憶にある彼女の姿と、あまりにもかけ離れていたせいだ。
 今の彼女ときたら、いきいきとした表情に、キャップに大判のパーカー、ジーンズにスニーカーというラフな格好で、かつての儚げで神秘めいた雰囲気はどこへやら、変わらぬ翡翠の翼さえ背になければ、そのまま渋谷の街に繰りだせそうだ。
「こんにちはーっ! 陽一君、久しぶり☆」
 明るく朗らかに、実にフレンドリーに、ジュピターが挨拶をよこした。ピースサインつきで。
「ジュピターさん、キャラ違ぇッ」
 陽一の驚愕もむべなるかな。かつてジュピターは、ミラを崇愛するあまり何度も陽一を殺そうとし、ついにはミラの逆鱗に触れた。ミラは神と結託して、二度と陽一を襲わないよう、ジュピターを一から再構成したのである。その結果がいま明らかになったわけだが――なんと、パリピ風のNEWジュピターが爆誕したようだ。
 さすがの陽一も唖然呆然、心臓を烈しく動悸させながら立ち尽くすばかりだが、ミラは億劫そうに腕を組むと、指をパチンと鳴らした。
「ほら、閉じましたよ。ジュピター、もう帰りなさい。授業中ですよ」
「はぁい、魔王様。陽一君も、まったね~☆」
 シュピターはかつての因縁もへったくれもなく、陽一に気さくに繊手を振ると、翡翠色の燐光を散らして消えた。
 一瞬、教室が静まり返る。ふかい沈黙の後に、戸惑いを帯びたざわめきがさざなみのように広がっていく。クラスメイトの疑問を代表するかのように、圭祐は眼鏡をはずして、目をごしごしと擦りながら、
「……なんか今、大天使がおりてきて、魔王君が天にたずさえ挙げられたように見えたんだけども」
 と、ミラを振り向いて訊ねた。
「え、ええーっと、ぅうーん……??」
 陽一は盛大に狼狽えてしまう。仰る通り、霊界の天使が顕れたのだ。ミラは平然としているが、周囲はそうもいかない。たった今起きた非日常を、どう言い繕えばいいのだろう?
「魔王君って、実は神様の遣いなの!?」
 閃いた! とばかりに圭祐がいった。
「いや、悪魔なんだわー」
 陽一のツッコミは、騒然となった教室にかき消された。先生方もどうしたものかとおろおろしているところ、スッ……とミラは再び席を立つと、
「“静かにしなさい”。授業中ですよ」
 悪魔の力ある言葉に、人間は静粛になる。
 お前がいうなよ。陽一は呆れ半分、何事もなかったかのように着席するミラを半目で見るが、クラスメイトも山中先生も教育委員会の関係者も、はっと目を瞠り、呪縛から解けたかのような顔つきになった。緊張が緩和されて、正しく教室に平穏が訪れた。
「コホン……再開しましょうか」
 山中先生は、気を取り直したように咳ばらいをひとつ、教師の顔に戻って、説明を再開した。
「宇宙の広がりについて話を戻すと、二〇年前、宇宙の膨張は、時と共に加速していることが発見されたんだ。ダークエネルギーだよ。ダークエネルギーが消えるとは考えられないので、宇宙はこのまま加速膨張を続けているいくと考えられているんだ。けれども、無限なんてあるのかな? 宇宙にビックバンがあるなら、その終焉もあるんじゃないかと思うよね」
 スッ……ミラが挙手をした。陽一は、ぎくりとさせられたが、山中先生は嬉しそうな顔でミラを指名した。
「何かな、魔王君?」
「物質界の理法と想念アイデアに囚われている限り、人類はいつまで経っても宇宙を証明できませんよ。三千世界は神と悪魔の金科玉条きんかぎょくじょうにより無思慮に生みだされ、滅ぼされていくのです。ただそれだけです。宇宙が膨張を続けているのは、人が決して境界に達しないよう神の与え給う揺籠だから。神は驚天動地の御業で星をリサイクル・・・・・することもあれば、ビックバンからやり直すこともできる。無限かどうかなんて、考えるだけ無駄ですよ。人間は永久に、神と悪魔の玩具なのですから」
 くちびるが柔らかく弧を描く。ため息が漏れそうなほど美しい微笑だが、どこか拷問を愉しんでいるような……滔々とうとうと紡がれる悪魔論に人々が侵されるなか、陽一はひとり冷静に、
「ミラ、人として・・・・回答できないなら、控えなさい」
 真顔でたしなめると、「はい」とミラは素直に返事をして着席した。
 この瞬間「座った」と教室にいる全員が胸に思った。彼らは陽一に対して密かな尊敬すら抱いたのだが、陽一は気づいていなかった。
「魔王君、ありがとう。確かに宇宙の深淵は“神のみぞ知る”だね。人は神にはなれないが、技術は日進月歩だ。二〇一九年、人類が初めてブラックホールの撮影に成功したように、いつかは情報パラドックスも解き明かせるかもしれない。特異点の向こうに無限の世界が広がっているとすれば、僕らの地球とは異なる地球が、それこそ三千世界があって、そこには別の人間が住んでいるのかもしれないね」
 山中先生の言葉に、陽一はドキっとした。測らずも、宇宙の真理に触れた気がして。一瞬、呼吸も忘れていたが、緊張を打ち破るように、昼を告げるチャイムが鳴った。同時に、教室に満ちる未知の浪漫的空想は霧散した。
「では、今日はここまで。次回は教科書の五二ページから、再び地球史にもどって、地球の創成期から地学を学びます」
 山中先生が教壇をおりると、教育委員会の人も教室をでていき、途端に教室は騒がしくなる。
「お昼ですよ。屋上にいきましょう、陽一」
 何事もなかったかのように、ミラが笑顔で声をかけてきた。
「お前なぁ……」
 陽一は苦言を呈そうとしたが、期待に満ちた菫色の瞳を見て、言葉をみこんだ。悪魔に人間の常識が、ましてや徳義が通用するはずもなく。大切なのは忍耐だ。
「昼飯食うか」
 半ば諦めの境地で、席を立つのだった。