HALEGAIA

3章:悪魔たちの燔祭はんさい - 8 -

 無心でミラからもらったエレクトリックギターを弾いていた陽一は、一つ音を外したところで手を休めた。
 譜面に目を注ぎ、軽い眩暈を覚えて机に手をつく。不意に、己の痴態が脳裡をよぎったのである。思わず呻きたい衝動に駆られた。
 できることなら忘れてしまいたい……ミラと濃厚に交わってから、陽一は、彼の瞳を見ることができなくなってしまっていた。
 だが意識しているのは陽一だけで、ミラは相変わらず飄々ひょうひょうとしている。好き勝手に現れては、陽一の世話を焼いたり焼かなかったり、寝ている陽一に悪戯をしてきたり……通常運転である。
 ただ、彼なりに気を遣っているのか、あれ以降は無理に迫ってくることはない。触れる時も、陽一が怯えていないか、様子をうかがっている節があった。
(困ったことになったなぁ……)
 まさか、こんな風に頭を悩ませることになろうとは、思ってもみなかった。
 二人の関係をいい表すのに、ペットや性奴隷といった言葉は、もはやあてはまらない気がする。
 かといって友人や恋人とも違うが、少なくとも酷い苦痛を伴うような、一方的なものでもない。少し前は、顔をあわせる度に、ビショップのことを訊ねていたのに、今では忘れることもしばしばだ。
(どうしちまったんだ、俺は……飼い馴らされてしまったのか?)
 事態が好転しているのか、悪化しているのか、膠着しているのか、今一つはっきりしない。このままでいいはずはないのだが……
「陽一」
 聞き慣れぬ声に呼ばれ、なにかしらと振り向いた陽一は、驚きに目を瞠った。
 格子の向こうに、翡翠の翼をもつ天使がいる。
 光沢のある燃えるような金髪に、秘密めいた翡翠の眼差し。開いた胸元は平らで男性に見えるが、中性めいた美貌といい、綺羅らかで優雅な衣装は女性を思わせる。
 性別不明の――なんて美しい生き物なのだろう?
「えっと、どなたでしょうか……?」
 どきどきしながら陽一が訊ねると、天使は淡い微笑を浮かべた。
「わたくしはジュピター。世界門を開く聖霊です。対の聖霊であるビショップから、陽一を人間界へ帰すよう頼まれて、ここへきました」
 陽一は目を瞠った。流暢な日本語を喋ったことも驚きだが、その内容も耳を疑うものだ。
「ビショップさんを知っているんですか!?」
「はい。わたくしたち聖霊は、星幽界アストラルの意志を共有する因子ですから」
 その説明は陽一にとって全くの意味不明だったが、大事なのは、その前に彼が口にした言葉だ。
「ええっと……あの、俺を家に帰してくれるんですか?」
「はい。魔王さまが進軍している今が好機です」
「魔王様? それって、ミラのこと?」
 ジュピターは少し驚いたような表情を浮かべた。
「まぁ……御名を許されているのですね」
「みな?」
 疑問には答えず、ジュピターは複雑そうな笑みを浮かべた。
「魔王さまは、陽一を傍に置いておきたいのでしょう。でも陽一は、家に帰りたいのですね?」
 陽一は、はっきりと頷いた。
「帰りたいです! だけどミラには無理といわれました。魔界ヘイルガイアから人間界へいくのは大変なことで、神さまの協力が必要だって」
 困惑気味の陽一を見て、ジュピターは美しい顔を憂慮で曇らせた。
「そんなことはありません。魔王さまなら、いつでも陽一を人間界に帰せますよ」
「え?」
「陽一の所属する人間界の結界は、随分昔に私が解いたのですから」
「え……?」
「魔王さまの人間喜劇の趣味も困ったこと。陽一を手元に置いておきたいからといって、酷な嘘をつきましたね」
「嘘……?」
 陽一は蒼白な顔で呟いた。
「驚いたかもしれませんが、今は時間がありません。急がなければ、魔王さまに気づかれてしまいます」
 陽一の視線が虚空を彷徨った。彼女のいう通りなのだろうか? ミラは陽一に嘘をついていたのだろうか?
 呆然と立ち尽くす陽一を見て、ジュピターは少し厳しい表情を浮かべた。
「寵愛が醒めたあとは悲惨ですよ。魔王さまは、人間を冷酷無残に引き裂いて、裏切と苦痛に染まった顔を見て楽しむのですから」
「ミラは……」
 そんなことはしないと、いい切れるのだろうか?
 ジュピターはおもむろに水晶をとりだし、
「御覧なさい。人間界の終焉は、いつだって魔族によってもたらされるのです。その筆頭は魔王さまですよ」
 そういうと、聖霊の御業で、水晶のなかに見知らぬ世界の映像を映しだした。
 世紀末を思わせる光景――金泥に渦巻く炎のなか、漆黒と深紅の衣をまとった悪魔の軍団が、地上を破壊している。
 目を覆いたくなるような映像だった。
 悪鬼どもは、逃げ惑う人間を捕まえて、残虐な魔宴に興じている。
 男の肛門から喉まで串に刺し、剣山のごとく往来に突きたて火で炙り、老人は薪にくべるより簡単に火焔に投げ捨てられ、おさない少年少女は、かわるがわる凶器のような肉棒で犯され、血まみれになりながら絶叫している。
 血の驟雨しゅううのなか、見るに堪えない残虐行為が、あちらこちらで繰り広げられている。
 想像を絶する地獄を、ミラは、焔の軍馬に跨り、表情の剥落はくらくした美貌と冷酷な紫の瞳で、宙から眺めおろしていた。
 あれは本当に、ミラなのだろうか?
 まるで、魔界ヘイルガイアの魔王そのものではないか。
「判りましたか? これが放埓ほうらつな悪魔たちの燔祭はんさいです」
 念押しするように、ジュピターはいった。
 陽一は、膝の力が抜けて、躰ごと床にくずおれてゆきながら、ミラが魔族たちを率いて、本当に異界を滅ぼしているということに、ただただ驚きを感じていた。というよりも、感情がついてこない。
 こんなにも残酷なことが、本当に、どこかの世界で起きているのだろうか?
 ミラの指示で、本当に人間が蹂躙されているのだろうか?
 彼の正体を知っていても、その凄まじさが陽一に向かって前面に押しだされることはなかった。諸悪の根源と知っていても、柔らかな物腰に、親近感すら抱いていた。
 だがこの光景を見せられては――そう思うのに、感覚が麻痺しているせいか、この期に及んですら、陽一はまだミラを信用していた。
 無知蒙昧もうまいに黙りこむ陽一を、ジュピターは注意深く観察していた。
 これといって特筆することのない、凡庸な少年である。多少の気概はあっても、所詮人間の域をでていない。砂漠にまぎれた一粒の砂と同じ。
 一体この少年の何が、永劫の宇宙をけみする魔王の目を引いたのだろう?
 幾星霜、ジュピターが一度として向けられることのなかった視線を、この少年は出会ってから僅かな時間で手に入れてしまった。
 いったい、ジュピターの何がいけないのだろう? この少年にあって、自分にないものはなんだろう?
(羨ましい……)
 心の底で昏いよどみが蠢いた。
 この少年に成りかわりたい。送り手としての特別な立場や外貌の美しさを失っても、矮小な人間に転落するのだとしても、魔王に寵愛されている、この少年に成りかわりたい。
「ミラ……」
 蒼褪めた顔で、陽一は唇を戦慄わななかせた。ジュピターは憂いのある微笑を浮かべ、
「判りましたか? 魔族と人間では、生きる世界も流儀も違うのです」
 陽一は、沈痛な眼差しで聖霊を見つめた。翡翠の眼差しが、慈悲を与えるように細められる。
「今をおいて他に逃げる機会はありません。地球へお帰りなさい」
 疑惑に駆られたあとで、その言葉は、甘い糖蜜をかけられたような気持ちにさせられた。
「……本当に帰れますか?」
「ええ、今ならば。魔王さまが気づく前に、さぁ……扉を開けてくださいな」
 頷く以外の、どんな答えがあっただろう?
 帰れる可能性に希望を抱く一方で、胸が痛んだ。
(どうしてミラは、教えてくれなかったんだろう? やっぱり俺は、ただのペットなのかな?)
 ここで過ごした奇妙な日々が、走馬燈のように脳裏を駆け巡る。ミラを恐ろしく思う一方で、惹かれてもいた。彼の方も少なからず陽一に好感を抱いてくれているように思っていたが、全て陽一の勘違いだったのだろうか?
 そう考えた途端に、傷口に塩をすりこまれたような苦痛を感じた。
「さぁ、早く」
 低く、柔らかく、ジュピターが囁く。
 陽一はミラを想いながら、後ろめたい決断をくだした。ミラに黙って、自ら扉を開けてしまった。
 ジュピターはほっそりとした両腕を伸ばし、陽一の膝裏に手をいれて抱きあげた。
「えっ!?」
 まさかのお姫様抱っこである。烈しく動揺する陽一にお構いなしに、聖霊は翼を広げた。風を感じたのは一瞬で、無限に広がる真空宇宙へ放りこまれたかのように、視界が暗転した。
「―――ッ」
 目まぐるしい状況変化に、陽一は言葉を発することができなかった。躰の安定を求めてジュピターの首にかじりつくと、翡翠の瞳と遭った。
 気のせいだろうか?
 一瞬、美しい瞳のなかに、狂気のほむらが揺れるのを見た気がした。