HALEGAIA

3章:悪魔たちの燔祭はんさい - 7 -

 宇宙の霄壌しょうじょう魔界ヘイルガイアと三千世界の端境はざかいに、ジュピターは応召した。
「魔王さま」
 玲瓏れいろうたる美貌の悪魔に、恭しくこうべを垂れる。彼を前にすると、いつだって平静ではいられない。生娘のように、心のいとをかき鳴らされてしまう。
 その浮足立った感情も、次の言葉によってかき消された。
「陽一に、手をださないでください」
 ミラは優雅だが冷厳な口調で命じた。
「申し訳ありません。ビショップが気にしておりましたので、鳥籠から連れだそうと……」
 端正な顔に悔悟を浮かべ、ジュピターはしおらしく答えた。
 思わず慰めたくなるような儚げな風情だが、ミラは薄く笑った。
れ言は結構。そのような心配をしなくても、陽一のことは大切にしていますよ」
 その声には、真実の響きがあった。ジュピターは目を伏せたまま、ほとんど沈痛に響く声で答える。
「……それほどお気に召したのですか」
「ええ。ですから、金輪際手をださないでください。聖霊と違って、人間は脆弱で儚い生き物なんです」
 脅しめいた微笑に、ジュピターは見惚れると同時に、胸に抉られるような痛みを感じた。
 晴天の霹靂である。
 幾星霜魔王を見てきたが、彼がこれほどまで心を砕く相手は、今まで一人もいなかった。ましてや取るに足らない人間に、執着を示すだなんて。
 一時戯れる相手なら、星の数ほどいた。
 妬ましくても、すぐに終わると知っていたから傍観していられたのに……いられなくても、魔王がここまで怒りを露わにすることはなかった。
 歯痒い思いで、ジュピターは俯いた。
 唯一ではない、星屑のような人間を傍に置くというのなら、ジュピターでも良いではないか。無尽蔵の星幽界アストラルの因子だって、良いではないか……
 魔王の心を独占している少年に、嫉妬の念を掻き立てられずにはいられない。胸のなかで、うずみ火が、一挙に燃えあがった。
「全く、貴方たち・・は懲りませんねぇ……今回は見逃しますが、次は容赦しませんよ」
 ミラは、項垂れるジュピターを睥睨していった。
 恩情をかけたというよりは、面倒を避けたというのが本音である。
 星幽界アストラルの因子は、殺しても殺しても、次から次へと現れる。神からは小言をいわれるし、手間をかける割に得られるものがなく、蹉跌さてつを味わうばかりで旨味がないのだ。
 第一、くびきも拷問も、ミラから与えられるものであれば苦痛ですら悦びを伴うジュピターには意味がない。
 適当に突き放しておくのが、一番面倒がないのである。
「いい子にしていてくださいね」
 ミラは、睦言のように囁くと、菫色の虹彩を天に向けた。
 銀色の筋が走り、空間に亀裂を走らせ砕け散った。破片を散らし、黒い空洞がのぞいて、無彩色の灰色から白へと変わっていく……
 幻覚だ。ジュピターの感覚が視せている、意識の投影。
 魔王が空間を超える様子を幾度となく目にしてきたが、今は、世界が失われたように感じられた。
 魔界ヘイルガイアにも、天界パルティーンにも、端境はざかいにも、三千世界にも――この宇宙のどこにも居場所がない。何もない世界に、ジュピターはのこされてしまった。
 恐ろしいほどの淋しさが胸を浸し、無限の彼方に霧散した意識を、躰のなかに集めまとめるのに、ジュピターは苦労した。
 うろを満たしたのは、憎しみだった。
 大切にされている人間の少年が、妬ましくて、憎らしくてたまらない。
 本来魔族は人間を前にすると、嬲らずにはいられないはずなのだ。だというのに、陽一に限って当てはまらないのは、恐らく彼が魔界ヘイルガイアに囚われているからなのだろう。人間界へ堕ちれば、しもの魔王も目が醒めるに違いない。
(あの少年をなんとしても連れださなくては)
 仄昏い決意を胸に、ジュピターは対の聖霊であるビショップに呼びかけた。
 聖霊は、時間も重力も超越した上位次元の使徒であり、その魂は繋がっているのだ。
(ビショップ、話があります)
 いらえはすぐにあり、二人は天界パルティーンと三千世界の端境はざかいに姿を見せた。
 ここであれば、魔王にも不可知である。秘密の会話を悟られることもない。
「こんにちは、ビショップ」
 ジュピターが優雅にお辞儀をすると、ビショップも同じようにお辞儀をした。基本的に聖霊は礼儀正しいのである。
「どうかしましたか?」
 ビショップが訊ねた。
「ええ。貴方の代わりに鳥籠に入っている少年のことで、困ったことになっています」
 と、ジュピター。
「困ったこと? 魔王の寵愛を受けていると聞きましたが……なにかありましたか?」
「まさにそれです。魔王さまの贔屓に、同胞はらからたちが動揺しています。このままでは、よくないことが起こるでしょう」
 その言葉には嫉妬が含まれていて、ビショップは不快げに顔をしかめた。聖霊は魂を共有しているので、ジュピターのミラを慕う気持ちが否応なしに伝播でんぱし、嫌悪したのである。
 同じようにジュピターも、ビショップのミラに対する嫌悪を共有し、一瞬、困ったような顔を浮かべた。
「ビショップ、あの少年を助けてください。魔界ヘイルガイアにいては、いずれ殺されてしまうでしょう」
 ビショップは表情を曇らせた。
「私も責任を感じていますが、魔王の寵愛があるうちは、連れていくわけにもいきません」
「魔王さまの寵愛は一時の戯れ。躊躇することはありません」
 ビショップは肩と畳んだ翼を一緒にすくめた。
「一時の戯れだというのなら、もう少し静観してはいかがですか? 魔王が手放した時は、私が人間界へ連れていきますよ」
「いいえ、ビショップ。陽一は儚い人間の身。今すぐにでも鳥籠から逃がしてやらなくてはいけません」
 ジュピターはもっともらしい口調でいったが、ビショップは諫める目で見つめた。
「その言葉は、あの少年を思ってのことですか? それとも、恋着ですか?」
 核心を突いた指摘に、ジュピターの端正な顔は物憂げに翳った。
「もちろん、魔王さまをお慕いしています。けれど、少年を憐れに思うわたくしの気持ちも、本当ですよ」
「知っていますよ、ジュピター。私は貴方であり、貴方は私なのだから」
 ビショップは身を屈め、ジュピターの額に唇を押し当てた。共感と親愛のキスを受けながら、ジュピターは懇願の眼差しでビショップを見つめた。しかし、蒼氷色の瞳に宿る理知的な輝きは、変わらなかった。
「彼に手をだしてはなりません。貴方の身を焦がすことになりますよ。平衡を保つのです」
 清廉なる賢者は、翡翠の眼にじっと視線をあてまま、静かな口調でいった。
 ジュピターは弱弱しく微笑を返しながら、小さく頷いた。
 互いの意識が同調し、浸透しきるのを感じると、彼は納得したように光の粒子を瞬かせて姿を消した。
 残されたジュピターは、微笑を消して瞑目した。
 ビショップに申し訳ないと思いつつ、どうやら平衡を保つことは難しそうだという思いに囚われていた。
 無為無策のまま看過はできない。自分は恐らく、陽一を殺してしまうだろう。