FAの世界

1章:楽園の恋 - 5 -

 それだけじゃない。先ほどの温泉も、この邸も、あの不思議な乖離かいり感のなかで見た気がする。
(いやいやいや、まさかそんな……ぶっ飛んだ話を聞かされて、記憶を捏造したのか?)
 記憶にまとわりつく音のこだま、太鼓の音が耳の奥で響いている。
 この美しい男も、記憶の断片で見たのだろうか?
 囲炉裏の炎がぱっと大きくなる。アーシェルの顔の上で光と影が戯れているのを眺めながら、しばらくのあいだ虹はじっとしていた。
 理解できないさまざまな言葉と景と音とが、霊の囁きのように心に語りかけてきたが、やがて遠のいて、ぱちぱちと爆ぜる焔の音だけが残った。
 瞬きをし、ようやく緊張を解いた虹は、手元の湯呑に視線を落として、
「やっぱり、よく判りません……アーシェルさんは、どうしてあそこにいたのですか?」
「今夜は格別に良いが見えたのです。御煌臨こうりんがあるやもと思い、泉に参りました」
「良い?」
「星々の定め、宇宙の御意を問いかける万象ばんしょう占いでございます。数日前から瑞相ずいそうが顕れ、郷の兄弟はらからも喜びに沸いておりました」
「宇宙……」
 呟いた虹は、頭痛をこらえるように、こめかみを指で押さえた。
 草津温泉に宇宙への扉が秘されているとでも? そんな小説みたいな話が、現実に起こりえるのだろうか?
「王が崩御されると、その身に宿す水晶核は瞬時に膨張し、あまねく宇宙へ澄み透り、次代の王に宿ります。霊魂の輪廻、すなわち“水晶核の継承”でございます。継承者は我らを統べる王として、星の彼方から喚ばれるのでございます」
「それはまた……なんていったらいいのか、壮大ですね。原始のビッグバンみたいだ」
 虹は唖然と思いつくままに口にしたが、左様でございます、とアーシェルに肯定されてしまった。
「我々は今、絶滅の危機にあります。長きにわたる王の不在により繁殖できず、時と共に数を減らし過ぎました」
「どうして、王がいないと繁殖できないのですか?」
「我々は水晶核から形成されます。この心臓というべき水晶核を生みだせるのは水晶の君、ただおひとりでございます」
「王だけ?」
 答えを求めてアーシェルを見つめると、彼は真面目な顔で頷いた。
「我が“ファルル・アルカーン”よ、まことにこの意味が御分かりになりませんか?」
「いえ、全く……」
 戸惑いながら虹が応えると、アーシェルもくちをつぐんだ。
 沈黙。
 霊が通り過ぎるといわれるたぐいの長い一瞬があった。息を一継ぎする間。
 ファルル・アルカーン。
 第六感が警鐘を鳴らしている。縹渺ひょうぼうとした問いかけであるのに、くちにすることも追及することも躊躇われた。その言葉を理解してしまっては、取り返しのつかないことが起きる予感がしたのだ。
「御身は唯一無二の存在。私を含めて水晶族の兄弟はらからは皆、王に使えるしもべでございます」
 碧い瞳の奥を一瞬、複雑な光がよぎったのだが、あまりにもかすかな光で虹には判別できなかった。
「ひとりの王に、皆が尽くすんですか?」
「はい」
「僕は男ですよ」
 そういって虹は、ぽかんとした。当たり前のことを口にしている自覚はあったが、次のアーシェルの回答は想像の斜め上をいった。
「王の御姿はさだめられておりません。先王は半人半神の男性体でしたが、生殖器は有しておられませんでした」
 王が産み落とすというから、てっきり女王に限ると思ったが、そうでもないらしい。もしかしたら、男性が王位に就く場合は、在位が短いのだろうか?
「……前王から、どれくらい時が経っているのですか?」
「およそ千年でございます」
「千年?」
「はい」
「……ん? だけど、千年も王が不在で、王がいないと繁殖できないのに、どうやって水晶族は今日までやってこれたんですか?」
「繁殖はできませんが、我々は核を失わない限り死ぬことはありません。国を守りながら、水晶の君の御煌臨こうりんをお待ちしておりました」
「そこが一番判らないのですが、どうして僕なんですか? 僕は一介のサラリーマンで、ここがどこかも判らないのに、お役に立てるとは思えないのですが……」
けた生は関係ありません。原初の水晶に選ばれし者が、次代の王となるのです」
 否定に否定が返され、虹は言葉に詰まる。そんな馬鹿な――強く反駁はんばくしたい気持ちを堪えて、ただすべき疑問に意識を向けた。
「その、原初の水晶というのは、何ですか?」
「王がもつ水晶核です。王は崩御なさる際に、あまねく宇宙に命の波動ともいえる水晶波を及ぼします。一刹那いちせつなのあいだに星間宇宙の時間と空間のあらゆる弥終いやはて瞥見べっけんし、ただひとりの国君こくくんを見つけて、原初の水晶を託すのです」
「いや……? ちょっと身に覚えがないのですが……」
 ありえないと思いつつ、一抹いちまつ疑懼ぎくが芽生える。荒唐無稽な話でも、真面目な顔つきで懇切に、繰り返し訴えられると、まったき真理に聞こえてくる。
「コウ様は我らの王で間違いありません。こうして御前にいるだけで、思慕と崇敬の思いが滾々と湧きでて、胸苦しいほどでございます。先王のときにも増して血潮が昂るのです」
 潤んだ瞳に熱心に見つめられて、虹は、己がなぜ照れているのかも判らぬまま、いやァ、と黒髪を撫でた。
「水晶族の衰退は、王の不在だけが理由ではございません。この国は宇宙に庇護された超越空間ですが、まれに外宇宙の往還を可能にする高位知性体、宇宙侵攻のたばかり者から侵略を受けてきました。この千年紀は貴金族の執着が凄まじく、前王も闘いのさなか命を落とされたのです」
「戦争が身近にあるのですか……火種はこの国の資源ですか?」
「はい。水晶の霊力受容にあずかる知性体は数多くいます。なかでも貴金族は危険思想のもとにつどう錬金術師集団で、究極の金属錬成のために、この水晶郷を狙っているのです」
「え――と……究極の金属錬成?」
 一瞬、思考停止に陥りかけながら、虹はなんとか疑問をくちにした。
金剛石ダイアモンドより尚強い、完璧な黄金オリハルコンです。彼らは恐るべき錬金術を有していますが、無から黄金を創造することはできないのです」
「……うーん……?」
「心配には及びません。この国は宇宙開闢かいびゃくより狙われてきましたが、我らの心の臓を貫くことはそうたやすいことではありません」
 アーシェルは虹の手をとると、薄絹のうえから己の左胸に触れさせた。
「えっ?」
 ひんやりと、思った以上に固い感触を掌に感じたので、虹は驚いた。
 実は、湯に浸かっていた時から気になっていたのだが、アーシェルの胸には乳首がない。骨格は人に似ているが、手足が長く、真珠をまぶしたような肌の煌めきといい、やはり種族が違うのだと思わせる。
「水晶核は、この胸の裡にある心の臓です。急所ですから、皮膚の硬度を意識して高めることもできます。このように」
「わ、カチコチ……」
 一瞬で肌が硬くなった。温度のある肌ではなく、陶器を触っているみたいだ。
「我らは水晶核さえあれば、どれほど肉体を損傷しても修復できるのです」
 アーシェルは真面目な表情で話しているが、虹はいよいよ口元がひきつりそうになった。
 なるべく偏見や先入観を持たずに、話を聞こうと努力しているが、そろそろ限界だった。やはり現実とは思えない。野放図な夢でも見ているとしか思えない。
「どうかされましたか?」
「いえ、話が壮大すぎて、ちょっと僕の手には負えそうにないなと思いまして……」
 虹が乾いた笑いをこぼすと、アーシェルは眉宇びうに憂慮を漂わせた。
「我々は王を頂点として栄える種族、私を含めて水晶族は皆、貴方様の忠実な藩屏はんぺいでございます。これ以上一族の数が減ると、大水晶環壁かんぺきを維持できなくなります。水晶の君の御力が必要なのです」
 また新たな謎単語の登場である。
「大水晶環壁かんぺき?」
「環状に並ぶ水晶柱群です。要害堅固ようがいけんごの防壁であり、鋼や魔法による攻撃を一切通しません」
「魔法ですか……」
 思わず遠い目になる虹を見つめて、アーシェルは悠揚ゆうよう迫らぬ口調で続けた。
「はい、この国の半永久的な防衛機構です。不壊ふえ浄刹じょうせつ結界もかれていますから、自然に反するけがれは立ち入ることができません」
 表情も声も、真剣そのものだ。
 とても冗談をいっているようには見えないが、それでも虹は頷くわけにはいかなかった。
「王とか水晶の君とか、僕はそんなんじゃありませんよ。この胸の奥には、水晶なんてありませんから。心臓があるだけですから」
 己の左胸に手をあてて訴える。
「いいえ。御身の隅々にまで、浸透されていらっしゃいますよ」
「え?」
 きょとんとする虹を見、アーシェルの瞳にふっと微笑が浮かぶ。
「その可憐なふたつの果実や、血潮の流れる王笏おうしゃく、秘めた奥処おくかから、濃厚で芳醇な香りがいたします」
「……ぅ、可憐な果実って?」
 嫌な予感を覚えつつ、虹はもぐもぐと訊ねた。
「御身の乳首でございます」
「はぁ!? 乳首は乳首ですよ! 水晶とは無関係の、退化した無意味な器官ですからっ」
 虹は胸に手をあてて主張したが、アーシェルはほほえんだ。
「無意味だなんて、とんでもございません。我らのかてである美妙なる命のしずくをお垂れになるではありませんか」
かてってなんです? 乳首からそんなものは……」
 はっと虹は息を飲む。はらわたに一撃を喰らったかのごとく両目を瞠った。
 熾に火が灯るように、ずくんと乳首が疼く。ありえない射精感――溢れる乳――あれは夢ではなかったのか?
「初めて味わう蜜の味は、たいそう甘美でございました」
 疑問に答えるように、アーシェルは嫣然えんぜんと笑んだ。
「やめてください!」
 悲鳴のように虹は叫んだ。衝動的に立ちあがると、呼び止める声を無視して居室を飛びだし、裸足のまま邸の外へ転がりでた。