DAWN FANTASY

3章:囁きと庇護者 - 3 -

 気持ち悪い……七海は吐き気を催して、洗面台に駆けこんだ。
 鏡を見てぎくりとなる。
 まるで受胎したみたいに、腹が膨れている。異様に膨らんだ腹を撫でると、ぼこぼこと脈打った。心底ぞっとした瞬間、腹に人面相が浮きあがった。
「ぃやッ……」
 びくっと全身が強張り、唐突に目が醒めた。
 荒い呼吸を繰り返しながら、七海は腹をさすった。脂肪のついた三段腹はあいかわらずだが、異妖な膨らみはない。
(酷い夢……)
 額をおさえると、掌がぐっしょり汗に濡れた。部屋は寒いくらいなのに、全身汗みずくで、背中に汗が流れている。
 沙幕カーテンの端から陽が漏れて、小鳥が囀っている。なんだか部屋の様子が違うと思ったら、隣を見てぎょっとなった。
(どうしてランティスさんがいるの!?)
 あらゆる疑問の群れが、騒然と脳裏をかけめぐる。昨夜の出来事をよく思いだせなかった。
(寝支度をして寝室に入って……その後はどうしたっけ?)
 ここは彼の寝室だ。お互い寝室着は纏っているから、間違いが起きたわけではなさそうだが。
 ということはつまり……七海が寝ぼけて、彼の寝台にもぐりこんだのだろうか?
 目まぐるしく思考を働かせていると、ランティスが目を醒ました。
「七海、ダイジョウブ?」
はいィオ……」
 酷く掠れた声がでた。喉が痛い。小さく咳払いをすると、ランティスは七海の頬を両手で包みこんだ。どきまぎする七海の顔を覗きこみ、なにやら諭すように続ける。
「**、*****」
(何? まさか私、寝言いっていた? 煩いっていってる? それとも寝相が悪かった!?)
 混乱の極地に陥っている七海に、彼は清めの魔法スプールをかけて、再びベッドに横になるように促した。半ば茫然自失しながら横になると、彼は枕の位置を整えて、あやすように毛布の上から軽く叩いた。
 毛布から顔をのぞかせ、七海はランティスをじっと見つめた。
 起きたばかりなのに、どうして寝かしつけられているのだろう……疑問に思った時、七海はようやく、自分が熱っぽいことに気がついた。
「すみません、なんだか体調が悪いみたい……」
 自覚した途端に目眩がして、瞼を伏せた。
 この後、つくづくベッドのある部屋にいて良かったと思うのだが、人生最悪の高熱に襲われた。
 食欲不振と全身の抜けるような気だるさに見舞われ、指一本動かせる気がしない。少し動くだけでも痛いのだ。目を開けるのも苦痛で、仰臥ぎょうがすることしかできない。
 日中良くなったと思っても、夜になるとまた熱が高くなり、体調は一進一退の攻防を繰り返した。
 ランティスはとても優れた思い遣りのある看護人になってくれた。
 けれども神秘の治癒魔法に効果はなく、薬を飲んだ直後などは、かえって症状が悪化するように感じられた。
 これはもう、魔法や薬では根本解決できぬほど、心身の疲労が限界なのかもしれない。
 恵まれた平和な日本で生きてきた女が一人、突然、言葉の通じない世界に落とされ、神経をすり減らしながら野宿生活を余儀なくされたのだ。神経衰弱に陥ったとしても不思議ではない……
 始めはそう考えていたが、症状が長引くほどに、不慣れな野宿生活がたたっただけではないような気にさせられた。
 この暗鬱さ……塔の呪いなのかもしれない。
 たまに鏡を覗きこむと、顔に色艶がなくて、死霊にかれているのだと自分でも感じるほどだった。
 寝こんでから、三度陽が昇った。
 昼過ぎに目が醒めたが、相変わらず絶不調だった。
 まだ熱が引かない。これまでの人生で、これほど熱が続いているのは初めてのことだ。
 傍机の上に、水の入った硝子製の卓上瓶と、切子硝子の杯が置いてある。
 猛烈な頭痛に見舞われ、手を動かすだけでも疲れる。水を飲もうと起きあがるだけで疲労困憊してしまい、身を横たえて息を喘がせた。
「七海」
 寝室に入ってきたランティスが傍にやってきた。彼は七海が起きあがるのに手を貸し、水も飲ませてくれた。
「ありがとう、ございます……」
 きちんとお礼をいいたいのに、殆ど聞き取れない、掠れた声しかでなかった。
「七海……***食べるノグー****?」
 彼は心配そうに七海の髪を撫で、食べる身振りと共にいった。七海は力なく首を振る。
「すみません……無理そう……」
「****……」
 判ったよ、というように、髪を撫でてくれる。そのまま目を閉じて眠りに落ちた。
 夜になって目が醒めると、鞣皮なめしがわで張った肘掛椅子にランティスは座っていて、本を読んでいた。七海に気がつくと、いったん部屋をでていき、食事を運んできてくれた。
 果実の風味のする仄甘い冷水と温かい根菜の汁、湯気のたつ土鍋には、白い粥が入っていた。
「ランティスさん、それは無理そう」
 七海は申し訳無さそうに首を振ったが、ランティスもかぶりを振った。
「七海、食べるノグー、********」
 諭すように話しかけながら、手を動かしている。種を抜き、軽く叩いた梅肉、細かく砕いた胡桃とをいれて、蓮華れんげでかき混ぜる。
「七海、イムイム」
 蓮華を差しだされて、七海の時はしばし止まった。ランティスはイムイム、と同じ台詞を繰り返す。これはまさか、あーん、というやつではなかろうか?
「ぃ、いむいむ……」
 七海は想像力を働かせると、勇をして口を開けた。
 どうやら正解だったようで、蓮華がそっと口のなかに入ってきた。
 淡い桜色を帯びた粥は、五穀米のような仄甘さと果肉が美味しく、何も食べられないと思った七海の喉を、あっさり通過していった。
 一口食べたあとは、蓮華を渡してもらい自分で食べた。咀嚼しながら、日本で食べていた粥の味を思いだしていた。
 時に小言をいわれもするが、具合の悪い時など、母はとくに優しかった。食べやすい料理を作ってくれて、歩くのが辛い折には病院に付き添ってくれたりもした……
 七海は椀の半分ほどを平らげると、申し訳なさそうにランティスに返した。
「ありがとうございます。すみません、もうお腹いっぱいです」
よくできましたラーチェ
 頑張ったねと頭を撫でてくれる。
 褒められて面映ゆく俯いた七海だが、つぎに丸薬と白湯を渡されると、思わず顔をしかめた。
 この薬を飲んだあとは、決まって酷い幻聴と幻覚に見舞われるのだ。渋っていると、宥めるように髪を撫でられた。
「……判りました。飲むアテー
よくできましたラーチェ
 今度は髪にくちづけられた。
 彼が褒めてくれるから飲んでいるようなもので、果たして薬に効果があるのかは甚だ疑問である。
 気分が悪くなる前にさっさと眠ってしまおう……と、七海は無理やり目を閉じて眠りに落ちた。
 薬を飲んだ後は、怖い幻覚を見ることが多いが、この日は母の姿を視た。
 白い日除け帽子をかぶって、生け垣に咲く朝顔の世話をしている。春ごろから種を蒔いて、大切に育てた朝顔はいま美しく、青、白の花、仄紅い蕾を幾つかつけている。
「綺麗に咲いたでしょう?」
 朝露に花開く朝顔のように、優しく笑みかける母。
 在るはずもない在りし日の姿は、七海の願望が見せる幻に違いない。それでも、いわずにはいられなかった。
「いかないで、お母さん」
 手を伸ばすが、母の姿は遠ざかっていく。
「待って……私もいく」
 瞼に哀切がたまり、溢れて頬をつたう。夢うつつに手を伸ばす七海を、ランティスが捕まえた。
「離して」
 身をよじろうとするが、弱った躰に力は殆ど入らなかった。
「厭よ、離して……お母さんのところにいかせて……」
 夢幻に手を伸ばしても届かない……
「シィ、七海……*******?」
 耳元で優しく囁かれるうちに、伸ばした手はぱたりと落ちた。両手で顔を覆ってすすり泣く。
「うぅ……ふぅ……ッ」
 なぜここにいるのか?
 どうしてここへきたのか?
 何百、千、万と繰り返したか判らない、答えのない疑問ばかりが脳裏をよぎる。
 二十九歳で実家暮らし、恋人の一人もいなくて、両親から結婚の心配をされるたびに、肩身の狭い思いをしていた。そのくせ一人暮らしをする踏ん切りもつかず、ぶつくさ不平を垂れては、仕事にでかけていく代わり映えのない日々を送っていた。
 ぱっとしない、憎んですらいたはずの日常が、無性に恋しかった。
 一緒にいれば小言もいわれるし、窮屈な思いもあったけれど……おびただしい思いでの数々、生まれ育った大切な故郷の記憶が胸に迫る。
 帰りたい――家族の待つ故郷ふるさとへ。愛しい我が家に帰りたい。
 胸苦しさのなか、七海はコホコホと咳をした。
 どうしようもない心残りと、降り積もる哀惜の念に押しつぶされてしまいそうだった。苦しくて、どうすれば救われるかも判らずに、しくしくと啜り泣いた。そうして弱った心に魔が射した。

“かわいそうな、ナナミ……辛いわね、よく判るわ。もう楽になっていいのよ……”

 躰を乗っ取られる。そう感じながら、母のような慈しみも感じてしまい、身を委ねても良いかと思ってしまった。
 生きていても希望がない。どこかも判らぬ世界で苦しみ衰弱するならもう、もうこんな躰いらない……欲しいというなら貴女にあげる……
「七海!」
 眠ってしまいたかったが、ランティスに揺り動かされた。
「やめて、起きるから……」
 瞼をもちあげると、緊迫した表情のランティスが、七海の顔を覗きこんでいた。
 彼には醜態ばかり見せてしまっている。もうすぐ三十になろうという女が、母親恋しさに幼稚園児のように泣いている姿は、見られたものではないだろう。
「ごめんなさい、泣いたりして……」
 気恥ずかしくて、ぼそぼそと呟くと、大きな掌に頭を撫でられた。
 七海が落ち着いたのを確かめて、ランティスは腰をあげた。
「*****、******」
「ぁ……ありがとうございました」
 彼が部屋をでていくのを、ぼんやり見守っていると、間もなく盆を手に戻ってきた。
「****」
 シナモンと砂糖のいい匂いがする。紅茶と、林檎の甘煮を持ってきてくれたようだ。
 傍机に銀盆を置くと、ランティスは寝台の傍に椅子を持ってきて腰掛けた。白鑞しろめの器と銀匙を手にとると、
どうぞプレ
 一匙すくって差しだすので、七海は赤くなった。控えめに銀匙に手を伸ばすと、彼はすんなり渡してくれた。
 甘味を食べ終えると、彼はなんと、優美な竪琴シタラを弾いてくれた。
 美しい音色は変幻自在に変わり、火の粉の精が躍るのにあわせて、あるいは水の精の戯れにあわせて、豊かに響いていく。
 異国情緒に溢れた演奏の素晴らしさに、七海の心はすっかり奪われてしまった。竪琴シタラをかき鳴らす美しいランティス……彼は本当に妖精なのかもしれない。
 音楽がやんで、夢のような一時が終わると、七海は夢中で手を叩いた。
「すごい! よくできましたラーチェ
 紅い顔で七海が絶賛すると、ランティスは虚を衝かれたような顔になって、それからくすっと笑った。
「演奏がお上手ですね。とっても素敵でした。どうもありがとうございます」
 音楽に言葉はいらない。演奏の素晴らしもさることながら、慰めようとしてくれる思い遣りが嬉しくて、心が震えた。
(……素晴らしいひと)
 学生時代の交流や、職場での飲み会で異性と出会う機会はそれなりにあったが、おつきあいするまでには至らなかった。一度か二度のデートはあるが、キスをしたこともない。凡庸な外見で、社交的でもない七海に、殆どの男たちは耐えられなかったのだ。
 学生の頃は、ひけらかすような友人の恋話が羨ましくて、胸が焦がれるほどの焦燥に駆られたこともあったけれど、そういった衝動は次第に減っていき、平穏な日常に安らぎを見だすようになっていた。
 それなのに……
 今さら、こんな風に胸をときめかせることになるとは思ってもみなかった。
 彼のような人に出会えるとは、思わなかったのだ。強く気高く、自制心に溢れ、温和で忍耐強い。特別な人に。
(……だめよ、これ以上惹かれないようにしないと。でないと、あとで傷つくんだから)
 ふぅ、と息をつく七海を見て、ランティスは横になるよう促した。
 温かい毛布と枕とを感じると、たちまち快い睡魔に襲われた。眠くて瞬きするのさえ億劫に感じる。
「*****休んでイーザー……」
 視線をもちあげると、碧い瞳と遭った。
 淡い恋心に蓋をして、優しい手に身を任せる。具合が悪い時は誰かに甘えたくなるのかもしれない。母の手とは違う骨ばった男性の手に、不思議なほど穏やかな慈愛を感じる。
 なんともいえぬ優しさに浸されながら、瞼にくちづけを受けて、七海は夢の世界へと入りこんだ。