DAWN FANTASY

2章:最後の黄金 - 2 -

 最悪なことに、生理がやってきた。
 いつも二日目にかけて重い生理痛があり、欠かさずに薬を飲んでいるのだが、この状況では望むべくもない。
 これまでの日常で当たり前にケアできたことが、ここでは何一つ望めない。ランティスにもらった手巾を股間にあてて凌いでいるが、肌に擦れて痛いし、血の流れる不快感にさいなまれた。
 危険極まりないあなぐらで、絶えず緊張を強いられながら、生理になってしまい、四六時中男性と二人きりで過ごさねばならない環境に、七海の精神的負担は限界に達しようとしていた。
 津波のように、強烈な痛みが下腹部に押し寄せてくる。
 暗闇の無限回廊と、自分の行動のいちいちを他人に委ねばならないことに発狂しそうだった。
(……もう厭。ほんと疲れた……いっそ楽にして)
 静かに、けれども強くねがった一刹那いちせつな、視界が変化した。
「え?」
 無機質な灰色の光景。無数の階段があり、無数の穴がある。
 重力を無視して、上に下に斜めに渡された階段が、放縦ほうじゅうに伸ばされて、まるでシュアレリスムの原画に迷いこんでしまったような錯覚をきたす。
「ランティスさん?」
 いらえはない。
 誰もいない。
 戸惑いながら歩き始めたが、影が壁になり、壁が影になり七海を惑わせる。
「ランティスさん!」
 一秒ごとに心臓の鼓動が早くなっていく。嫌な汗が背中を伝う。必死にランティスの姿を探すが、この道があっているかどうかも判らない。
 無音。
 誰もいない。
 方向感覚が失われる。同じような道が複数あり、自分が辿ってきた道がどれかも判らぬ。
 無機質な空間で、七海の荒い息遣いだけが響いている。
 あちこちに視線を投げていると、脚がもつれて転んでしまった。立ちあがろうとした時、左の膝に強烈な痛みが走った。
「いったぁ~……」
 じくじくとした痛みに混じって、良心の呵責かしゃくのようなものが心臓を突き刺した。
 親切にしてくれている人に感謝もせずに、独りになりたいとねがったりしたから、罰が当たったのだろうか? 
「ぅ……」
 嗚咽がこみあげそうになり、唇を引き結んだ。
 泣いたってなんの解決にもならない。体力を消耗するだけだ。
 痛みを堪えて立ちあがり、ひとりつ。涙を拭って歩き始めた。
「ランティスさん! ランティスさーん!」
 どれだけ叫んでも返事はない。心細さに加えて、太腿に血が伝うのを感じて、新たな涙が溢れでた。
「もうやだ……なんで、どこなの……うぅ……っ」
 たまらなく心細い悲惨な心理状態で、それでも歩いていけば見つけてもらえるかもしれないという、一種甘い願望に突き動かされ、止めどなく流るる涙を、手で押しぬぐい押しぬぐい、一心に歩き続けた。
「ランティスさーん……」
 無心で脚を動かすうちに、これが現実か妄想なのか、区別が模糊もことなった。
 家に帰りたい。家族に逢いたい。武蔵と散歩にいきたい。走馬灯のように、日本での記憶が脳裏を駆け巡る。
 そろそろ師走しわすだ。今頃、七海は行方不明になっているのだろうか? 両親はさぞかし心配しているだろう。
 人生はまだまだ続いていくと思っていたのに、もう二度と、会えないかもしれない。
 こんな寂しい、どこかも判らぬ異界の地で、独りきりで死ぬのだろうか?
 誰にも知られず、友人にも家族にも知られることなく、世界から消えてしまうのだろうか?
 一歩が重くなっていく。
 ぼろぼろになった心につけいるように、亡霊たちの囁きが大きくなる。

“死ねばいいよぉぉぉぉぉぉぉ楽になりなよぉぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ”

 錯綜さくそうする無線みたいに、耳障りで歪な声が、幾つも重なって聞こえる。
「くぅ……うぅ……っ」
 とうとう七海は、立ち止まってしまった。
 あまりに失望してしまい、あまりに我が身が哀れで、理不尽で、切なくて、心底疲れてしまって、もう一歩も歩くことができなかった。
「もぉ無理……家に帰りたいよぉ~……」
 小さな子供のようにうずくまって、すすり泣いた。広漠こうばくとした孤独の砂漠のなか、その声は蜉蝣かげろうの羽よりもかすかで、あまりに弱く儚い。

“ナナミ……泣かないで……”

 不意に女性の声が聴こえた。
 何度か耳にしたことのある声だが、正体は判らない。けれども、無音の歔欷きょきに浸されていた七海にとって、天使の囁きも同然だった。
「誰……?」
 ふらふらと立ちあがった七海は、声の主を探して視線を彷徨わせた。

“ナナミは一人じゃない。私が傍にいるわ……”

 五感の錯覚なのだろうが、髪が揺れて、目に見えない腕に抱きしめられたように感じられた。安堵のような歓喜のような鋭くほとばしる感情が、脊柱せきちゅうから這いがってきて、肩から力が抜け落ちた。
「私、ランティスさんとはぐれてしまって、帰り道が判らなくて……」
 すすり泣きながら呟けば、ひそひそと聞き取れぬほど小さな囁き声に包まれた。
 困惑しながら視線を彷徨わせる七海の前に、突然、木製の扉が顕れた。
 地面から生えたような異妖な佇まいだが、藁にもすがる気持ちで、脚を踏みだそうとした。
「七海!」
 独楽こまのように振り向いた七海は、長身の魔法遣いを認めて、全身を歓喜に貫かれた。
 けれども駆けだそうとした瞬間、強い拒絶の感情が胸に湧きあがるのを感じた。

“あの男を信用してはだめよ。扉を開ければ、家に帰れるわ”

 七海は困惑して、ランティスと目の前の扉を、忙しなく見比べた。
 これまでの経験からいえば、あの扉が故郷に繋がっているとは思えない。むしろ、さらなる異次元空間が拡がっている気がする……だけど、もし本当だとしたら? 家に帰れるのだとしたら?
 迷っているうちに、ランティスは目の前にやってきた。
 精緻に整った美貌は、安堵しているようにも見えるし、或いは別の思惑があるようにも見える。
 どう言葉をかけようか迷っていると、すぅっと扉が消えた。
「あっ!」
 思わず七海は叫んだ。助かったのか、或いはその機会を逸してしまったのか、判別が尽き兼ねた。
 けれども抱きしめられた瞬間、張り詰めていた気持ちが、にわかに崩折れた。
「ランティスさん……っ」
 唇を震わせながら、ランティスにしがみついた。脈打つ心臓の鼓動が布越しに伝わってくる。彼も急いできてくれたのだ。
 安堵したのも束の間、股の間から血が流れる感覚がして、七海は蒼白になった。その場にしゃがみこみ、お腹を両腕で抱きしめる。
「七海?」
 彼は片膝をついて屈みこむと、ナナミの肩に手を置いた。
「……ごめんなさい、スプールしていただけますか?」
 弱々しく七海がいうと、ランティスは何かに気がついたように目を見開いた。
(――嗚呼、厭だ。気取られたんだわ)
 穴があったら入りたいとは、まさしくこのような心境をいうのだろう。
「****、スプール」
 短い呪文と共に、七海の躰は光の粒子に包みこまれて、べたついた肌の不快感がいっぺんに消えた。ありがたいことに、下腹部の痛みまでさざなみのように引いていった。
 ほっと躰から力を抜く七海の頸に、彼は数珠をかけた。
 臍のあたりにくるほどの長さで、水晶珠の連なりの中央に、瑠璃ヴァイドゥーリャの飾りが吊られている。
「……ペンダント?」
 指で摘んで、めつすがめつ眺めていると、ランティスは瑠璃ヴァイドゥーリャを指で摘み、
「スプール」
 七海の目を見つめて唱えた。
 たちまち清浄の光に包まれると、七海は期待をこめて石とランティスの顔を交互に見つめた。
「もしかして、このペンダントがあれば、私にもスプールの魔法が使えるの!?」
はいィオ
 彼が頷くのを見て、七海は試しに、瑠璃ヴァイドゥーリャを摘んで、スプールと呟いた。
 途端に琥珀のきらめきが七海を包み込み、清潔で心地良い状態になるのが判った。
「すごい、スプールだ! 私にも使えるんだ……っ」
 泣き笑いのような顔で七海はいった。感謝の眼差しでランティスを見つめる。彼の頭髪に、神々しい後光すら射して見えた。
「ありがとうございます……本当にありがとうございます」
 思わず彼の腕に手を伸ばすと、ランティスは労るように腕を撫で擦った。
どういたしましてエフリハーノ。********」
 眼裏まなうらが燃えるように熱くなって、涙が溢れでた。
 言葉や文化が違っても、彼はこうして七海を労ってくれる。暖かな思い遣りを示してくれる。
「っ、……くっ」
 両手に顔を沈めると、掌の隙間からくぐもった声が漏れた。泣くなと自分にいい聞かせても、昂ぶった感情がもつれて、喉から声が溢れて肩が震えてしかたがない。
 ランティスは礼儀正しく綺麗に折りたたまれた手巾をさしだしてくれた。
 その優しさに胸を打たれて、七海の目からまた涙が溢れた。
「ふうぅ……ありがとうございます、探しにきてくれて。スプールの配慮も……っ」
 申し訳ないと思いつつ、ハンカチを握りしめて涙や鼻を拭く。ランティスがそっと抱き寄せてくれると、七海も胸に頬を預けてしがみついた。
 髪を撫でてくれる温かい掌が、たまらなく愛おしかった。