DAWN FANTASY

1章:心臓に茨、手に角燈 - 1 -

 森栖七海もりすななみは、幼い頃からよく落ちる夢を見る。
 真っ暗な瀑布ばくふを落ちていく時、大抵は夢だという自覚があり、早く目を醒まさなくてはと焦っている。
 目醒める瞬間は、決まって躰が魚のように跳ねる。心臓の鼓動は早く、全身にびっしょり汗を掻いていることもある。
 落ちている最中は、早く目を醒まさなくてはと焦るのに、いざ目が醒めると、残念に思ったりする。ジェットコースターのようなスリルと、お腹がすぅっとする感覚とを、もっと味わいたかったと残念に思うのだ。
 大抵は真っ暗なあなぐらを落ちていくのだが、稀に鮮やかな色彩の幻想を視ることもあり、そんな時はいつもに増して惜しくなる。
 いつだったか、落ちる夢のてにいき着くと死ぬ……都市伝説めいた噂を耳にしたことがある。
 だが、いき着いたことは一度もない。決まっていつも途中で目が醒めるのだ。
 この日も、七海は落ちる夢を見た。
 それ自体はよくあることだが、普段と違うのは、途中で目が醒めなかったことだ。

“ナ・ナ・ミ……”

 暗黒を落ちていきながら、かすかな女性の声に呼ばれた気がした。
(……誰?)
 考えているうちに、脚裏に地面を感じた。硬い石の感触と、水の冷たさが伝わってくる。
「ん……?」
 下を見ると、黄土色の巌の表面に薄く水が張られており、黄金のりんを放つ神秘のロートスが浮いている。
 どういうわけか七海は、眠りに就いた時と同じ格好で、素足で、水の張られた巨大な円形碑の上に立っていた。
 石造りの円形碑には、秘密の儀式めいた文字が緻密に掘られており、栗林りつりんする蝋燭の焔によって照らされている。
 広い空間だ。
 天井は薄暗くて見えず、湿った巌の匂い、ひんやりした空気と蜜蝋みつろうのような仄甘い芳香に包まれている。
「わ――……すごーい……」
 呟きは、音響装置に増幅されたかのように、反響して聞こえた。
 視線を彷徨わせていた七海は、思いがけず、碧氷の瞳と遭った。
 円形碑の傍に、見知らぬ男性がいる。
 神話の美青年アドニスを具現化したような、此の世ならぬ艶麗えんれいひと
 すらりと長身で、月白げっぱくに燦めく白銀髪を背中に流し、肩から幾筋かこぼしている。額と、妖精めいた先の尖った耳に、瑠璃ヴァイドゥーリャを燦めかせて、吸いこまれそうな双眸は、海に浮かぶ氷のように澄み透った碧色。
 上品な異国の式服を纏っており、頸から膝上までを覆う外套、上衣、長靴と、全て深い青色で統一されている。傍目にも判る凝った縫製で、襟や袖にあしらわれた金刺繍や、白翡翠の宝飾が美しい。
 衣装や、魔法遣いを彷彿させるような杖も目をひくが、神々しい美貌から目を離せない。彼は生きた人間なのだろうか?
(なんて綺麗なひとなの……)
 瑕瑾かきんすらない、琺瑯ほうろうのようになめらかな肌。中性的な麗貌だが、背丈の高さや、外套を羽織っていても判る骨格のたくましさから、男性と判る。
 年齢不詳の美貌で、二十代半ばにも見えるし、叡智を湛えた瞳からは、もっと年上にも見える。
(そっか、私、夢を見ているんだ……)
 自分が冴えない女だという自覚はある。太っているし、器量も愛嬌もない。学校や職場で浮かないよう、いつでも付和雷同しながら生きてきた。
 友人は少しいるけど、恋人はいない。その代わり、空想の恋を楽しんでいた。小説や映画のヒロインに憧れて、束の間甘い夢を見る……二十九歳になった今も、夢見がちな自覚はある。
 だから、このように美しいひとを妄想してしまったのかもしれない。
 ぼぅっと美貌にかれていると、突然、何の前触れもなく、雷に打たれたような衝撃が、心臓にはしった。
「っ!?」
 どっくん。どっくん、胸郭きょうかくを破りそうな勢いで鼓動が鳴っている。
 忌まわしい何かがこの胸に入りこみ、心臓を、茨の鎖に搦め捕られたような苦痛に貫かれる。
「痛っ、うぅ……」
 躰をくの字に折り曲げ、膝からくずおれそうになった時、力強い腕に躰を支えられた。
「****」
 顔をあげると、強い意志力を灯した碧氷の目とぶつかった。
「****エリキサ?」
「え?」
 戸惑う七海の顔の前に、彼は掌を向けた。宙を撫でるように、上から下へすーっとすべらせる。
 すると不思議なことに、掌に神妙な琥珀の光が集まりだして、刺すような痛みはさざなみのように引いていった。
「ぁ……楽になった……?」
「****エリキサ?」
 訝しげに心臓のうえに手を置く七海に、男は、再び訊ねた。
「すみません、今なんて?」
「****ウテ・カ・エリキサ******?」
 よく響く韻の深い声は、静寂な空間のなか誇張されて聴こえた。非常にゆっくりと発音してくれたが、ウテ・カ・エリキサという響きしか聞き取れなかった。
「……English?」
 訊ねながら、英語でないことは判っていた。
 案の定、彼は小首を傾げた。その拍子に、さらりと肩からこぼれ落ちた白銀髪が、燭台の焔に照らされ琥珀色に煌めく。
(は――……なんて綺麗なの……)
 幻想的な美しさに見惚れてしまい、ぽぅっとなっている七海を見下ろしながら、彼はさらに訊ねた。
「*****、*********?」
 疑問口調ということは、なんとなく判るが、意味はさっぱり不明である。
「すみません、言葉が判りません……」
 戸惑いながら長身を仰ぎ見て、背の高さにあらためて驚かされた。
 百五十五センチの七海より、優に三十センチは高そうだ。果たして何頭身あるのだろう?
(うわぁ、同じ人間と思えない……)
 スタイルの良さもることながら、透明感のある肌は完璧過ぎて、人間味を感じられない。脱毛エストに通っている七海より、よっぽど美肌である。
「****、**、****、****?」
 今度は、細かい文節で、ゆっくり発音してくれた。
 配慮はありがたいが、七海にとって、ただの音列に過ぎなかった。これまで耳にしたことのない、異国の響きだ。
(壮大な夢だなァ……自覚のある夢って久しぶり)
 呑気な感想を抱いた時、地面がぞっとする唸り声をあげた。
「やだっ、地震!?」
 耳をろうする驚天動地の轟音が、巌壁に反響する。
 咄嗟に目の前の男の腕に掴まった七海は、掌にしっかりとした衣の感触、硬い筋肉とを感じてはっと目を瞠った。
「すみませんっ」
 反射的に躰を離そうとしたが、逆に腰を抱き寄せられた。さっと屈みこんだと思ったら、七海の膝裏に腕をさしいれて、軽々と横抱きに持ちあげた。
「へっ!?」
 むっちりして小肥りな七海を、彼はしっかりと腕に抱えて、踵を返すなり走りだした。
「あのっ、ちょっと」
「****!」
 慌てる七海をしっかり抱いたまま、彼は同じ響きを繰り返した。短い言葉は鋭く、緊張感があり、彼の視線の先を辿った七海は、息を飲んだ。
 直上に持ちあがっている巨大な巌の扉が、おりようとしているのだ。