アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 15 -

 その晩、光希は明かりを小さくしてしとねに横になったものの、なかなか眠れずにいた。
 今宵もまた悪夢を見るのだろうか……そんな不安を拭えず、闇が深く重くのしかかってくる。暖かい毛布にくるまっていても、厭な予感に浸されて四肢が冷たい。
 やがて眠るのを諦めて起きあがると、山羊革の柔らかい室内履きをひっかけてバルコニーにでた。
 曇天で星明かりもないが、アール河のせせらぎと素馨ジャスミンの香りが、世界は夜の魔術にかけられていることを教えてくれる。
 視界が暗い分、聴覚は冴え渡り、遠くで囀る夜啼鶯よなきうぐいすの声が聴こえる。
 柔らかい天鵞絨びろうどのような静けさのなかで、少しずつ、心は落ち着いていった。
 躰が冷えてきたので寝室に戻ると、服を脱いで上半身裸になる。紅い発疹に発泡薬を塗り、それが終わると今度は扁桃油へんとうゆを掌に伸ばして、腹部や太腿を手入れする。
 しかし、黙々と手揉みしているうちに、再び憂鬱になってしまった。
 忌々しい発疹。ちっとも減らない憎き脂肪。こうしてこまめに手入れをしているのに、大好きな焼乾酪チーズを我慢しているのに、なかなか効果が顕れてくれない。
「はぁ……」
 ため息をついたところで、寝室にジュリアスが入ってきた。汗を流してきたようで、豪奢な金髪はしっとり濡れている。
「おかえりなさい」
 肌に視線が落ちるのを感じながら、光希はさりげなく絹の薄衣を羽織った。
「ただいま……まだ起きていたのですか」
 隣に腰をおろしたジュリアスが、光希の髪にキスをする。
「寝ようとしたんだけど、眠れなくて。薬を塗っていたところ」
「すみません、邪魔をしてしまいましたか?」
 気遣わしげにジュリアスは訊ねた。
「ううん、もう塗り終わったよ。ジュリは毎日遅くまで大変だね。今朝でかけたの気づかなかったよ」
「すみません、サリヴァンが戻ってきたので調整することが多くて。昨日、例の鏡の霊顕れいけん審問を行いましたよ」
「あ! それ、気になっていたんだ。それで? 何か判った?」
「異常はありませんでした。鏡に問題はなさそうですよ」
「えっ、そうなの?」
「はい。サリヴァンは、光希があれほど怯えたのには、何か他に原因があるのではと話していました。どう思いますか?」
 うーん、と光希は唸った。あの日のことを思い浮かべようと試みるが、鏡のほかにはよく思いだせない。
「……どうだろう、すっかり鏡に気をとられていたから……ごめん、判らないや」
「いいのです。少なくとも、鏡が原因でないことは判明しましたね」
「あっ、そういえば……」
「?」
 ジュリアスが視線で先を促すと、こんなことをいうのは失礼かもしれないんだけど……と、光希は前置いてから続けた。
「婦長の……カルメンさん? 最初に彼女の目を見た時、ぞくっとしたんだ。うろのような目っていうか……怖かった」
 吟味するように黙りこむジュリアスを見て、光希は慌てた。
「いや、きっと僕の勘違いだな。その後診察してもらった時には、もう怖いとは感じなかったんだ。ごめんね。今いったことは忘れて」
「いえ、教えてくれてありがとうございます」
「誤解しないでね、カルメンさんを悪くいったわけじゃないよ」
「ええ、判っていますよ」
 光希は気まずげに沈黙したあと、あのさ、と切りだした。ジュリアスは悪夢を見るのか訊こうとしたが、自分がどんな夢を見ているのか話が及ぶのは厭だと思った。
「光希?」
 ジュリアスは小首を傾げ、視線で問いかけてくる。答えられずにいると、腰を抱き寄せられそうになり、光希は慌てて身を引いた。
「……光希?」
「なんでもない」
 光希はごまかすように、青い縞模様のクッションを両腕で抱きしめた。
 かわいい――思わず微笑しそうになりながら、ジュリアスは真面目な顔で光希を見つめた。
「……夕餉を残したと聞きましたよ。具合が悪いのですか?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
 言葉を一旦切り、続きを待っているジュリアスを上目遣いに見て、渋々といった風に白状した。
「減量するまでは、食事の量を控えたいんだ。厨房にも伝えてあるんだけど、今度は品数が増えちゃって、結果変わらないというか……」
 光希は歯切れの悪い口調で独りごちると、ジュリアスを見て、ため息をついた。
「いいなぁ、ジュリは格好よくて」
「ありがとう。光希も格好よくて、かわいいですよ」
「ありがとう。そういってもらえて嬉しいけど、やっぱり痩せたい……せめて増量分だけでも落としたい……」
 項垂れる光希の肩を、ジュリアスは励ますように抱き寄せた。
「あまり無理をしないでくださいね、我慢のしすぎは躰に毒ですよ」
「うん……どうして僕は減量できないんだろう。ちょっとくらい、僕の脂肪をジュリに分けてあげられたらいいのに……えいえい」
 光希は、ぎゅむっと己の脂肪を掴んだ掌を、ジュリアスの腕や脇腹に押しつける。
 理不尽つ不可解な攻撃を受けとめながら、ジュリアスはくすくすと笑った。
「効いたようですよ」
「よし」
 光希はぐっと拳を握ってから、思いだしたように袖をめくって腕の内側を見せた。白い肌に、薄紅色の発疹が点綴てんていしている。
「減量も苦戦しているけど、発疹も憂鬱だよ。毎日薬を塗っているのに、なかなか治らない」
 ジュリアスはそっと優しく光希の手をとり、肌を診ながら、穏やかな調子で続けた。
「でも、薄くなっているところもありますよ」
「消えたと思ったら、今度は別の場所に顕れるんだよ」
「そう……心配しないで、きっと治りますよ。夢見のことも、サリヴァンに相談してみてはいかがですか?」
「うん、そうする」
 光希はほほえんだ。
 ふいに会話が途切れて、ふたりの間の空気が熱を帯びる。しなやかな指が伸ばされ、黒髪を耳にかける。光希がじっとしていると、ジュリアスは様子を窺うように、そっと首筋を撫でた。
 首筋を撫でていた手が鎖骨をなぞるようにおろされ、光希はその手に自分の手を重ねた。ジュリアスは光希を押し倒し、丸い顎に唇を押し当てた。
 唇が首筋をたどり、鎖骨のくぼみに押し当てられた時、躰は喜悦を予知して震えた。
「はぁ……」
 唇から吐息からこぼれて、ジュリアスに腰を抱き寄せられる。
 けれども、彼の細くて長い指が、肉に沈むのを感じた時、はっと目を見開いた。
「待って」
 どうしたの? というようにジュリアスは顔を覗きこんでくる。
 光希も戸惑っていた。いつだって、惜しみない愛情と恍惚感とを与えてくれる指に、恐怖じみた感情を覚えるとは。
「ごめん、今夜はその、早く寝たいというか……」
 その言葉は自分でも白々しく聴こえた。先程は眠れないといっておきながら今度は眠りたいだなんて、あからさまな逃げ口上だ。
 ジュリアスも訝しんでいる。強引にキスされそうになり、光希は自分でもよく判らない感情から顔をそむけた。
「……だめ」
 ジュリアスは小さく目を瞠った。
「なぜ?」
「……肌を見られたくない」
「発疹には触れないようにします」
「見られたくないんだよ」
「今見せてくれたではありませんか」
 光希は言葉に詰まった。軽い苛立ちを覚えながら、幾分低い声で、ねぇ、と紡ぐ。
「本当に気にならない? 僕けっこう太ったと思うんだけど」
 ジュリアスは光希の顔の横に手をつくと、じっと見おろした。
「光希は綺麗ですよ。黒真珠のような瞳も、柔らかくて白い肌も、澄んだ声も、眩い笑みも、仕草のひとつひとつが愛おしくて、惹きつけられます。貴方ほど美しいひとを、私は他に知りません」
 嘘偽りのない真剣な表情で、生まれもった絢爛けんらん金碧きんぺきまとう此の世ならぬ美貌の英雄が、瞳に真摯しんしな情熱を溢れさせて告げた。
 光希は顔が熱くなると同時に、口元が引き攣るのを感じた。
「……ありがとう。嬉しいよ。でもさ、」
「“でも”は余計です。そうやって、自分に呪縛をかけないでください。繰り返すのなら、今の私の言葉にしてください」
 きっぱりと強い口調でいわれて、光希は目を瞬いた。
「……確かに、僕は自分に呪縛をかけているのかもしれない。弱気でごめん。ジュリは綺麗といってくれるけど……細くて綺麗な女性と比べたらさすがにさ……いや、そもそも比べることが間違っているんだけども……ぁ、えっと……」
 情熱に煌めいていた碧眼が鋭い光を孕んだのを見て、光希は口を噤んだ。
 しまった――公宮のことをいわれたと思ったのかもしれない。
 この話題は地雷なので、普段は気をつけているのだが、つい口が滑ってしまった。
「ごめん……」
「光希を他の誰かと比べるはずがないでしょう。誰にも目移りしたりしませんよ」
「……ごめんなさい……あ~……今日の僕はだめだめだ。今の言葉は忘れて」
 両手で顔を覆う光希を見て、ジュリアスも視線を和らげると、慰めるように黒髪を撫でた。
「光希の美徳の一つは、素直なところですよ。困難がある時でも心はしなやかで、そばにいる人を明るい気持にしてくれる。私には特にです」
 そろそろと顔から両手をどかした光希は、上目遣いにジュリアスを見た。
「……赦してくれる?」
 ジュリアスは優しくほほえんだ。
「謝罪を受け入れます。光希も私の言葉を受け入れてください。私にとって光希は、砂漠のオアシスなのです。永遠に光希だけの私ですよ」
「……ん、僕も。ジュリだけの僕だよ」
 ふたりの間で繰り返される、誓いの言葉。仲直りの合図でもある。
 互いの顔に笑顔が戻ると、ジュリアスは光希の丸い頬を手挟み、そっと唇を重ねた。光希は口づけが深まる前に、ジュリアスの胸に手をついて、押しやった。
「……でも、そのぉ……」
 ジュリアスは躰を少し引いて、光希の心を汲み取るように、目を覗きこんできた。
「こういうことは、発疹が治るまで待ってくれる? どうしても気になってしまって……ごめんね」
 一瞬、ジュリアスの顔に失望の色がよぎったが、すぐに心得顔で光希を見おろした。男女を問わずぞくりとさせるような凄艶な眼差しで、獲物をいたぶるみたいに、光希の頬を優しく撫で、ゆっくり首筋に顔をうずめる。
「ジュリ……だめ」
 肌に柔らかく吸いつかれ、光希は慌てて上体をそらした。しかし、距離をとろうと胸についた手を掴まれてしまう。
「逃げないで、触れるだけです」
 媚薬のような吐息が首筋に触れるだけで、反射的に躰が跳ねる。柔らかく肌を吸われて甘噛みを与えられると、たちまち全身に欲望がはしり抜けた。
「んっ……嘘つき」
 怒った声をだす光希に、ジュリアスは甘く笑みかける。
「貴方を愛したいだけです。触れさせて……」
 その声は、低く柔らかく蜜を含んで甘い。痛みにも似た熱が躰を駆け巡り、胸が高鳴る。股間が期待に疼きだして、濡れていく錯覚がした。
「……だめっ!」
 光希は理性を総動員して、ジュリアスの腕を掴んで動きを止めさせた。
「今夜はだめ。明日はアーナトラさんの工房にいくから、きちんと躰を休めたい」
 強い意思で訴えると、ジュリアスもじっと見つめ返してきた。
 翳った碧眼に、情欲と理性の光が灯っている。ややして、理性が勝利したらしく、諦念の浮いた眼差しに変わった。
「……わかりました。もう休みましょう」
 ジュリアスが毛布をめくると、光希はいそいそと隣にもぐりこんだ。身を横たえて、上目遣いに麗貌を見あげる。
「ありがとう、ジュリ」
「今夜は我慢します」
 ほんの少し拗ねている口調に、光希はくすりと笑った。
「違うよ、いや、それもなんだけど……話していたら、憂鬱が晴れたみたい。それから、明日のことも。外出を赦してくれて、ありがとう」
 感謝のこもった黒い瞳に見つめられて、ふいにジュリアスの胸は熱くなる。彼に笑みかけてもらうためなら、これからも自分はあたう限りの力で尽くすだろう。
「……どういたしまして」
 お礼をいうのは自分の方だと思いながら、ジュリアスは身をかがめて光希の額にくちづけをした。与える喜び、与えることで幸せを得られるのだと、そう教えてくれたのは光希だ。
「照明を落としますよ」
「うん」
 ジュリアスは柔らかくほほえみ、寝台の傍にある照明に蓋をした。
 視界は暗くなったが、光希は高揚感から目を閉じる気になれなかった。
「……明日かぁ……」
 しみじみ呟くと、隣で微笑する気配がした。
「晴れると良いですね」
「うん。ジュリもいけたら良かったね」
「すみません、せっかく誘ってくれたのに」
「ううん、仕方ないよ。今は捜査で忙しいし……また機会があれば、今度は一緒にいこうね」
「ええ」
「アーナトラさんの工房、どんなだと思う? 仕事場を見せてもらえるなんて、すごく贅沢だよね! うわ……楽しみになってきた」
「興奮すると、目が醒めてしまいますよ。口を閉じて、もう眠って」
 光希は小さく笑ったが、口は閉じた。
 優しい抱擁に躰を委ね、暗闇に包まれて、その胸に抱かれることに安らぎを覚える。規則正しい胸の鼓動ほど、心を慰められるものはない。
 その晩は悪夢を見なかった。