アッサラーム夜想曲

幾千夜に捧ぐ恋歌 - 4 -

 一月ニ十七日。朗読会の日である。
 この日、いつもより寝過ごした光希は、ジュリアスに揺り起こされて目を醒ました。起きあがろうとして、すぐに躰の不調に気がついた。
「頭、重……」
 恋文に頭を使い過ぎたせいで、知恵熱がでたに違いない。額を押さえる光希を、ジュリアスが心配そうに見ている。
「……平気、起きる」
 光希は小さく呻きながらいった。
「そうは見えません」
 背中から抱きしめられると、光希も力を抜いて素直にもたれかかった。
「うーん……でも、今日の為に皆が準備してくれているし、いくよ」
「光希が欠席しても、朗読会が中止になるわけではないのでしょう?」
 ジュリアスは光希の顔を覗きこんで訊ねた。
「そうだけど、せっかく書いたし僕も少し楽しみなんだ……ジュリはきたら駄目だからね」
 念押しすると、ジュリアスは不承不承に頷いた。
「判りました。具合は悪いのだから、無理はしないでくださいね」
「うん。今日は早く帰るよ」
 二人は身支度を調えると、同じ馬車に乗って軍部に向かった。

 その日の昼。
 休憩を告げる鐘が鳴ると、工房の一角に朗読会の参加者が集まってきた。そのなかには、サイードやアルシャッドの姿もある。
 なかなかの盛況ぶりで、光希が想像していたよりも多くの人が集まった。
 読みあげるのは光希も含めて七名だが、聴衆は工房に入りきらず、扉は開いている状態だ。窓の外にも人が集まっている。
 大勢の目が集まるなか、朗読会は開始された。
「蒼い星から尖塔を見下ろす友よ、雷鳴の聖歌を響かせ、黄金時代が始まる。黄水仙の香りがしおれても、心のなかで無限に香るもの。いつかまた、会える日まで」
 ……と、この美しい詩を詠みあげたのは、あのサディールである。
 強面からは想像もつかぬ繊細な詩だ。
 強靭体躯な彼等を見ていると、詩とは無縁に思えるが、意外と美しい詩を詠む者は多い。アッサラームには教養人が多いのだ。
 幾人かの後に、緊張した面持ちでスヴェンも檀上にあがった。
「月光が翳る夜には、優しい涙雨にあわせて、どうか歌ってください。私の愛しい小夜啼鳥……」
 詩を捧げる相手は一人しかいない。
 光希が引き留めたので、ケイトは嫌そうにしながらも輪の端っこで傾聴している。
「その調べは、貴方が歌ってはじめて、とても甘美になるのです」
 一途な瞳でケイトに歌を読むスヴェンを見て、光希は瞳を和ませた。
「君は夜明けを知らせる、明るいしるし、曇りなき宵の明星。僕のために瞬いているのは、なぜ?」
「さぁー? 知りません」
 さらりとケイトが流すと、拍手と共に、愉快な笑いが起おこった。スヴェンの照れ臭げな顔を見て、光希はほほえんだ。
「驚いた。素敵な詩だったよ! スヴェンは感性が豊かだね」
 本心である。思えば自分が十三の頃、これほどひたむきな恋をしただろうか?
 淡い恋心なら少年時代にも覚えはあるが、ジュリアスのことを想うと、全てが霞んでしまう。
 もし在りし日の恋人に、少年の頃に出会えていたら、彼もスヴェンのように一途に想ってくれただろうか?
「殿下?」
 ケイトが不思議そうに光希を見ている。
「あ、いや。なんでもない……」
 我に返った光希は、小さく笑った。
「さて、次は僕の番だ。スヴェンには負けないよ」
 熱があがっている自覚はあるが、光希は不調を堪えて檀上にあがった。
 しかし、部屋の片隅を見て思わずぎょっとした。いつの間にか、ジュリアスがいるではないか。
 瞳があうと、彼は悪戯めいた光を目に灯して、どうぞ? というように掌を閃かせた。
「――っ」
 これは恥ずかしい!
 しかし、周囲はまだジュリアスに気がついていない。皆の前で光希が狼狽えれば、ジュリアスの存在に気づかれてしまう。そうすれば、緩んだ空気はたちまち張り詰めてしまうだろう。
 覚悟を決めると、照れくささを押し殺して、光希は口を開いた。
「夜闇に包まれても、ジャスミンと金香木チャンパックが、帰り道を教えてくれる」
 本人を前にして読むのは、かなり恥ずかしい。
 結局、詩はケイトではなく、ジュリアスを想い浮かべながら書き直したのだ。
「夢から醒めても、全身を黄金色きんいろの光輝に包まれる……」
 これは、ジュリアスにあてた恋文だ。なるべく湾曲した表現にしたつもりだが、彼をたとえる言葉がそちこちに散りばめられている。
 どう思っているだろう? 恥ずかしくて、ジュリアスの顔を見ることができない。
 どうにか詠み終えて拍手に応えていると、ジュリアスが傍にやってきた。
「素敵な恋歌でしたよ」
 人前で嬉しそうにいわれて、光希は真っ赤になった。他の者も、ぎょっとしたようにジュリアスを見ている。
「朝より、熱があがっているでしょう? 今日はもう帰りましょう」
「えぇ? あ、ちょっと」
 挨拶もそこそこに、ジュリアスは光希の肩を抱いて、檀上からおろした。工房仲間達のはやしたてる声や、声援に見送られて、光希は慌ただしく工房から連れだされてしまった。
「ジュリも一緒に帰るの?」
「屋敷まで送ります」
 外にでると、ルスタムが御者台の上で待機していた。促されるまま馬車に乗りこむと、すぐに緩やかな振動が伝わってきた。
「光希……」
 目があった途端に鼓動が撥ねた。
 熱の灯った青い双眸が、まっすぐ光希を見つめている。詩を聞かれたのだと思うと、恥ずかしくてたまらない。
「……こないでって、いったのに」
 顔をそむけると、赤くなった耳に口づけられた。やめさせようと腕を掴むが、腰を抱き寄せられ、耳の輪郭を唇でなぞられる。
「待って……」
 強くいったつもりが、想像以上にか細い声がでた。耳の穴に舌を挿れられて、濡れた音が鼓膜を叩く。ぞくりとした官能に貫かれて、光希は唇を噛み締めた。危うく声がでてしまうところだった。
 腕を掴んでいるにも関わらず、不埒な手に太腿の内側をするりと撫でられ、光希は上目遣いにジュリアスを睨んだ。
「やめて。ここは嫌だ」
 半ば本気でいうと、ジュリアスは残念そうにしながらも、太腿から手を離した。かわりに光希の手をとり、甲にちゅっと口づけた。
「想像していた通りでしたよ。頬を染めて、恥じらう貴方はすごくかわいらしかった」
「……そんな馬鹿な」
 光希は真っ赤になって視線を泳がせた。
「本当ですよ。詠みあげている途中で、攫ってしまいそうでした。あんなに魅力的な貴方を、他の誰にも見せたくなかった」
「う、だからって……挨拶もせずに、抜けてきちゃったよ」
 拗ねたように光希がいうと、ジュリアスは人差し指で光希の唇に触れた。
「これでも、読み終えるまでは、と我慢したのです。私を想って書いてくれたのでしょう? ……光希?」
 返事を請うように耳元で名を呼ばれて、小さく頷くと、ちゅっと額に口づけられた。
「嬉しかったですよ」
「……頑張ったよ」
 気恥ずかしさを誤魔化すように笑うと、ジュリアスは優しい瞳をした。
「なぜでしょうね……光希から詩を贈られるのは今日が初めてのはずなのに、とても懐かしく感じたのです。本当に嬉しかった。ありがとう、光希」
 想いの籠った言葉に、光希の胸も暖かくなった。
「うん……どういたしまして」
 無垢な気持ちになって、ジュリアスの腕にもたれて目を閉じると、優しい手が髪を撫でてくれる。
 心地いい揺れに眠気を催しながら、頑張った甲斐があったと光希は満足した。