アッサラーム夜想曲

栄光の紋章 - 5 -

 不安そうに見つめる光希の隣で、唖然としている男――リャン・ゴダールを、ジュリアスは氷の眼差しで見おろした。
「誰の許しを得て、私の花嫁ロザインに触れている」
 ひたと剣先を向けられた男は、不敬に気がついたように慌てて姿勢を正した。
「ジュリ、待って――」
 遠慮がちな光希の言葉を遮り、ジュリアスは周囲に向かって声を発した。
「武器をおろさぬ者、直ちに武装解除せよ!」
 鋭い口調に、武器を手にしていた者は慌ただしく従った。革命軍も武器をおろして、こちらの様子を窺っている。
 激烈な戦闘は静まった。
 視界に動く者がいないことを確認したジュリアスは、黒馬をおりて、呆けているリャンの前に立った。
「待ってッ!!」
 あろうことか、光希はリャンの頭を両腕で引き寄せた。
「怪我をしているんだ!」
 ジュリアスが言葉を発する前に、光希は男の顔を両手で手挟み、四点を結ぶくちづけ――額、両頬に素早く唇をおしあてた。
「光希ッ!!」
 痛烈な痛みにも似た憤怒に貫かれたジュリアスは、力任せにリャンの首を掴んで引きずり倒した。呻く男を気にかける光希を、両腕で拘束する。
「やめてッ! 彼に祝福を与えました! 酷い真似をすれば、天罰が下りますッ!」
 なぜ――胸に縋りつく光希に対して、熾烈しれつな感情が迸った。愛おしくて憎い。酷く罵ってやりたい気持ちで口を開きかけたが、ガルーシャ・ドラクヴァの方が早かった。
「なぜ、そのような・・・・・者を庇うのですか?」
 跪いたまま、心底判らないという顔で彼は訊ねた。ドラクヴァ家にしてみればゴダール家は宿怨しゅくえんの敵である。当主殺害が起きる以前から、両家の確執は根づいていた。
 もしリャン・ゴダールが死んでいたら、公然たる戦争に発展するところだった。そうなれば、両家ともにおびただしい犠牲者をだしていただろう。
 ジュリアスは少し冷静になって、光希の手首から手を離した。すると光希は、ガルーシャ・ドラクヴァに躰ごと向き直り、緊張に震える拳をぐっと握りしめた。
「この場で、全てを明らかにするつもりはありません。ですが、一つだけ。リャンの無実だけは、はっきりと申しあげておきます!」
 澄んだ声は、天に聴きれられたかのように、隅々まで響き渡った。
 曇天は急速に遠ざかってゆく。
 雨の大気に漂う微細な粒子は、雲間から射しこむ斜光を弾いて輝いた。
 神の御業を目の当たりにした人々は、茫然と光希を仰ぎ見ている。怒りに支配されているジュリアスですら、銀鼠ぎんねずの靄に立つ光希を美しいと思った。
「……よくも猖獗しょうけつ満ちる場所に、私の花嫁ロザインを立たせてくれましたね」
 怒りの矛先を向けられた兵士たちは、おののいたように視線を伏せた。呻くリャンの躰を、革命軍の仲間が助け起こそうとしている。
「ジュリ……」
 袖を引かれて不安そうな黒い瞳と遭うと、身内に怒りの焔が燃えあがるの感じた。
「――勝手な真似を!!」
「ごめんなさい!」
 脊髄反射で光希が謝る。そのすぐ後ろで、リャンが震える膝で立ちあがった。
「どうか殿下をお叱りにならないでください! ご迷惑をおかけしたのは、全て私なのです!」
 勘に触るッ!
 度し難い男だ。せっかく助かった命を棄てるつもりだろうか?
 彼を八つ裂きにする妄想にかれながら、ジュリアスは勁烈けいれつな眼差しで睨みつけた。まさしく玲瓏れいろうな刃物のかがやきを宿した視線だったが、リャンは怯えなど微塵も顕にせず、まっすぐに見つめ返した。隣で支える男が、焦ったように声をかけているが、リャンは強い視線を外そうとしない。
 もし――彼の瞳に一滴でも恋情が浮いていたら――光希が彼を選ぶ素振りを欠片でも見せようものなら――神の逆鱗に触れたとしてもリャンを殺そう。
 天地破壊のわざわいが降り懸かろうとも、光希だけは渡さない――絶対に。
 ジュリアスの全身から凍った鋼のような冷気が漂いだし、蒼白い焔の幻影すら見えた。
 驚懼きょうくに堪えぬと誰もが視線を伏せるなか、光希だけは顔をあげた。躊躇わずにジュリアスに手を伸ばし、優しく頬を撫でさすりながら、
「大丈夫。僕たちは変わらないよ」
 静かに断じた。
 小さな囁きは、ジュリアスの心の琴線に触れた。無垢な黒い眼差しには、ジュリアスへの確かな信頼と愛が浮かんでいる。
 彼との絆は普遍だ。そう意識したとたんに、心に一条ひとすじの光が射しこんだ。
(嗚呼、神よ……)
 深い安堵と共に、張り詰めた全身の筋肉が弛緩していく。血流が躰を駆け巡るのに任せながら、頬に触れる手を掴もうとする己の手が、小刻みに震えていることに気がついた。それほど恐怖していたのかと、思い知らされた気がした。
「――リャンッ!」
 群衆を割ってバフムート・ゴダールが顕れた。リャンを認めた一刹那いちせつな、矢の如く駆けてきて、リャンの前で膝をついた。ふたりは感無量になって、かたく抱擁を結んだ。互いの無事を喜び、言葉もなく、ただただ涙を流している。
 慈悲心が多少戻ってきたジュリアスは、眼差しをいくらか和らげると、こちらに目を注ぐ一同を見渡した。
「今日から聖霊降臨日まで、一切の抗争を禁じます。破る者は、西諸侯と共に厳しく取り締まるので、そのつもりでいてください」
 ひれ伏す一同は深く頷いた。
「ありがとう、ジュリ……」
 光希はそっと囁いた。
 感謝を湛えて黒曜こくように煌めく瞳を、ジュリアスは冷ややかに見返した。
 全く――彼には、いってやりたいことが山とある。じっと見ていると、気まずげに目をらされた。
 光希は一つ深呼吸をすると、不意に顔つきを変えた。凛と気高い表情で周囲を見回し、
「僕は、特定の誰かではなく、ザインを祝福にきました」
 一人、また一人と光希を仰ごうと顔をあげていく。
「争うのではなく、奪うのではなく……力をあわせることができるはずです。誰もが敬虔な心で結ばれているのですから」
 決して大きな声ではない。
 しかしその声は不思議と響き渡り、遠くに跪く者にも浸透した。まるで神聖な言霊ことだまを帯びているかのように。
「武器を置いて、大切な人たちと穏やかな除夜を迎えてください。そして晴れの聖霊降臨日を皆で祝福しましょう」
 血と雨に濡れた石畳には屍が伏して、碧い燐光が漂いはじめている。
 凄惨な景が広がっていてなお、光希の纏う清廉な空気、闇夜のような黒髪は、跪く人々の視線を集めた。
「きっと、素晴らしい日になります。そして今度は、アッサラームの新しい御世を、ザインの皆に祝福して欲しいのです」
 どこからか、押し殺したような歔欷きょきが聴こえてきた。
 この場にいる誰も、もはや戦う意思をもたなかった。憎しみでも敵意でもなく、希望をいだきたかった。誰もが光をねがっていた。その象徴たる光希を見て、随喜渇仰ずいきかつごうの涙を流す者が後を絶たなかった。
「流血はもう十分です。この美しい都で血を流すのは、もうやめましょう」
 ひれ伏すゴダール家、そしてドラクヴァ家は深く頭を垂れた。