アッサラーム夜想曲

名もなき革命 - 3 -

 黎明の空のした武装集団が顕れるや、野営地にさざなみの如く緊張がはしりぬけた。
 天幕で休む主君に、声をかけることを躊躇するエステルの横で、ローゼンアージュは素早くなかへ入った。
 躊躇っている場合ではない――エステルも彼に続くと、あるじを天幕から連れだした。
 しかし、革命軍を率いてやってきた男は、あるじとの対談を望んだ。
 暴動の中心人物と、主君を引きあわせられるはずがない。その場にいた全員がそう思ったが、本人の強い意志により、周囲は動いた。普段はおっとりしている人が、あのように喝を飛ばす姿を、エステルは初めて目の当たりにした。
「アルスラン! 彼を連れてきて」
 命じられたアルスランは、小さく舌打ちした。不遜な態度にエステルが目を丸くしていると、強い意思力を灯した黒い眸が今度はこちらを見た。
「ナフィーサ、アージュ。僕は彼と話したい。お願い、力を貸して」
 それは、決して揺らぐことのない信頼の眼差しだった。
 名を呼ばれなかったことを拗ねたりはしないが、互いを信頼する姿を、心からの嘆賞をこめて――いささかの羨望をこめて、エステルは眺めやった。
 現場の総指揮官であるアルスランは、策戦を聞いて夜叉のような顔でやってきた。天幕の影に己の主君を引っぱりこみ、今にも掴みかからんばかりに詰め寄った。
「危険です」
「彼は味方です」
 毅然と反駁はんばくする。
「証拠は? 貴方を危険に晒すわけにはいかないのです」
「シャイターンの思し召しですッ!」
「――ッ、いいから、隠れてろ!」
 あろうことか、彼は一瞬“馬鹿”といいかけた。
 先ほどは不遜と思ったけれど、強い口調の裏に思い遣りが感じられた。粗暴な言動も、積み重ねてきた信頼があるからこそなのだろう。
「僕は彼に会う為に、ここまでやってきたといってもいい! 信じてッ!!」
 彼は、アルスランのくろがねの右腕に触れて、叫んだ。
 一騎当千の不屈の将が、即答できずに押し黙る。
 今でも飛竜隊最速を誇るアルスランは、四年前の東西大戦で利き腕を失くし、一度前線を去っている。その後、クロガネ隊の活躍により生けるくろがねの腕を与えられ、最前線に復帰した話はもはや伝説である。
 楽な道のりではなく、様々な困難を伴ったと聞いている。特別なくろがねを求めて、あるじが怪我を負ったこともあった。
 ふたりの絆は、そうして乗り越えてきた困難の深さを感じさせるのだった。
 逡巡し、アルスランは怜悧れいりな蒼い双眸を、エステルたちへ向けた。
「二名連れてくる。不審があれば、迷わず殺せ」
「「「はっ」」」
 空気は冷たく張り詰めた。
 天幕の準備が整い、主君である花嫁ロザインに扮したナフィーサの前に、ヘガセイア・モンクレアと名乗る男が連れてこられた。革命軍の幹部だという彼が明かした真相に、あるじは動揺を見せたが、実はエステルたちはあらかじめ知っていた。
 というのも、彼が休んでいる間に、伝令から真相を聞かされていたのだ。
 天幕でアルスランが仕掛けたヘガセイアへの詰問は、情報を得る為ではなく、彼がどこまで把握しているかを測る為であった。
 一通り話を聞き終えた後、アルスランの合図で彼等を連れだそうとすると、ヘガセイアは蹴躓けつまずいた拍子に、天幕の端に立つあるじに倒れかかった。
 刹那、刃のような風が流れた。
 あるじの躰に触れる前に、ローゼンアージュは鋭い掌底しょうていをヘガセイアの鳩尾に入れた。
「ぐ……っ」
「アージュッ!!」
 長身が宙に浮き、天幕を揺らしてくずおれた。苦しげに呻く躰を、エステルも容赦なく押さえつける。
 全員が殺気立ち、黒牙がヘガセイアとアークを取り囲んだ。
「何をする!?」
 苦しげに呻くヘガセイアの傍らで、押さえつけられたアークが抗議を唱えた。
 意志疎通は皆無であったが、この時は不思議と呼吸があった。
 示しあわせたように、ローゼンアージュが背後からヘガセイアを拘束し、その隙にエステルはヘガセイアの裾を捲りあげた。
 脚頸まで覆う長衣がめくれて、細く弱った脚が覗いた。左脚を庇う仕草は、演技ではなかったらしい。
「エステルッ! アージュッ!!」
 あるじの鋭い叱責の声に、エステルは咄嗟に手を離した。反射的に跪いてしまう。
 しかし、親衛隊長は手を離しはしたものの、警戒は解かずにヘガセイアと対峙した。その姿を見て、エステルは己の失態を悟った。叱責に怯んで、不審と思った相手への警戒を忘れるとは!
「乱暴はいけない!」
 気遣う覆面姿の青年を見やり、ヘガセイアは苦痛も忘れて目を瞠っている。
「いや、今のは、私がいけなかった……っ」
 思いだしたように、苦痛の表情を浮かべるヘガセイアを、あるじ御自ら助け起こそうとすると、さっとローゼンアージュが動いて、やや乱暴にヘガセイアを助け起こした。
 気づかれた――ヘガセイアはもはや紗の向こうを注視していない。覆面で顔を隠しているあるじを凝視している。
「待て」
 アルスランの静止を無視して、彼は覆面をさげた。
 特異な白い肌、闇夜のように黒い髪と瞳を見て、ヘガセイアとアークは絶句した。
 ――というより、全員が絶句した。
 あるじだけは平静に、ヘガセイアの傍へ寄ろうとする。慌てて止めようとするエステルたちを、彼は手で制した。
 ごく近い距離で顔を覗きこまれたヘガセイアは、緊張気味に背筋を伸ばしている。
「貴方を信じます。貴方は、リャンを助ける存在だ」
 天啓を受けたかのような、確固たる口調だった。
「……殿下。根拠は?」
 演技しても無駄と悟ったアルスランが、やや投げやりな口調で訊ねた。
 ヘガセイアは我に返ると、勢いよく首を縦に振った。不自由する脚でぎこちなく跪き、一縷いちるの希望を託すように黒髪の青年を仰いだ。
「ありますッ!! 証言をしてくれる者が、ザインで待っております」
「リャンの処刑は、いつですか?」
「今日の昼には」
「僕もリャンを助けたいのです。彼の所に、案内できますか?」
「はいッ!!」
「殿下……」
 絶望的に呆れを含んだアルスランの呟きは無視して、あるじはヘガセイアにしっかりと頷いてみせた。
「危のうございます」
「殿下!」
「殿下。シャイターンはここで待てと――」
 相次ぐ懸念の声を、神秘の黒い瞳は一瞥で黙らせた。
「誰か、ジュリに知らせてください。僕はヘガセイアと先にいきます」
「「殿下」」
「今、この場で、最終決定権を持っているのは僕です」
 磨いた黒檀のような瞳が、きらりと光る。森閑しんかんと静まり返るなか、アルスランだけは射抜くように見据えていた。
「……ゴダール家が抗争を仕掛けると、夜半に伝令が知らせにきました。それから、リャンが革命軍だとも。街は間もなく封鎖されます。ここで総大将の指示を待つべきです」
 アルスランは冷静に告げた。
 全員の視線が、黒髪の主君に集中する。彼は、あどけない顔だちを苦しげに歪めた。
「伝令? ジュリはなんて?」
「我々はここで待機するようにと。ヤシュムたちは最悪の場合、連合軍と共にザインに侵入する可能性があるとおっしゃっていました」
「そんな……早くいかないと、リャンは……ッ」
「落ち着け――落ち着いてください。彼の救出については、然るべき考慮がされています」
「本当に? ……じゃあ、どうして彼が刑具にかけられる光景を、僕は何度も……アルスラン、やっぱり僕を連れていってください」
「できません」
「お願いです、力を貸してくださいっ!」
 緊迫した空気のなか、ふたりは暫し睨みあった。
 アルスランの顔に浮かんだ懸念が苛立ちに変わり、やがて一種の諦念と覚悟を秘めた表情に和むのを、小柄な青年はじっと見守っていた。
 やがて、諦めたように息を吐いたのはアルスランの方だった。
「……判りました。殿下に従います」
 渋面で告げるアルスランを、あるじは、花が綻ぶような笑みで見あげている。
 この局面でアルスランが折れたことに、エステルは驚きを隠せなかった。権威に従ったのではない。あるじの寄せる信頼に、応えたのだ。
「アージュ、エステル。さっきは、怒鳴ってごめん。しっかり護衛してくれて、ありがとう」
「――ッ、いえ!」
 優しい微笑と労いの言葉に、エステルの胸は高鳴った。頬が赤らむのが判り、乙女みたいに視線を俯けてしまう。
 あるじが身支度を整えるべく天幕に戻ったところで、エステルは感動の余韻から我に返った。顔をあげると、ローゼンアージュと目があった。
「あ……あの、先ほどは沈着冷静な対応、見事でした。咄嗟に動けなかったことを、反省しております」
 口にしながら、己の未熟さを恥じた。
 静寂が流れ、様子が気になり顔をあげると――彼は、エステルを見ていなかった。干した棗椰子なつめやしの実を齧っている。持ち歩いているのだろうか?
 ……不思議すぎる。
 どれだけ月日を重ねたとしても、彼の心中を読める日など、永遠に訪れないように思えた。