アッサラーム夜想曲

神の系譜 - 6 -

 ザインへの遠征が正式に決まった、翌日。
 クロガネ隊を訪れた光希に、同僚たちは代わる代わる気遣いの言葉をかけた。
 多少の寂しさを覚えつつ、光希は引き継ぎに専念した。一月も工房を離れるのかと思うと、やりかけの仕事が気になる。戻ってから巻き返せるか心配だった。
 そんな光希の心中を察したように、尊敬してやまない装剣金工の錬達、アルシャッドはこういった。
「後のことは、お任せください」
 思い遣りに満ちた言葉に、光希の胸は自然と熱くなる。彼は、光希が人に渡すか迷っていた細やかな引継ぎまで、全て引き取ってくれた。
 一通りの引き継ぎと共有を終えた後、光希は深く頭をさげてこういった。
「ご迷惑をおかけいたします」
「殿下! よしてください」
 焦ったようにアルシャッドがいう。光希が上目遣いに仰ぐと、丸眼鏡の奥から、灰青色の瞳がふっと和んだ。
「どうかお気になさらず、殿下はザインに専念してください」
 彼がそういってくれるのならば、万事解決だ。多忙な身でありながら、面倒そうな素振りは少しも見せない。こんなひとがいるだろうか?
「うぅっ、ありがとうございます……っ」
 もう、ひれ伏すしかないだろう。
「殿下、殿下っ」
 ふらふらとぬかづきかける光希を、アルシャッドが焦ったように止める。
 周囲から笑いの声があがると、アルシャッドも困ったように笑みを浮かべた。軍人らしからぬ細身でくせ毛に丸眼鏡と、どこか頼りげない風貌の青年だが、彼ほど頼りになる男はいない。我らがクロガネ隊の誇る副班長である。
 引き継ぎに区切りがついたのを見て、ケイトが近くにやってきた。
「殿下、どうかお気をつけて」
 去年、一等兵から上等兵に昇進したケイトは、心配そうに光希を見つめていった。
「ありがとう。いい物を見つけたら、お土産に買ってくるね」
「お構いなく、殿下。道中のご無事を、お祈りしています」
 馴染の顔ぶれに旅路を気遣われ、光希は穏やかな表情で感謝を口にした。
 残念ながら、班長のサイードは今この場にいない。彼は兵器製造局の長官職を務める、軍器太監という大役を兼任しており、現在は別の拠点に赴いているのだ。
 全員と再び会えるのは、年が明けてからになるだろう。
 改造短剣の出来栄えを確かめているらしい、ローゼンアージュとアルシャッドのやりとりを、光希はしみじみと眺めた。
 この居心地の良い仕事場とも、しばしお別れだ。

 期号アム・ダムール四五六年、一三月一〇日。
 ザインに出発する日がやってきた。
 派遣される軍の規模は、総勢五百。かつての大戦を思うと随分と小規模に感じるが、込み入った市街を想定した妥当な数だ。戦略は基本的に、小隊での隘路あいろ戦と同じである。
 移動は、全隊飛竜に乗って砂漠を南下予定である。
 後方指揮は、ヤシュム、アルスラン、ナディアとそう々たる顔ぶれで、ユニヴァースもヤシュムの麾下きかに編隊されている。
 彼等はザインから少し離れた所で待機し、ジュリアスの命令次第では、ザインに武力介入することになる。
 なおアーヒムやルーンナイト、ジャファールはアッサラームに残り、引き続き聖都の警護を担うことになる。
 今回、一兵卒に扮する光希を守る為、武装親衛隊は周囲に馴染むよう、ローゼンアージュを筆頭に若い兵で編隊された。
 その中には、かつて聖歌隊にいたエステル・ブレンティコアもいる。ユニヴァースに憧れて、騎馬隊に所属している彼は、次の合同模擬演習では、優勝最有力候補の一人だといわれていた。
 事実、超難関で知られる、ローゼンアージュに並ぶ光希の側近親衛隊の座を、彼は射止めたのだ。
 並々ならぬ、努力の賜物であろう。
 いつかアッサラームの獅子になる――そう目を輝かせて語った少年が、本当に夢を叶えて、光希の前に現れたのだ。幼い姿を知っているだけに、光希は時間の流れを感じずにはいられない。
 点呼までの間、各々自由に過ごす兵達を眺めていると、滑走場の向こうからユニヴァースがやってきた。
「こんにちはー、殿下」
 朗らかに笑う青年を見て、光希は目を丸くした。
「ユニヴァース! いいの? ここにいて」
 そろそろ点呼が始まるはずだ。彼の所属する部隊は、先発隊なので、かなり最初の方に呼ばれるだろう。
「なんだかんだで、一刻かかりますよ」
 と、呑気に笑うユニヴァース。階級も大分あがったのに、髪も染めているし、耳につける銀細工の数も減らない。お洒落な若者といった風だが、彼も実力を評価されて今ここにいる。
「戻りなよ」
 冷ややかな口調でローゼンアージュがいった。
 仲がいいのか悪いのか……お馴染みのふたりである。ユニヴァースはにやにやしているが、親衛隊に配属されたばかりのエステルは、心配そうに二人の様子を見ている。
「お前、うちの後輩をいじめるなよ?」
 ユニヴァースはからかうようにいった。
 居心地悪そうに目を伏せるエステルの横で、ローゼンアージュはどうでも良さそうな顔をしている。
 実のところ、ユニヴァースの懸念は光希も思うところで……配属されたばかりのエステルが、それもローゼンアージュとうまくやっていけるか、少々気を揉んでいた。
 雑談しているところに召集の号令がかり、揃って顔をあげた。どうやら、ユニヴァースの部隊らしい。
「じゃ、俺いきますね! 殿下もお気をつけて!」
「うん! ユニヴァースも気をつけて!」
 ぶんぶんと大きく手を振ってから、ユニヴァースは仲間の元へ駆けていった。そのまま小さくなっていく後ろ姿を見守っていると、背中に声をかけられた。
「光希」
 振り向くと、ジュリアスがやってくるところだった。黒い軍服に騎乗用の外套と隊帽、鞍につける金具を小脇に手挟んで颯爽と歩いてくる。光希が傍に駆け寄ると、隊員の目も気にせず、腰を抱き寄せられた。
「大丈夫ですか?」
 美しい顔を近づけて訊ねるものだから、光希は少し赤面しながらこくり、と顔を縦に振った。
 大勢の視線を感じながら、ジュリアスと並んで隊伍たいごの先頭を歩くのはいささか緊張する。なるべく背筋を伸ばして歩くようにした。
 間もなく飛竜の前に到着すると、いつものように膝裏に腕をさしいれて抱きあげられた。
「掴まっていてくださいね」
「はい」
 光希が頸に腕を回すと、ジュリアスは一跳躍で遥か頭上の鞍に乗りあげ、自分の前に光希を座らせた。
「覆面を忘れずに」
 いわれた通りに覆面を装着して上目遣いに仰ぐと、額にちゅっと口づけられた。恥ずかしくて、光希は覆面のなかで小さく抗議の声をあげた。
 間もなく先発隊の出発準備が整ったのを見てとり、ジュリアスは高台に立つアデイルバッハを仰いだ。
 いよいよ出発だ。視界の高さに少々怯みながら、光希も気をひきしめた。
 皇帝が錫杖しゃくじょうで天を差すと、ジュリアスは敬礼で応えて、号令を発す。
「飛翔ッ!!」
 凛と声を響かせ、手綱を引いた。曇った空に向かって、数百もの飛竜が矢の如く翔けあがった。