アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 3 -

 夜の緞帳に包まれたクロッカス邸。
 湯浴みのあとに夕食をとり、光希は工房に籠って趣味の銀装飾をしていた。あまりにも集中していたので、背後に立つ気配に気づかなかった。
「光希」
 思いがけず声をかけられ、口から心臓が飛び出しかけた。顔だけ振り向くと、凛々しい軍装姿のジュリアスがすぐ傍にいた。
「あ、お帰り」
「ただいま」
 覆い被さるように抱きしめられ、髪に柔らかく口づけられる。光希はたがねを机に置くと、ジュリアスの方に身体ごと向いた。
「遅かったね。今日も評議会?」
「いえ、夕方まで軍務をこなして、閲兵えっぺいのあとにアースレイヤと競竜杯の話をしていました」
 複雑に結んだ幅広のタイを緩めながら、ジュリアスは疲れたように息を吐いた。ココロ・アセロ鉱山から戻ったあとも、彼は競竜杯の準備に追われて多忙を極めていた。
「お疲れ様。遅くまで大変だね」
 背もたれの縁に置かれた手の上に、光希が労わるように掌を重ねると、ジュリアスは優しく目元を和ませた。
「光希はずっと工房にいたの?」
「うん。今、湾曲型の髪飾りを作っているんだ。完成したらあげる」
「私に?」
「うん」
「ありがとうございます」
 心から嬉しそうにいわれて、光希は照れくさげに視線を逸らした。
「評議会は順調?」
「はい。そろそろ大詰めです。次で公式遊戯場や誘致先も決まるでしょう」
 光希は期待に瞳を輝かせた。
「投票券発行権は、ポルカ・ラセに決まるといいな」
「さぁ、どうでしょう?」
「決定でしょう?」
「公表を楽しみにしていてください」
「うん。皆も期待していると思うよ。僕も楽しみ」
 ジュリアスは光希の髪を撫でた。黒髪を指に巻ききつけながら、理由を訊いてくる。
「だって、公式賭博場に決まれば、僕も公務でいけるでしょう?」
「そんなに楽しみにしていたのですか?」
「評判の遊戯場だからね。それに、支配人のヘイヴン・ジョーカーさんはクロガネ隊の後援者だよ。直接会ってお礼をいいたいって、前から思っていたんだ」
 ヘイヴン・ジョーカーは、定期的に多額の援助金をクロガネ隊に寄付している、有力な後援者の一人である。先のココロ・アセロ鉱山の視察費にも、寄付金の一部が当てられていた。
「あまり評判の良い男ではありませんよ」
「ふぅん? 聞いた話だと、彼の複製画はちまたで大人気らしいよ」
「貴方は、どこからそのような情報を仕入れてくるのですか?」
 探るような視線を向けられて、光希は軽く肩をすくめた。
「どこにいたって、噂というものは風に乗って耳に入るものだよ」
 ジュリアスはふざけて、光希の両耳を手で覆う真似をした。
「なら私は、貴方の耳によからぬ噂が入らぬよう、情報を規制しないといけませんね」
「噂っていうものは、防ごうと思って防げるものじゃないと思うよ。ジュリは遊戯場が増えることに反対なの?」
 構ってくるジュリアスの手を避けながら、光希は訊ねた。
「そうでもありません。治安さえ保たれれば、経済面において功を奏すと思っていますよ」
「前にポルカ・ラセにいきたいといったら、反対したじゃない」
「貴方が誘惑されては困りますから」
 ジュリアスは冗談めかして答えたが、本心だった。とはいえ、賭博自体は善良な人間を脅かす堕落の危険を孕んではいても、必要悪であると認めている。それも光希が関わらなければの話ではあるが……
「賭博自体に興味があるわけじゃないよ。ポルカ・ラセに興味があるんだ」
 王宮のように豪華な賭博の宮殿を、一度この目で見てみたいと光希は以前から思っていた。
「ジュリはいったことある?」
「視察で何度か中へ入りましたよ」
「いいなぁ……今度は僕も連れていってね」
 曖昧な笑みを浮かべているジュリアスを、光希は上目遣いに睨んだ。
 本人は無意識にしているのだろうが、ジュリアスは誘惑を感じて、思わず唇を見つめた。
「……賭博場に集まる人間が、貴方に、邪な念を抱かないか心配なのです」
「聞いた話では、ポルカ・ラセは評判の良い遊戯場みたいだけどなぁ」
「良い噂ばかりではありませんよ」
「百聞は一見にしかずってね。やっぱり見てみないことにはなんともいえないな」
 さりげなく交渉を混ぜてくる光希がかわいらしくて、ジュリアスはくすくすと笑った。思わず願いを叶えてあげたくなるが、心配は多い。その内面を知ってのことか、光希は柔らかくほほえんだ。
「ジュリが傍にいてくれれば、怖いものなんてないよ」
 敬愛に満ちた眼差し。ジュリアスが光希の肘をとって抱き寄せると、光希もジュリアスの首に腕を回した。覆い被さるように唇は重なった。