アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 23 -

 光希は遊戯卓の制作に、全身全霊を傾けた。
 ろくに眠らず、明け方まで制作に打ちこむ日が幾日も続いている。不摂生な生活をナフィーサは心配しているが、今に始まった話ではない。光希が時間を忘れて制作に打ちこむのは、よくあることだった。家人達は心配そうにしながらも、光希の制作を応援していた。
 その日、邸に戻ってすぐに工房に籠った光希のもとに、しばらしくしてジュリアスがやってきた。時刻はとっくに就寝時間を過ぎている。
「光希、そろそろ休みましょう?」
「うん……」
 上の空で返事をしながら、一途な視線は変わらず手元の銀細工に注がれている。ふと影が射し、光希はようやく顔をあげた。心配そうな青い瞳と視線が絡む。
「無理していませんか?」
「してないよ。やりがいしか感じられない。アーナトラさんといい、アルシャッド先輩といい、本当にすごい人達と仕事できているんだもの」
 明るい瞳の輝きを見て、ジュリアスはほほえんだ。
「充実しているようですね。笑顔がきらきらしている」
「そう?」
 それはジュリアスだよ、そう思いながら光希は視線を泳がせた。
「でも本当に無理はしないでくださいね。この頃、あまり眠っていないでしょう」
「うん……あとちょっとなんだ。もうすぐ完成するよ」
「なら、今日は休みましょう?」
 たがねを持つ右手に、そっと掌を重ねられて、光希は戸惑ったようにジュリアスを見上げた。
「光希が心配です。きちんと身体を休めてほしい」
「……うん、判った」
 光希は逡巡し、鏨を手放した。
 寝室に入ると、ナフィーサが気を利かせて温めた蜂蜜酒を運んできた。二人で窓辺の絨毯に腰をおろして酒杯に口をつける。
 遊戯卓の制作について、ジュリアスに話して聞かせながら、光希は彼のしどけない様子に惹かれていた。穏やかな表情で聞き入りながら、肘をついて、永い指が硝子の酒杯を包んでいる……
 二人で過ごす時間に、彼の物憂げで優雅な仕草をじっと見つめるのが光希は好きだった。
「僕の作業はもう殆ど終わっていて、段取りと照明の設置まで話は進んでいるんだよ」
「順調なようですね」
「うん。もうすぐ完成だ」
 よく眠れるように酒を飲ませたのに、頬を上気させ、溌剌と制作状況を語る光希に、ジュリアスはつい苦笑を零した。
「ジュリ? 聞いている?」
「ええ、聞いていますよ。完成が楽しみですね」
「うん。この調子なら予定通りにポルカ・ラセに納品できると思う。ああ、ヘイヴンさん、喜んでくれるかな……」
 祈るように胸の前で両手を組む光希を見て、ジュリアスは片眉をあげた。
「喜ばないはずがありませんよ」
 そうでなければ赦さない。少しばかり不快な苛立ちがこみあげたが、
「そう思う?」
 恐る恐るうかがう様子がいじらしくて、ジュリアスは表情を和らげた。黒髪を優しく指で梳く。
「もちろん……」
 気だるく相槌を打つと、蝋燭の明かりに照らされた、光希の顔に視線を注いだ。祈るように組んだ両手に、そっと掌を被せる。
「きっとうまくいきますよ。貴方がこんなに頑張っているのだから……さぁ、そろそろ眠りましょう?」
「うん」
 だが、照明を落として褥に身を横たえたあとも、光希は元気だった。眠る素振りを見せず、ジュリアスと会話をしたがる。
「あのさ、アーナトラさんが、いつでも工房にきてくださいといってくれたんだ」
「アーナトラが?」
「うん。今度、アルシャッド先輩を誘っていこうかと思うんだけど、良かったらジュリも一緒にどう?」
 ジュリアスは思案した。
 短期間で随分と打ち解けたものだ。光希は、身分の隔たりなく気さくに振る舞う人柄に弱い。そういった相手には、すぐに心を赦してしまう。それは彼の美徳であり、ジュリアスにとって心配の種でもあった。
「そうですね。良かったら、私も誘ってください」
 光希は目を丸くした。
「ジュリさえ良ければ、いつだって誘うよ! 僕はいつでも合わせられるから」
「そんなに急がなくていいですよ」
 苦笑気味に答えるジュリアスを見て、光希のはしゃいだ気持ちは萎んだ。
「もしかして、無理してる? 本当はいきたくない?」
「そんなことはありませんよ。光希と一緒なら何でも楽しいし、彼の工房に興味もあります」
「そう? 本当?」
「ええ。でも、光希と二人で過ごせる方が嬉しいですけれど」
 光希は軽く目を瞠ると、頬を染めた。
「ふぅん……」
 照れを誤魔化すように呟いたが、光希は、頬が勝手に緩むのを感じた。ジュリアスがまだ見ていることを意識しながら、言葉の接ぎ穂を探して視線を彷徨わせる。
「僕も家でのんびり過ごすのは好きだよ。昼寝したり、本読んだり……気持ちいいよね。贅沢な気分にもなれる」
「そうですね」
「とはいえ、たまにはでかけたいよね。ジュリは、友達と遊びたくなることはないの?」
「友達ですか」
 虚を突かれて無防備な表情を浮かべるジュリアスを見て、光希は笑った。
「一緒にいて楽しいと思える人は、友人だよ。僕から見ると、ナディアやジャファール達はジュリの信頼できる仲間で、大切な友人でもあると思うよ」
 ジュリアスは、光希の手を取ると、目を見つめていった。
「そうかもしれません。でも、私が誰よりも一緒にいたいと思うのは貴方ですよ。伴侶としても、友人としても、貴方といる時が私は一番楽しいです」
「………………そっか」
 長い沈黙のあとに、光希は恥ずかしそうに返事をした。ごく小さいな声で、僕もだよ、と続ける。ジュリアスが身を屈めて光希の額に唇を落とすと、光希はようやく眠ることを思い出したように、小さな欠伸を漏らした。
「眠い?」
「ん……」
 穏やかな静寂が流れる。
 間もなく、光希の静かな寝息が聞こえてきた。元気に見えても、疲れが溜まっていたのだろう。欠伸をしたと思ったら、もう深い眠りに落ちている。
 寝室は蒼白く照らされている。照明は落ちているが、窓は開いていて、星明りが部屋の中ほどまで入りこんでいる。
 ジュリアスは上掛けをかけ直し、光希の胸のあたりにそっと手を置いた。
 掌に、暖かくて心地よい鼓動が伝わってくる。
 静かな夜の音――涼しげなせせらぎ、葉擦れの音、梟の囀りが聞こえてくる。
 静かで満ち足りた夜の静寂。
 寝息に耳を澄ませ、規則正しい鼓動を掌に感じているうちに、ジュリアスも眠りに落ちた。