超B(L)級 ゾンBL - 君が美味しそう…これって○○? -

4章:新人類 - 2 -

 実験は、その日の午後から始められた。
 施設の地下最深部、銃を持った兵士が歩哨ほしょうしている部屋の一つに、広海は案内された。
 十畳ほどの部屋に、机と椅子、測量機等の機材があり、数人の研究員が作業している。
 部屋の片側に、横長の硝子窓があり、対面の部屋が覗けるようになっている。
「マジックミラーだよ」
 野上の言葉に、広海は窓を見つめたまま頷いた。
 窓を通して、感染者が収容されている檻のある部屋が見える。向こうからこちらは見えていないようで、感染者は殆ど休眠状態だ。
「檻のなかに十人いる。いずれも感染五日から十日ほど経過した感染者たちだ」
「……僕は檻の前に立てばいいですか?」
 まさか檻のなかに入れとはいわないよな。そんな思いで広海は野上を仰ぎ見た。
「そうなんだけど、できそうかい?」
「大丈夫です」
 広海は、ほっとしながら頷いた。
「心配しないで。感染者は絶対に檻からでられないし、外に兵士もいる。僕もここから見ているから」
「はい」
「よし、じゃあいこうか」
 野上は部屋の外にでると、広海の肩に手を置いて、収容部屋の扉を守っている兵士に目配せをした。
 ガスマスクをつけた兵士は重々しく頷き、扉を開いた。
 広海は深呼吸をしてから、部屋に脚を踏み入れた。背中で扉が閉まる音を聴きながら、檻の真ん中の方へ歩いていく。
 檻は二重構造になっており、広海がどれほど檻に近づいても、最奥の檻に閉じこめられた感染者は、絶対に手が届かない距離が保たれていた。
 感染者たちは、音に反応して視線をよこしたが、それだけだった。
 かすかな呻き声を発しながら、ぼうっと突っ立っている。
 広海にとってはいつもの光景だが、隣の監視部屋にいる研究者たちにとってそれは、賛嘆の拍手を送るべき光景であり、希望を見出した瞬間であり――破滅の瞬間でもあった。
 突然、天井から白い煙が噴射されて、広海は口を手で押さえた。慌てて外へでようとするが、扉が開かない。
「えっ、なんで? あのっ、開けてください、開けて!」
 両の拳で扉を叩くが、一向に開く気配はない。
 狭い部屋のなか煙はあっという間に充満していき、薬品めいた甘い匂いを意識した瞬間、既視感に襲われた。
 この匂い、麻酔薬だ。
 なぜ――疑問に思うが、意識は朦朧となって、扉を叩いていた拳が、力なく垂れる。ずるずると膝から くずおれた。

 呻き声……
 酷い屍臭ししゅうがする……
 意識を取り戻した広海は、驚愕に目を瞠った。
「ひ……ッ」
 叫んだつもりが、囁き声にしかならなかった。
 どういうわけか広海は、二重構造になっている檻のなか、内側と外側の檻の間にいて、内側の檻の扉は開いていた。
 誰かが、感染者と広海を、何の仕切りもない同じ空間に閉じこめたのだ。
 勢いよく後ろを振り向いた広海は、鏡を凝視した。自分の顔が映るばかりだが、その向こうに、複数の人間の息遣いを感じた。
 観察されている。
 理解した瞬間に、全身が拒絶反応を示し、恐怖で腹部を殴られたようになった。
「た、すけて……」
 不安と怯えに支配されて、かちかちと歯が鳴る。身動きのとれぬ状況で、視線だけを忙しなく彷徨わせる。
 感染者は広海を襲う様子はなく、緩慢な動きで、檻のなかを徘徊している。
 襲われないと知っていても、視覚的な恐怖、屍臭ししゅうの嫌悪感は拭えない。四肢欠損し、どす黒く鬱血した顔、顔、顔……歩く屍。
 自分の能力と、その無力さを、嫌というほど思い知らされた気がした。
 視覚、嗅覚、聴覚――現実感覚のもたらす苦痛から、永遠に逃げられないのだ。
 精神がこわれそうになった時、部屋の扉が勢いよく開き、耳をろうする射撃音が続いた。
「が、ぁ゛ッ」
 感染者は、闖入者ちんにゅうしゃに襲いかかろうと檻から腕を伸ばすが、為す術もなく脳漿のうしょうを吹き飛ばされていく。
 たちまち屠殺場と化した。
 処刑の間、広海はその場にうずくまり、目を閉じて、両手で耳を塞いでいた。
 縮こまって震えていると、靴音が顔のすぐ傍で聴こえた。
 はっと顔をあげた瞬間、グローブのような片手に、顔面を掴まれた。
「ン――ッ!?」
 必死に藻掻くが、全く歯が立たない。まさか感染者に襲われたのかと考えたが、口許を白布で塞がれたので、相手が人間だと判った。
 この匂い!
 麻酔薬の溶液を染みこませた布だ。問答無用で、意識が遠のいていく……

「――君、広海君、大丈夫かい?」
 再び意識が戻った時、傍に野上がいた。心配そうにこちらを見ている。
 ぼんやりとした鈍い頭痛に眉をしかめながら、広海は視線を彷徨わせた。
 どうやら、最初に目を醒ました時に逆戻りしたらしい。無機質な部屋のスチール製の寝台に仰臥ぎょうがしていて、躰に毛布がかけられている。
「たすけて……」
 横になったままの姿勢で、白衣の男に救いを求める。殆ど聞き取れないほど小さな声だったが、野上は、辛そうに顔を歪めた。
「もう大丈夫、感染者はいないよ。怖い思いをさせてすまない。あそこまでするなんて、僕も聞いていなかったんだ」
 その声には、確かに遣る瀬無い憤慨の念が滲んでいた。
 広海は、緊張の糸が途切れてしまい、視界が潤むのを感じた。
「こ、怖かった」
 声が無様に震えてしまう。野上は心底申し訳なさそうな顔になり、
「ごめんね……非常に頼み辛いんだけども……あと一つだけ、お願いしたいことがあるんだ」
 広海は、不安げに野上を見つめ返した。
「その……広海君の、精液サンプルが欲しい」
「え」
 広海は己の聴覚を疑った。差しだされた硝子製のビーカーを見て、さらに視覚も疑った。
 気まずい沈黙が流れる。
 しばし呆気にとられていた広海は、野上の済まなそうな顔とビーカーを見比べるにつれて、蒼白になった。
「……本気ですか? 精液って、そんな……僕は無理ですよ」
 しかし、野上はますます申し訳なさそうな顔になり、
「どうしても、調べる必要があるんだ。本当に申し訳ないと思う……でもどうか、協力してくれないだろうか」
「そんなこと、いわれても……っ」
 眉根を寄せる広海に、野上は済まなそうにしつつも、枕元にビーカーを置いた。
「僕も本意ではないんだ。けど、広海君が承諾してくれなければ、押さえつけてでも採取するよういわれている」
「そんな……」
「僕もそんなことはしたくないよ。連中にやらせるのも嫌だし……だから、三十分ほど部屋をでているから、その間に……」
 いいにくそうに野上は言葉を切ると、首を振って、静かに部屋をでていった。
 広海は寝台に腰かけると、苦い顔でビーカーを見つめた。
 衝撃が少し落ち着いて、野上の言葉が頭に浸透すると共に、採取したいといった彼の真意が気になり始めた。
 例えば遺伝子を調べるのかもしれないが、野上は、広海の秘密・・をどこまで知っているのだろう?
 絶対に知られたくないという気持ちと、相談したいという気持ちが烈しくせめぎあい、動悸がして、チック症のように瞼が痙攣し始めた。
(――レオがいてくれたら)
 ここは安全な軍事基地のはずなのに、心細くて、よるべなさに押し潰されてしまいそうだ。
 しばらく茫然と項垂れていたが、やがて刻々と過ぎていく時間に意識が向いた。
 壁にかけられた電子時計を見ると、十八時七分。あと二十分と少ししかない。
 不本意極まりないが、誰かに採取されるよりかは、自分でやった方がまだマシだ。
 覚悟を決めて貫頭衣の裾をめくろうとした時、唐突に扉が開いた。もう野上が戻ってきたのかと焦ったが、
「いよぅ、広海クン」
 そこにいたのは、谷山だった。