超B(L)級 ゾンBL - 君が美味しそう…これって○○? -
2章:エナジー・ドリンク - 1 -
渋谷区松濤 。
誰もいない森閑 とした住宅街は、割れた窓硝子やゴミが道に散乱し、至る所に血痕が残されていた。
覚悟はしていたが、もはや広海の知っている地元の景観ではなかった。まるで違う世界に放りこまれたみたいだ。
一通の標識を無視して小路へ入って行くと、赤い釉薬 をかけた洋瓦 の屋根が見えてきた。
「そこの角です」
広海の言葉に、レオは速度を落とした。
朝顔のからまる袖垣 の向こうに、玄関がある。
心が逸 った広海だが、開け放たれているドアが見えた瞬間、息が止まりかけた。
玄関に置かれた淡香紫 の鉢が、倒されている……
庭いじりの好きな母が、鉢を倒したままにしておくはずがなかった。平穏な我が家で、何かが起きたのだ。
バイクから降りると、くらりと目眩 がして、広海は袖垣 に手をついた。
「ロミ?」
弱々しく丸まった広海の背を、レオは気遣わしげに撫でた。返事しようと思うが、くぐもった声が呻 きとなって喉 から漏れただけだった。
「大丈夫か?」
「……すみません、大丈夫です」
躰を真っ直ぐに起こすのに、かなりの気力を要した。レオは心配そうにこちらを見ている。
「俺が見てこようか?」
「でも、ゾンビがいるかも」
自分の言葉に広海は衝撃を受けた。もしかしたら、そのゾンビは……
「なおさら俺が先に行った方がいいな」
広海は躊躇 った。
確かにレオは尋常ではなく強いが、自分の家族の問題なのに、彼を矢面 に立たせるのは良心が咎 めた。
「俺が行く。いいな?」
躊躇 を悟ったように、レオは反駁 を許さない口調で言った。
怯 みそうになりながら、広海も見つめ返した。
「一緒に行きましょう。俺は後ろからついていきますから」
レオは二、三秒思案げに黙りこんだが、判ったと頷いた。
「静かにな。音を立てるなよ」
「はい」
広海は、気を引き締めて頷いた。
先にレオが入り、広海も慎重に家のなかへ脚を踏み入れ……思わず顔をしかめた。
懐かしい匂いにまじって、異質な匂いがした。
玄関に置かれた優しいポプリの匂い。生々しい、鉄錆 のような、腐敗した肉のような饐 えた匂い。玄関の靴は乱雑に散らばっていて、棚に飾られていた写真立てが床に落ちていた。
(ひでぇ……めちゃくちゃじゃん)
広海の心臓は引き絞られたような痛みを覚えた。一人だったら、一歩も動けなくなっていただろう。レオの背中を見て、どうにか冷静さをかき集めて、脚を動かした。
家のなかは静まり返っていて、床の軋 む幽 かな音すら響いて聞こえた。
どっくん、どっくん……鼓動の音が煩 い。
一歩を踏みしめるごとに、躰中の毛穴から恐怖が沁 み入ってくるようだ。
自分の呼吸が、鼓動が、足音が、不死感染者を呼びこんでしまったら……
恐怖と闘いながら、二階に続く階段の手前まできた。
壁にかけられていた時計が、床に落ちている。落ちた時の衝撃で、電池が抜け落ちたのだろう。秒針が動いていない。一九時三八分のまま、時が凍りついている。
その時、母は一階にいたのだろうか?
階段に脚をかけ、ふとリビングを見た。
窓から射す淡い陽に照らされ、男が背中を向けて立っている。その後ろ姿を広海は凝視した。
(父さん──)
血濡れたシャツをズボンからはみだし、千切れかけている右腕は腐爛 しているが、それは確かに、広海の父親だった。
憑 かれたように見入る広海の肩を、レオはそっと掴んだ。錆びついたブリキ人形のように、広海は頸 だけ動かして視線をあわせた。
強い意志力を灯した眼差しが、無言で訴えてくる──見るな。進め。階段を上 れ。
けれども、変わり果てた父の姿に、広海は雷に打たれたかのようなショックを受けていた。
絶望的な気持ちに浸 され、全身から力が抜け落ちていく……
麻痺 した思考を呼び醒ますように、肩を掴む掌に、軽く躰を揺すられた。
(──そうだ、悲しんでる場合じゃない。しっかりしろ。今は母さんを助けることだけ考えろ)
広海の目に、意志の光が戻ったのを確かめてから、レオは階段を上 り始めた。その背中を見ながら、広海も慎重に、忍び足で上 った。
二階にあがると、緊張感はさらに増した。
広海の部屋のドアが、薄く開いている。
白い光条 が、縦に一直線に伸びていて、薄暗い廊下を照らしていた。
(まさか──)
レオの背中に張りついていた広海は、彼の前に躰を滑りこませた。咎 める眼差しを無視して、運命を賭ける気持ちで、把手 を掴んだ。
ゆっくり扉を開くと、窓辺に、背を向けて母が佇 んでいた。
「母さん……?」
広海は小声で呼びかけた。
レオは腕を伸ばして、脚を踏みだそうとする広海の動きを制した。
ゆっくりと、母は振り向いた。
こめかみが深く抉 れて、顔の半分は血塗れになっている。頬骨がのぞくほどの大怪我を負っていながら、痛覚は麻痺 しているのか、声一つ発しない。息子を前にしても、特別な感慨 を呼び起こすこともなく、焦点のあわぬ虚 ろな目を向けてきた。
「う、ぁ……」
広海の顔が苦悶 に歪んだ。手で口を押さえ、一歩、二歩と後ずさりをする。
まさか、そんな──
現実を拒否するように頸 を振り、次の瞬間、部屋を飛びだした。
「ロミッ‼」
レオの声を無視して、転がるようにして階段を駆け下りた。騒々しい音を立てながら、勢いよく家の外へ飛びだす。そのまま道路にでようとしたところで、腕を掴まれた。
「ロミッ!」
広海は懸命に藻掻 いて暴れたが、腕を巻きとるようにして、力強く抱きしめられた。
「落ち着け!」
「嘘だ、そんな……なんで、こんなことって……っ」
手遅れだった──膝頭がぶるぶると慄 えだして、躰中から力が抜けていく。嫌悪感と恐怖で気が遠くなるようだった。
「あああぁぁぁぁっ」
躰の奥深くから荒れ狂った激浪 が迸 るように、叫びが喉 から噴きあがってくる。
眼裏 が燃えるように熱くなり、鼻の奥がつんとした。顔をそむけて、何度か涙を飲みこんだが、溢れるものを抑えることはできなかった。
「お母さん、残念だったな。かわいそうに……」
目から大粒の涙が零 れていく。声をあげてむせび泣く広海を、レオは必死に宥 めた。優しく声をかけて、痛みを取り除こうとするように、腕や背中を撫でさする。
「ふ、うぇ、母さんっ」
母は、茶目っ気のある人だった。いくつになっても天真爛漫 で、寡黙 で仕事人間な父とは対照的な、明るい人だった。ずっと専業主婦で、家のことは全て母が切り盛りしていた。
父も広海も、母には勝てなかった。料理上手で、夕餉 は毎日の楽しみだった。父もどんなに遅くとも二二時前には帰宅し、母の手料理を喰べていた。休日には喰卓を三人で囲む、仲のいい家族だった。
「あ──っ! あぁ……母さんっ」
救いを求めるためではなく、絶望感から叫ばずにはいられない。
「ロミ……」
レオは戸惑ったように名前を呼びながら、広海を抱きしめた。
安心感を与えてくれる腕のなかで、広海は、しゃくりあげながら、ただただ優しい慰めを貪 っていた。
もう二度と立ちあがれそうにないと思ったが、現実は厳しい。哀しみに浸 ることすら、許されなかった。
「ロミ」
緊張を孕んだレオの声に、広海は涙に濡れた顔をあげた。
対面から、ふらふらと不死感染者が歩いてきた。二、三……五人はいる。
逃げないと──頭の片隅に思うが、抜け殻のような躰に力が入らない。恐怖を絶望が凌駕 し、広海の全身を支配していた。
「ロミ、立て!」
レオが鋭い声を発した。
それでも広海は立ちあがることができなかった。声をあげて泣いているにも関わらず、死者の虚 ろな目は広海を映さない。
むせび泣きながら、広海は、奇妙なほど冷静に納得していた。
自分は、不死感染者に襲われないのだ。
これまでもずっとそうだった。
目が遭 ったと思っても、実際に彼等が襲ったのは、広海の周囲にいた別の誰かだ。今思えば最初にレオとバーに逃げこんだ時も、感染者を撃退していたのはレオで、それは彼が狙われていたからで、広海は一度も襲われなかったのだ。
今は?
広海だけじゃなく、レオも襲われる様子はない……
なぜ?
──判らない。理由は不明だが、まるで透明人間のように、感染者達は広海とレオを認識していない。
レオもその事実に気がついたようで、広海を無理に立たせようとはせず、眼前 を通り過ぎていく感染者達をまじまじと見ていた。
襲われないと確信を得たレオは、やや緊張を緩めて広海を見た。
「……とにかく、移動しよう。家から持ちだしたいものはあるか?」
広海は力なく頸 を振った。部屋には広海の私物が色々とあるが、変わり果てた母と再び相対峙 する勇気はなかった。
「欲しいものがあるなら、俺が取ってこようか?」
レオは気遣うように言った。広海はちょっと考え、やっぱり頸 を振った。
「大丈夫です……行きましょう」
少しも大丈夫ではなかったが、一刻も早くここから離れたい一心だった。
その心情を察してか、レオもそれ以上は追求せず、頷いた。
「判った。後ろ乗れ」
レオはバイクに跨 り、広海も後部座席に腰を落ち着けた。両腕を遠慮がちにレオに回すと、彼はその手を掴んで、しっかり交差させた。
「落ちないように、掴んでおけよ」
「はい」
広海は遠慮を捨てて、レオの背中に抱き着いた。
エンジンが唸 りをあげて車体が発進すると、みるみるまに馴染んだ家は遠ざかった。
誰もいない
覚悟はしていたが、もはや広海の知っている地元の景観ではなかった。まるで違う世界に放りこまれたみたいだ。
一通の標識を無視して小路へ入って行くと、赤い
「そこの角です」
広海の言葉に、レオは速度を落とした。
朝顔のからまる
心が
玄関に置かれた
庭いじりの好きな母が、鉢を倒したままにしておくはずがなかった。平穏な我が家で、何かが起きたのだ。
バイクから降りると、くらりと
「ロミ?」
弱々しく丸まった広海の背を、レオは気遣わしげに撫でた。返事しようと思うが、くぐもった声が
「大丈夫か?」
「……すみません、大丈夫です」
躰を真っ直ぐに起こすのに、かなりの気力を要した。レオは心配そうにこちらを見ている。
「俺が見てこようか?」
「でも、ゾンビがいるかも」
自分の言葉に広海は衝撃を受けた。もしかしたら、そのゾンビは……
「なおさら俺が先に行った方がいいな」
広海は
確かにレオは尋常ではなく強いが、自分の家族の問題なのに、彼を
「俺が行く。いいな?」
「一緒に行きましょう。俺は後ろからついていきますから」
レオは二、三秒思案げに黙りこんだが、判ったと頷いた。
「静かにな。音を立てるなよ」
「はい」
広海は、気を引き締めて頷いた。
先にレオが入り、広海も慎重に家のなかへ脚を踏み入れ……思わず顔をしかめた。
懐かしい匂いにまじって、異質な匂いがした。
玄関に置かれた優しいポプリの匂い。生々しい、
(ひでぇ……めちゃくちゃじゃん)
広海の心臓は引き絞られたような痛みを覚えた。一人だったら、一歩も動けなくなっていただろう。レオの背中を見て、どうにか冷静さをかき集めて、脚を動かした。
家のなかは静まり返っていて、床の
どっくん、どっくん……鼓動の音が
一歩を踏みしめるごとに、躰中の毛穴から恐怖が
自分の呼吸が、鼓動が、足音が、不死感染者を呼びこんでしまったら……
恐怖と闘いながら、二階に続く階段の手前まできた。
壁にかけられていた時計が、床に落ちている。落ちた時の衝撃で、電池が抜け落ちたのだろう。秒針が動いていない。一九時三八分のまま、時が凍りついている。
その時、母は一階にいたのだろうか?
階段に脚をかけ、ふとリビングを見た。
窓から射す淡い陽に照らされ、男が背中を向けて立っている。その後ろ姿を広海は凝視した。
(父さん──)
血濡れたシャツをズボンからはみだし、千切れかけている右腕は
強い意志力を灯した眼差しが、無言で訴えてくる──見るな。進め。階段を
けれども、変わり果てた父の姿に、広海は雷に打たれたかのようなショックを受けていた。
絶望的な気持ちに
(──そうだ、悲しんでる場合じゃない。しっかりしろ。今は母さんを助けることだけ考えろ)
広海の目に、意志の光が戻ったのを確かめてから、レオは階段を
二階にあがると、緊張感はさらに増した。
広海の部屋のドアが、薄く開いている。
白い
(まさか──)
レオの背中に張りついていた広海は、彼の前に躰を滑りこませた。
ゆっくり扉を開くと、窓辺に、背を向けて母が
「母さん……?」
広海は小声で呼びかけた。
レオは腕を伸ばして、脚を踏みだそうとする広海の動きを制した。
ゆっくりと、母は振り向いた。
こめかみが深く
「う、ぁ……」
広海の顔が
まさか、そんな──
現実を拒否するように
「ロミッ‼」
レオの声を無視して、転がるようにして階段を駆け下りた。騒々しい音を立てながら、勢いよく家の外へ飛びだす。そのまま道路にでようとしたところで、腕を掴まれた。
「ロミッ!」
広海は懸命に
「落ち着け!」
「嘘だ、そんな……なんで、こんなことって……っ」
手遅れだった──膝頭がぶるぶると
「あああぁぁぁぁっ」
躰の奥深くから荒れ狂った
「お母さん、残念だったな。かわいそうに……」
目から大粒の涙が
「ふ、うぇ、母さんっ」
母は、茶目っ気のある人だった。いくつになっても
父も広海も、母には勝てなかった。料理上手で、
「あ──っ! あぁ……母さんっ」
救いを求めるためではなく、絶望感から叫ばずにはいられない。
「ロミ……」
レオは戸惑ったように名前を呼びながら、広海を抱きしめた。
安心感を与えてくれる腕のなかで、広海は、しゃくりあげながら、ただただ優しい慰めを
もう二度と立ちあがれそうにないと思ったが、現実は厳しい。哀しみに
「ロミ」
緊張を孕んだレオの声に、広海は涙に濡れた顔をあげた。
対面から、ふらふらと不死感染者が歩いてきた。二、三……五人はいる。
逃げないと──頭の片隅に思うが、抜け殻のような躰に力が入らない。恐怖を絶望が
「ロミ、立て!」
レオが鋭い声を発した。
それでも広海は立ちあがることができなかった。声をあげて泣いているにも関わらず、死者の
むせび泣きながら、広海は、奇妙なほど冷静に納得していた。
自分は、不死感染者に襲われないのだ。
これまでもずっとそうだった。
目が
今は?
広海だけじゃなく、レオも襲われる様子はない……
なぜ?
──判らない。理由は不明だが、まるで透明人間のように、感染者達は広海とレオを認識していない。
レオもその事実に気がついたようで、広海を無理に立たせようとはせず、
襲われないと確信を得たレオは、やや緊張を緩めて広海を見た。
「……とにかく、移動しよう。家から持ちだしたいものはあるか?」
広海は力なく
「欲しいものがあるなら、俺が取ってこようか?」
レオは気遣うように言った。広海はちょっと考え、やっぱり
「大丈夫です……行きましょう」
少しも大丈夫ではなかったが、一刻も早くここから離れたい一心だった。
その心情を察してか、レオもそれ以上は追求せず、頷いた。
「判った。後ろ乗れ」
レオはバイクに
「落ちないように、掴んでおけよ」
「はい」
広海は遠慮を捨てて、レオの背中に抱き着いた。
エンジンが