朝食をとったあと、二人は早速準備に取りかかった。数日分の水と食料、必要最低限の荷物をバックパックに詰めて、服も着替えた。
　広海は、レオのMA-1のＴシャツを貸してもらった。下は制服で、靴は白いスニーカー。頭に工事現場用の安全ヘルメットをかぶり、ミントスプレーを吹きかけた黒いマスクを着けている。不審者じみているが、広海なりの戦闘服である。
　一方、レオはMA-1のカーゴパンツとＴシャツ、K・SWISSのスニーカーを履いている。シンプルな格好だが、スタイルが良いので、相変わらずファッション誌のモデルみたいだ。
　準備が整い、二人は裏口の扉に向かった。
　レオが鍵を開ける瞬間、広海は心のなかに湧きあがった恐怖と闘った。
　四日前、宮坂、青木、田口、それから見知らぬ男性が一人、扉のすぐ向こうで壮絶な目にあった。もう屍体はないと聞いているが、あの時の光景は、今も瞼（まぶた）の裏に焼きついている。
　一瞬の覚悟。
　扉の向こうに閑散（かんさん）とした景観が拡がると、広海は思わず拍子抜けした。
　屍体はどこにもなかった。
　割れた瓶や鉄屑などが散乱し、地面に血痕は残っているものの、千切れた四肢（しし）や臓物（ぞうもつ）はない。腐臭（ふしゅう）や異臭（いしゅう）もなく、それどころか、渋谷とは思えぬ澄んだ空気を感じた。
　真夏の太陽光線が、誰もいないアスファルトを焦がしている。
　安堵（あんど）に胸を撫でおろしながら、広海は自分を戒（いまし）めた。
　こんなことでいちいち心を乱していたら、身がもたないだろう。これから渋谷の街を歩いていかなければならないのだから。
　もうバーに戻ってくることはないが、レオは裏口の扉に鍵をかけた。
「忘れ物ないよな？」
「はい！」
　威勢の良い返事に、レオはくすっと笑った。
「んな緊張すんなよ。何があっても、俺がついている限り大丈夫だから」
　自信に満ちた言葉と不敵な笑みが、胸がずきっとするほど格好よくて、凛々しくて、広海の胸は高鳴った。
（カッケ――……）
　憧憬（しょうけい）の眼差しでぼぅっと見つめていると、デコぴんされた。
「いてっ」
　全く痛くなかったが、つい声にでた。額をさすっていると、レオは真面目な顔でこう言った。
「だから、パニック起こして走ったりすんなよ？　必ず俺と一緒に行動しろ」
「はい、判りました」
　広海が頷くのを見てから、レオは階段を下りた。そのまま通りへ歩いて行こうとせず、階段下のシャッターの前で立ち止まった。
「あっ！　車庫があったんだ……」
　広海は驚きに目を瞠（みは）った。四日前に一度見ているはずだが、気づかなかった。あの時は、それどころではなかったのだ。
「その辺に落ちてる車拾ってもいいんだけどな。今日はバイクで行こうぜ」
　そう言ってレオは屈みこむと、シャッターを直上に持ちあげた。鉄の擦れる音と共に、陽が射しこんで、立体的に膨らんだブルーシートを照らす。レオがシートを掴んで剥がすと、黒とシルバーの四〇〇ＣＣ級の単車が顕（あらわ）れた。
「カッケ――！」
　思わず広海は感嘆（かんたん）の声をあげた。
　だろ？　とレオはちょっと得意そうに笑うと、単車を手で押して道路に停めた。間抜けに見惚れている広海を振り返り、
「こっちこいよ。それと、これはしまっとけ」
　と、広海の手から、金属バッドを奪い、バックパックのなかに押しこんだ。
「メットはこっちな」
　次に、広海の装着している安全第一ヘルメットを脱がせ、座席下のメットインから取りだしたヘルメットと交換した。
「ありがとうございます……こうッスか？」
　広海はおぼつかない手つきで黒いメットをかぶると、顎の下でベルトをとめた。その不慣れな様子を見て、レオはくすっと笑った。
「バイク、乗ったことある？」
「ありません。レオさんのバイクですか？」
「そ。俺、バイクのためにバイトしてたんだよ。こんな状況だけど、やっぱこいつは置いていけねーわ……そういや、人乗せんの初めてだな」
「そうなんスか？」
「他人に触られたくねーし……ロミは特別」
　レオは思わず見惚れるような微笑を浮かべると、後ろのシートを叩いた。
「乗れよ」
　バイクに乗ったレオが格好良すぎて、広海はどきまぎしながら、後部座席に跨（またが）った。
「失礼します」
「そっちに足かけて……そうそう。俺の腰に腕回して」
　広海が遠慮がちに腕を回すと、レオはその手を掴んでぐっと引っ張った。
「わっ」
　驚いて、反射的に離れようとすると、レオは逆に掴んだ手に力をこめた。
「危ねーから、しっかり掴まっとけ」
「ハイ。あれ、レオさんメットは？」
「いらね」
「あの、安全メットでよければ。いや、俺のを返せばいいのか」
　降りようとする広海の腕を、レオは掴んで引き止めた。
「サンキュ、気持ちだけもらっとく。舌噛まないように、口閉じてろよ」
「ハイ」
　姿勢が安定すると、レオはエンジンをかけた。
　車体はゆっくり旋回（せんかい）し、車道にでると同時にスピードをあげた。
　大通りにでた途端に、無数の顔が振り向いた。
　感情の欠落した歩く屍（しかばね）たち。
　彼等は、バイク音に反応するものの、広海達を追いかけてこようとはしなかった。手足や臓物（ぞうもつ）を引きずりながら、ふらふらと揺れている。
　最悪な光景も、駅から離れるにつれマシになった。
　渋谷の昼中（ひるなか）だというのに、人影はおろか、不死感染者も皆無（かいむ）で、車も走っていない。半壊した街は静寂に包まれていて、時間が止まってしまったかのように感じられた。
　灼熱（しゃくねつ）の八月。
　視界を遮（さえぎ）る人も車もないから、道路に揺れる陽炎（かげろう）が際立って見える。
　渋谷は勾配（こうばい）のある坂道が多くて、少し自転車を走らせるだけで汗だくになるが、バイクは楽ちんだ。必死にこがなくても、全身に風を感じられる。
　しばらく順調に走っていると、感染者の群れを追い抜いた。さらに進むと、路端（ろたん）で停まっている白い乗用車に目が留まった。
　──生きている人がいる！
　故障してしまったのか、父親らしき男性がタイヤの前に膝をついて屈みこんでいる。彼の家族であろう幼い娘と母親は、車のなかにいて、父親の様子を、心配そうに見守っていた。
「レオさん、レオ！　止まって！」
　広海が声を張ると、レオは速度を緩めた。肩越しに問いかける。
「どした？」
「後ろからゾンビがくるって、あの人達に教えてあげないと」
　レオは、うんざりしたように視線を正面に戻した。
「面倒くせぇ」
　再びエンジンを吹かすレオの肩を、広海も負けじと叩いた。
「止まってください！　襲われちゃう！」
　殆ど怒鳴るようにして広海は叫んだ。レオは無言だったが、渋々といった風にバイクを旋回（せんかい）させた。
「しょうがねーな」
　面倒そうに呟いて、車の様子を見ている男性に近づいていった。
「パンクしたんスか？」
　ちょっと離れたところから、レオは訊ねた。
　屈みこんでいた男は、弾かれたように振り向いた。眼鏡をかけた四十路（よそじ）過ぎの、真面目そうな印象の男だ。さっと顔に警戒心を浮かべたが、レオと広海の顔をしきりに見比べ、すぐに警戒を緩めた。
「ええ、そうです。金属を踏んだみたいで、右のタイヤが損傷しちゃって」
　相手が高校生でも、彼は丁寧な口調で答えた。
「災難っスね」
　レオは傍に屈みこむと、タイヤの状態を見始めた。やおらバックパックから工具類を取りだし、地面に並べた。
「レオさん？」
　何をしているのか、彼の手元はよく見えない。広海が近寄って手元を覗きこもうとしたら、レオは徐（おもむろ）に立ちあがり、道具をしまって手の汚れを払った。
「直りましたよ」
「「えっ？」」
　広海と男性の声が重なった。彼は眼鏡のフレームを指で押しあげながら、屈みこみ、
「あれっ、本当だ直ってる……どうやったの？」
　茫然（ぼうぜん）と呟いた。驚いたままの表情で振り向いて、問いかけるようにレオを見つめた。
「修理得意なんで」
　レオは肩をすくめてみせた。
「はぁ、交換しないとダメかと思ったんだけど……いやぁ、ありがたい。助かりました」
　男は訝（いぶか）しがりながらも、頭をさげた。
　車に乗っている母と娘は、感謝と安堵（あんど）の表情でこちらを見ていた。
　レオがどうやって修理したのかは不明だが、彼等の安心した表情を見て、広海も嬉しくなった。自分が直したわけではないのだが、なんだか善行をした気分だ。
「これ、良かったらどうぞ……お礼に」
　と、彼は穏やかな笑みを浮かべ、ペットボトルを二つさしだした。
「ありがとうございます」
　礼儀正しくレオが受け取る隣で、広海は頭をかいた。
「僕は何もしていないのに、もらっちゃっていいのでしょうか」
「気にしないで、もらってよ」
　男は笑った。にこやかにいわれて、広海は恐縮しながら受け取った。
「君達は高校生？　これからどこへ行くの？」
　少し砕けた口調で、男は思案げに訊ねた。
「はい、高校生です。これから僕の実家に行くところで……母から連絡があったので」
　男は、痛ましそうな表情を浮かべ、頷いた。
「そう……無事に会えるといいね」
「ありがとうございます。あの、どちらへ行かれるんですか？」
「九段下の避難所だよ。テレビで見てね」
　広海は頷くと、忠告を口にした。
「後ろから、ゾンビの群れが来ています。このままだと、追いつかれちゃうかも」
　男は驚いた顔つきになり、車内にいる妻子を振り返ると、再び視線を広海に戻した。
「教えてくれてありがとう。すぐに出発するよ」
「はい。お気をつけて」
「ありがとう。避難所には軍隊が来てくれているというよ。君達も、後から来るといいよ」
　広海は頷いた。本当はすぐにでもそうしたいが、先ずは母を助けてからだ。ちらりと隣を見ると、レオも視線をあわせてきた。
　──行くぞ。
　無言の圧を感じた広海は、男性に視線を戻して、お辞儀をした。
「それじゃあ……もう行きますね。お気をつけて」
「うん、君達もね。タイヤを直してくれて、どうもありがとう！」
　笑顔で手を振って別れた。
　停めてあるバイクに向かいながら、広海は、少しだけ気分が高揚（こうよう）していることに気がついた。それほど長く喋ったわけではないが、久しぶりの会話に癒やされたらしい。
　今なら、どんな些細なことも幸せだと感じられる。路端（ろたん）を行き来する鼠も可愛く見えるくらいだ。
　在りし日の日常を希（ねが）いながら、再びバイクに跨（またが）った。