月狼聖杯記
9章:為政者たち - 4 -
星暦五〇三年十月十五日。
セルト遠征軍が川辺で野営をしているちょうどその時、シェスラの寵臣ダイワシンは、アレッツィアの宗主オルドパと密談を交わしていた。
オルドパは月狼にしては小柄だが、濃い髭に鉤鼻、昏い眼光を放つ深緑双眸の持ち主で、厳つい雰囲気の壮年の男である。肩より長い灰青髪を後ろで一つに束ね、華美な装飾品で全身を飾っている。
彼は、聖地ラピニシアを背後にした高地に布陣せしめ、ペルシニア領を通ってやってくるであろう、シェスラ率いる騎士団を迎え撃つ万全の準備を整えていた。
アルトニア帝国の援助を受けて、この時代における最新兵器、長銃をもたせた騎兵部隊を敷いていたのである。海洋からは帝国の艦隊も援軍に駆けつけようとしている。
まさに順風満帆。オルドパは己の勝利を確信していた。
楽観にたる根拠はあるが、その奢りが、彼の目を曇らせてしまっている――ダイワシンは冷静に分析する。
ダイワシンは、四十半ばの精悍な男で、背筋の伸びた権高い風格をしている。角張った顔つきで、口のまわりから顎へかけて濃紺の髭を蓄えており、同じ色の髪をきっちり後ろへ撫でつけ額を露わにし、片眼鏡の奥から鋭い金緑の瞳が光っている。
前王からセルトの国政を支えた慧眼 、辣腕 の持ち主で、シェスラが覇道を歩むために、アミラダやインディゴと並んで、絶対に手に入れておきたいと思った要人の一人である。
彼を味方につけるために、シェスラは巨額の投資もしている。
だが、それほどまでにダイワシンは優秀な男だった。
密談は、オルドパの要塞で行われた。
要塞とは思えぬ豪荘華麗な応接間は、玉座の間といえるほどで、確かに主権を暗示するような一段高い壇の上の大きな椅子に、オルドパは腰かけていた。
一方ダイワシンは、足元に敷かれたクッションに寛いでいる。
「聴くところによると、セルトの王は行軍の最中に、衆目も憚 らずに川遊びをしているらしいな」
嘲笑を浮かべるオルドパを仰ぎ見て、ダイワシンは苦笑をこぼした。
「束の間の休息です。将兵らにも娯楽は必要ですから」
よく響く韻の深い声であった。
ふふん、とオルドパは小馬鹿にしたように笑った。
「若造のお守りなどやめて、余に仕えぬか?」
「お褒めに預かり光栄です」
如才 のない笑みを見て、オルドパは肩をすくめた。割と本気の言 であったが、どのような金品を贈ったとしても、そう簡単に彼が味方にならないことは判っていた。
「まぁ、飲みなさい」
と、オルドパは極上の酒で遠路をねぎらった。するとダイワシンも相好を崩して喜んだ。
「これは美味しい」
そうであろう、とオルドパは鷹揚に頷きながら、一方で警戒も深めた。笑みのなかでも金緑の瞳は鋭く、抜き身の刀剣を首筋に充てられたかのように、冷やりとしたものを感じたのだ。
この男を相手に、油断は許されない。気を抜けば喉笛に噛みつかれる――悪寒が走った。
「して――どのような話か」
オルドパは鷹揚に、だが警戒した眼差しで問うた。
「我が大王 は、和睦を受け容れるのなら、アレッツィア宗主として立場を約束するとおっしゃっています」
「ほぅ? それはそれは……寛大な申し出といいたいところだが、敗勢に臆したわけではあるまいな?」
オルドパは冷笑した。
「恐れながら、星 が告げる運勢は、我が大王 の圧倒的勝利とでております」
(――星……?)
悠然と笑みを浮かべるダイワシンに、オルドパは眉をひそめた。
「ふん、アミラダの言 か」
「その通りでございます。よろしければ、具申 いたしましょうか?」
「いらぬわ」
うるさげに手を振ったものの、老獪なオルドパにしては珍しく、表情に猜疑を滲ませた。
合理的な彼も、千年を生きる占星術師には、畏怖を覚えていた。セルト前王の頃から、少しも変わらぬ魔女である。たかが星占いと等閑視 にはできない。
(よもやアレッツィアの衰亡を視たのではあるまいな……)
この局面で、九都市宗主に代わるのではなく、自治を認めると交渉してくるとは……シェスラでなければ、戦争に弱腰なのかと思うところだが、先のネロアの闘いで、仇敵アルセウスを討った男である。彼なりの最大の譲歩といえる。
世事は逆賭 すべからずといえど、自分の決断が、この先の明暗を分かつであろうことは、オルドパにも判っていた。
ここが落としどころ だと霊感が囁く。
しかし、オルドパは躊躇った。
武勲赫々 として九都市宗主を自負するオルドパにとって、これほど屈辱的なことはない。
若造と侮蔑してきたシェスラの前に参上し、膝を屈して、封土をありがたく頂戴せよなど!
シェスラの覇権の許 での自治など、軛 に繋がれたのも同然。
幼いシェスラがめきめきと頭角を現し、権勢を伸長し、侮り難い強敵と化したことを理解しながら、対等な交渉を許すことができなかったのは、オルドパの愚かな虚栄心であり、嫉妬心である。
或いは、アレッツィアという永い栄華の宿痾 が、英邁 と賞された彼の眸 を曇らせてしまったのかもしない。
いずれにせよ、唯我独尊の頂点から、屈辱の深みに落ちることは赦せなかった。
「領土侵犯を認めるわけにはゆかぬ」
オルドパの決断に、ダイワシンは目を細めた。
「その懸念は、アルトニアに向けるべきでしょう。月狼の絆に亀裂を入れ、覇権争いをさせているのは帝国ですよ。行く末の暗雲も宜 なるかな。異民族の支配は悲惨なことでしょう」
再び沈黙が流れる。
オルドパは少しの間思案に暮れたが、今さら引くことはできなかった。
「答えは変わらぬ」
「同胞の流血をお望みか」
「セルトの王に進言するがよかろう。息巻いて突進するばかりが戦 ではないのだぞ」
「帝国の支配を受け容 れよと?」
ダイワシンは鋭く切り返した。
「控えよッ」
オルドパの激昂に、ダイワシンは引き下がった。
この瞬間、オルドパの命運は決まった。
「……かしこまりました。貴方様のお言葉を、我が大王 にお伝えいたしましょう」
慇懃無礼な口調の裏に、愚か者め、侮る声が秘されているようにオルドパは感じられた。
宗主の恣意 的判断により、同族の好 ともいえる恩寵的交渉は、決裂したのである。
アレッツィアを去る時、ダイワシンは一種の哀れみのような感情を抱いた。
自らの勝利を疑わぬ、愚かな宗主――帝国の援助を得て、無敵になったと勘違いしている。
だが、勝負事に絶対はないのである。
特に指導者は、大局を前にするとき、最善と最悪の二つを想定して然るべきである。
しかしそれは、幾多の場数を踏み、修羅場をくぐり抜けてきた熟練者であっても難しいとされる。
戦局がどれほど有利に傾いても、足元をすくわれることもある。逆も然り。先入観や諦念、驕りといった様々なものが、視野を狭めてしまうからだ。
しかし、若干二十歳のシェスラは、自然体で行うことができた。
彼はいつでも大胆不敵、一見すると最悪の場合など考えていなさそうに見えるが、常に想定していた。
一つの選択に伴う様々な事象をはじきだし、常に頭の片隅に止めていた。勝利している時でも、犠牲の数を計算し、損害を意識し得ていた。
今度の遠征も、ラピニシアを占領している帝国軍が、兵の入れ替えのために発ったのを見逃さず、冬季を承知のうえで号令を発したのだ。
(オルドパとの格の違いか)
ダイワシンは内心でひとりごちる。思考を切り替え、今度はペルシニアの宗主に面会すべく、馬を走らせた。
セルト遠征軍が川辺で野営をしているちょうどその時、シェスラの寵臣ダイワシンは、アレッツィアの宗主オルドパと密談を交わしていた。
オルドパは月狼にしては小柄だが、濃い髭に鉤鼻、昏い眼光を放つ深緑双眸の持ち主で、厳つい雰囲気の壮年の男である。肩より長い灰青髪を後ろで一つに束ね、華美な装飾品で全身を飾っている。
彼は、聖地ラピニシアを背後にした高地に布陣せしめ、ペルシニア領を通ってやってくるであろう、シェスラ率いる騎士団を迎え撃つ万全の準備を整えていた。
アルトニア帝国の援助を受けて、この時代における最新兵器、長銃をもたせた騎兵部隊を敷いていたのである。海洋からは帝国の艦隊も援軍に駆けつけようとしている。
まさに順風満帆。オルドパは己の勝利を確信していた。
楽観にたる根拠はあるが、その奢りが、彼の目を曇らせてしまっている――ダイワシンは冷静に分析する。
ダイワシンは、四十半ばの精悍な男で、背筋の伸びた権高い風格をしている。角張った顔つきで、口のまわりから顎へかけて濃紺の髭を蓄えており、同じ色の髪をきっちり後ろへ撫でつけ額を露わにし、片眼鏡の奥から鋭い金緑の瞳が光っている。
前王からセルトの国政を支えた
彼を味方につけるために、シェスラは巨額の投資もしている。
だが、それほどまでにダイワシンは優秀な男だった。
密談は、オルドパの要塞で行われた。
要塞とは思えぬ豪荘華麗な応接間は、玉座の間といえるほどで、確かに主権を暗示するような一段高い壇の上の大きな椅子に、オルドパは腰かけていた。
一方ダイワシンは、足元に敷かれたクッションに寛いでいる。
「聴くところによると、セルトの王は行軍の最中に、衆目も
嘲笑を浮かべるオルドパを仰ぎ見て、ダイワシンは苦笑をこぼした。
「束の間の休息です。将兵らにも娯楽は必要ですから」
よく響く韻の深い声であった。
ふふん、とオルドパは小馬鹿にしたように笑った。
「若造のお守りなどやめて、余に仕えぬか?」
「お褒めに預かり光栄です」
「まぁ、飲みなさい」
と、オルドパは極上の酒で遠路をねぎらった。するとダイワシンも相好を崩して喜んだ。
「これは美味しい」
そうであろう、とオルドパは鷹揚に頷きながら、一方で警戒も深めた。笑みのなかでも金緑の瞳は鋭く、抜き身の刀剣を首筋に充てられたかのように、冷やりとしたものを感じたのだ。
この男を相手に、油断は許されない。気を抜けば喉笛に噛みつかれる――悪寒が走った。
「して――どのような話か」
オルドパは鷹揚に、だが警戒した眼差しで問うた。
「我が
「ほぅ? それはそれは……寛大な申し出といいたいところだが、敗勢に臆したわけではあるまいな?」
オルドパは冷笑した。
「恐れながら、
(――星……?)
悠然と笑みを浮かべるダイワシンに、オルドパは眉をひそめた。
「ふん、アミラダの
「その通りでございます。よろしければ、
「いらぬわ」
うるさげに手を振ったものの、老獪なオルドパにしては珍しく、表情に猜疑を滲ませた。
合理的な彼も、千年を生きる占星術師には、畏怖を覚えていた。セルト前王の頃から、少しも変わらぬ魔女である。たかが星占いと
(よもやアレッツィアの衰亡を視たのではあるまいな……)
この局面で、九都市宗主に代わるのではなく、自治を認めると交渉してくるとは……シェスラでなければ、戦争に弱腰なのかと思うところだが、先のネロアの闘いで、仇敵アルセウスを討った男である。彼なりの最大の譲歩といえる。
世事は
ここが
しかし、オルドパは躊躇った。
武勲
若造と侮蔑してきたシェスラの前に参上し、膝を屈して、封土をありがたく頂戴せよなど!
シェスラの覇権の
幼いシェスラがめきめきと頭角を現し、権勢を伸長し、侮り難い強敵と化したことを理解しながら、対等な交渉を許すことができなかったのは、オルドパの愚かな虚栄心であり、嫉妬心である。
或いは、アレッツィアという永い栄華の
いずれにせよ、唯我独尊の頂点から、屈辱の深みに落ちることは赦せなかった。
「領土侵犯を認めるわけにはゆかぬ」
オルドパの決断に、ダイワシンは目を細めた。
「その懸念は、アルトニアに向けるべきでしょう。月狼の絆に亀裂を入れ、覇権争いをさせているのは帝国ですよ。行く末の暗雲も
再び沈黙が流れる。
オルドパは少しの間思案に暮れたが、今さら引くことはできなかった。
「答えは変わらぬ」
「同胞の流血をお望みか」
「セルトの王に進言するがよかろう。息巻いて突進するばかりが
「帝国の支配を受け
ダイワシンは鋭く切り返した。
「控えよッ」
オルドパの激昂に、ダイワシンは引き下がった。
この瞬間、オルドパの命運は決まった。
「……かしこまりました。貴方様のお言葉を、我が
慇懃無礼な口調の裏に、愚か者め、侮る声が秘されているようにオルドパは感じられた。
宗主の
アレッツィアを去る時、ダイワシンは一種の哀れみのような感情を抱いた。
自らの勝利を疑わぬ、愚かな宗主――帝国の援助を得て、無敵になったと勘違いしている。
だが、勝負事に絶対はないのである。
特に指導者は、大局を前にするとき、最善と最悪の二つを想定して然るべきである。
しかしそれは、幾多の場数を踏み、修羅場をくぐり抜けてきた熟練者であっても難しいとされる。
戦局がどれほど有利に傾いても、足元をすくわれることもある。逆も然り。先入観や諦念、驕りといった様々なものが、視野を狭めてしまうからだ。
しかし、若干二十歳のシェスラは、自然体で行うことができた。
彼はいつでも大胆不敵、一見すると最悪の場合など考えていなさそうに見えるが、常に想定していた。
一つの選択に伴う様々な事象をはじきだし、常に頭の片隅に止めていた。勝利している時でも、犠牲の数を計算し、損害を意識し得ていた。
今度の遠征も、ラピニシアを占領している帝国軍が、兵の入れ替えのために発ったのを見逃さず、冬季を承知のうえで号令を発したのだ。
(オルドパとの格の違いか)
ダイワシンは内心でひとりごちる。思考を切り替え、今度はペルシニアの宗主に面会すべく、馬を走らせた。