月狼聖杯記

9章:為政者たち - 1 -

 星暦五〇三年。十月六日。
 シェスラ率いる月狼銀毛騎士団遠征軍が、セルト国の不沈城グラン・ディオを出発してから六日。
 天候に恵まれ、軍旅は順調だった。
 空は晴れて澄み渡り、なだらかな平原の穂先を眩く照らしている。
 牧草の生い茂る丘では、羊や牛の群れがのんびりと草をみ、時折遠くから、羊飼いの吹き鳴らす角笛が聴こえてくる。
 この牧歌的な光景も、あと少しで見納めだ。
 遥かなる峻厳な峰はまだ薄青に見えるが、ペルシニアに近づく頃には、くっきりとした輪郭に変わるだろう。
 今のところは行軍に余裕があり、緊張を強いられる先鋒隊や騎馬隊は別として、後衛の輜重しちょう隊はごった返していた。
 兵の妻子や、禁じられているのに、いつの間にやら忍びこんできた従軍娼婦や流れの芸人、廃兵や墓掘り人、騎士専属の酒保しゅほ商人、鍛冶職人、肉屋、料理人などで溢れかえっているのだ。
 騎士団の給金体制は整っているが、博打で素寒貧すかんぴんになる兵士もなかにはいて、彼等は酒保に借金をしながら、酒や日用品を買っていた。
 ラギスも常連の一人だが、彼の場合は借金のためではなく、蜜酒欲しさに酒保へ通っていた。入手経路は謎だが、様々な客の要望に応えて、酒保の品揃えは充実していた。
 とにかく軍旅には様々な者がいて、大所帯を機能させるには、それなりに規律が必要だった。
 行軍には不便も多いが、隊士が文句もいわずについてきているのは、名声嘖々さくさくたる月狼の王アルファング御稜威みいつ ることながら、磊落らいらくで気さくなインディゴが兵団をまとめていることも大きかった。将兵らは彼を信頼し、よく仕えた。
 その日の夕べ。
 糸杉の梢の合間から、黄昏が滴り落ちて、一日が終わりに近づこうとしていた。
「ここで野営しよう」
 インディゴの号令に、一行は足を止めた。
 この日は天幕を張る日で、各隊の背後に、それぞれの厨房天幕が数基、大隊は十基あまりが設置された。
 頑健な月狼の軍人は、二日ほど休まずに行軍し、三日目には天幕を張ってしっかり休息をとるのだ。
 大隊は百人から三百、一連隊はおよそ千人ほどで構成されている。
 ラギスは近衛兵団の黒狼連隊に所属しているが、シェスラの聖杯として、大王専用の幕舎ばくしゃで寝食を許されていた。ラギスは一兵卒と同じ扱いで構わなかったのだが、シェスラが赦さなかったのだ。
 節約を心がける軍旅でも、栄養には気を配られており、この日は火を使うことができたので、将兵らには平等に、き割り小麦と羚羊れいようの肉を煮込んだ粥が、鍋から小鉢に配り入れられ、麦酒とともに給された。シェスラを含め、上級将校たちも同じものを口にする。
 彼等は琥珀色に揺らめく焚火を囲んで輪になり、二合五勺こなからで胃を温め、食事を済ませた。そのあと少しばかり雑談に興じ、戦争賛歌や卑猥なざれ唄を放ったりしてから、しんに就いた。
 ほろをかけた車は、夜になると寝床にもなるが、数が足りぬ。殆どの騎士は、月狼の姿に転じて地べたで寝ていた。月がでている夜は特に、毛並みを銀色の光に撫でられながら眠ることを好んだ。
 月狼は元来、夜行性なのだ。
 遥か昔、月狼の先祖は一日の大半を四足の獣で過ごしていた。
 文明の発達と共に、人形ひとがたで活動する時間は伸びていったが、今でも晴れた星月夜ともなれば、獣性を開放して、山岳や森へ入りたがる者は多い。発情期を迎えた月狼や、つがいの月狼が、子育ての為に人里を離れて自然の巣穴を探すことも珍しくなかった。
 実際、貴族的なシェスラの麾下きか連隊であっても、獣の姿で眠る者は意外と多かった。
 なだらかな平原の軍旅でも、距離を稼ぐために歩き通しなので、将兵らは草臥くたびれ、その眠りは早い。
 しかし、夜は冷える。
 日光がさんと降り注ぐ昼間は、十月でも汗ばむ陽気だが、陽が沈むと途端に寒くなる。自前の毛皮や、毛織の布で躰を包んでいるとはいえ、地べたに横たわると、地の冷気が伝わってきて、軍旅に不慣れな若い隊士は、震えて眠るのに苦心していた。
 だが、この程度はまだ序の口である。真の寒さとの戦いが始まるのは、霊峰に入ってからだ。

 あくる朝。
 腹ごしらえをすませた騎士達は、出発の前に稽古を始めた。彼等の毎朝の日課で、体術の練習や、剣や斧を手に模擬戦に身を投じるのだ。
「ラギス、相手をしてくれ」
 と、この日は剣を持ったロキが現れ、ラギスは機嫌のいい目つきで友を見た。
「こてんぱんにしてやるよ」
「やってみろ」
 ロキは笑って、剣を構えた。
 何年も闘技場で切磋琢磨してきた仲である。二人は阿吽の呼吸があり、稽古の質も高かった。騎士団に身をおいてからは、さらに剣技も高まり、構え一つとっても、闘技場にいた頃よりも洗練されている。
「は!」
 ラギスが鋭く威放つ。ロキは素早く身を躱し、突刺を狙う。
 相打つつるぎが、蒼い火花を散らした。
 精鋭揃いの月狼銀毛騎士団は腕のたつ剣士が多いが、なかでも二人の稽古は、もはや稽古の範疇を超えた剣戟けんげきだった。
 ロキの剣がラギスの顔へ滑ったが、僅かに逸れた。ラギスの剣尖けんせんも、本気でロキの心臓を狙っているかのように襲った。
 ラギスの放った鋭い一閃が、ロキの髪を一筋薙いだ。
 見守っていた騎士たちは、はっと眼を瞠ったが、それは完全に制御された動きだった。
 周囲から歓声が起こる。
 シェスラも、余興を眺める顔で観戦していた。多忙な彼も、ラギスがロキと稽古をしている時は、顔を見せることが多い。
 見事な剣戟が終わり、観衆から称賛の拍手が起きた。
「腕は衰えてないようだな」
 ロキは口角をあげて後ろへさがると、ラギスもしたり顔で後ろへさがり、わざとらしく儀礼的なお辞儀をした。
「勝ったつもりか? え? にやにやするなよ」
 ロキの言葉に、ラギスは肩を揺りあげた。
 和んだところで、オルフェとグレイブも近づいてきて感想を口にした。じきにジリアンも加わり、動きを繰り返したり、新しい剣の型を学んだりした。
 騎士たちの、いつもの光景である。