月狼聖杯記

8章:夜明けの鬨 - 2 -


 闘いの足音が近づいてくる。
 城塞をよう する広漠の平原は、無数の松明に照らされ不気味に輝いている。月のない夜空を雲が覆いつくし、辺りには群青の闇が垂れこめていた。
「先頭、構え!」
 アレクセイの号令で、狭間胸壁さまきょうへきにずらりと並んだ弓隊は、銃眼から鋭い矢の先をつがえた。
「――掃射ッ!」
 闇の帳を突き破るようにして、一斉に矢が放たされた。鋭い放物線を描いて、草原の彼方へ吸いこまれていく。
「先頭、入れ替え! 次ッ!」
 鋭い指示が休む間もなく飛来する。唸りをあげる矢は、嵐となって敵の頭上から襲いかかった。
 弓隊は怒涛の一斉射撃、数千もの矢を瞬く間に射ったが、掃射が追いつかない。盾を掲げて進軍する敵は、いわお を砕く波のように押し寄せ、城塞に一歩、また一歩と確固たる足取りで近づいてくる。
 やがて敵の紋章旗を視認できるほど距離が縮まった時、アレクセイは自ら弓を手にとった。
「ラギス様、私は将を狙います」
「判った」
 ラギスが承諾すると、彼は部下に配置を指示し、自ら弓を引いた。矢を同時に三本もつがえ、その全てを命中させた。
 ラギスは思わず口笛を吹いた。味方も彼を賞賛の目で見ている。アレクセイは集中を乱すことなく、射っては矢筒に手を伸ばし、瞬く間に敵を射かけた。
 それでも、敵の歩みに迷いはない。最前列の歩兵隊は鎖帷子をまとっており、襟元の金の房飾りに、アレッツィア兵の象徴である鍵の紋章が留めてある。その後ろに続く騎兵連隊は、銀色の馬具でそろえ、分厚い鞍布には切れこみを入れ、銀糸で茨の意匠を配してある。
 圧倒的な威容が闇から現われると、味方は怖気づいたように息を呑んだ。
 敵の士気は高かった。これまでシェスラが衝突を避けて少しずつ前線をさげたことにより、敵は相手が怖気づいたと思いこみ、自分達の優勢を確信しているのだ。
 今や怒号が容易に届く距離まで迫っている。根城を包囲し、喉笛に噛みつかんと城壁に梯子をかけようとしている。攻城戦は楽勝、時間の問題と思っているのだろうが――悪魔は細部に宿るのである。
 いよいよ城壁に梯子がかけられるのを見て、ラギスはロキを振り返り、
「ロキは南だ。俺は北をもつ」
「判った」
 ロキは力強く頷いた。無言の視線をかわしてから、互いに背を向けた。
 大またで持ち場の狭間胸壁に向かうラギスの背に、壮年の男が声をかけた。
「我等もお使いください」
 威厳を感じさせる、顎髭を生やした四十過ぎの男で、麾下きか五十名あまりを率いている。いずれも厳めしく、寡黙で、口の堅い古参兵ばかりだ。
 彼がシェスラの託した部隊長であることはすぐに判った。襟の徽章から、騎士階級の千人将であると判る。眼差しは強く、全身に力を漲らせている。
「東西南北に均等に配置しろ。北は一番の正念場だ。一番の手練れをあててくれ」
 その場にいる、全員の目がラギスに集まっていた。城壁の下の者も、声を拾おうと耳を澄ませている。戦意に満ちた顔ぶれを見回し、ラギスは声を張りあげた。
「いいか、ここが大一番だぞ! 人数差は半端ないが、攻城戦は防衛する方に利がある。陽が昇るまで凌げばシェスラが道を開く!」
 オオッ! 味方が咆哮した。
 千人将の男は一礼して下がると、部下に指示をだしてから、再びラギスと同じ北の城壁に戻ってきた。
「共に守備につきます」
 隣に立つ男をちらと見て、ラギスは口を開いた。
「名前は?」
「グレイヴと申します。ラギス様」
「ラギスでいい」
 グレイヴは頷いた。
 その時、狭間をぬけて槍の鉾が覗いた。ひとりの兵士が腹を裂かれてよろめき、喉をつまらせたようにあえぎながら、張りだした足場から転落した。血に濡れた鉾が、その喉を貫いていた。
「くるぞッ!」
 ラギスは咆えた。アレクセイの前に踏みだし、油断なく剣を構える。敵の先鋒がついに胸壁に手をかけた。
「――ッらァ!」
 威勢の良い敵の先兵が飛びこんできたが、ラギスは大剣の一振りで数人を吹き飛ばした。
「ぎゃぁあッ」
 血も凍るような悲鳴があがる。鎧を纏った敵は城壁の外まで吹き飛び、なすすべもなく落下していった。
「ラギス様、後ろ!」
 ジリアンが叫んだ。
 電光石火、ラギスは振り向きざま剣を突きだし、頭の上から振り下ろされた鋼を受け止めた。
 ギィッン。鋼が鳴り、朱金の火花が飛ぶ。体重を踵に乗せ平衡をとると、相手の心臓目がけて剣を繰りだした。
「がッ!」
 敵は呻き、鮮血が吹きあがった。剣は鎖帷子くさりかたびらを貫通し、心臓を突き破っていた。
 剛剣を目の当たりにした敵も味方も、瞳をはっと見開いた。
「ぼけっとするな! 次がくるぞ」
 ラギスが雄たけびをあげると、味方も獣のような咆哮で応えた。
 城壁は戛久かつかつと鳴り響く刀槍、冑の羽根飾りを震わせ、血の霧が舞う激戦場と化した。
 狭い足場での戦いは、互いの息遣いが判るほどの至近距離戦となり、血と汗を散らせながら、鋼を相手の腹に突き立てる。その闘いは苛烈を極めた。血で血を洗う修羅の中、胸壁に立つラギスは、全将兵の目に立ちはだかるいわおのように映っていた。
「気張れ、死守しろッ!」
 雷鳴のような声を張りあげれば、敵は戦慄し、味方は賛嘆と畏敬、歓喜に顔を輝かせた。
 戦闘が始まって一刻、敵は可動式のやぐらを持ちだしてきた。梯子をかけられたら、一気に乗りこまれてしまう。
「火矢を放て!」
 即時に部隊長が弓隊に命じるが、櫓はあらかじめ水をかけて湿らせてあり、そう易々と火が点かなかった。
「グレイヴ! 油樽はどうだ!?」
 ラギスが声を張ると、グレイヴははっとした顔つきで、すぐに部下に持ってくるよう命じた。
「十分に近づいてから、油樽を落とせ!」
 そうして敵の顔が視認できるほど近づくと、味方は必死の形相で油樽を櫓に投げつけた。
「火矢を頼むッ!」
 ラギスが叫ぶと、心得たようにアレクセイが進みでた。火の粉をまき散らしながら火矢が飛び、櫓に刺さった途端に、ごぉっと猛焔が立ち昇り、辺りを煙が包みこんだ。
「銃眼からも油を流せ!」
 グレイヴの指示で銃眼から熱した瀝青れきせい油が城壁の外へと零された。火傷を負った敵は、断末魔を叫びながら、塹壕ざんごうへと落下していった。
 城壁にも熱風が押し寄せ、味方は煤だらけ、たちま ち全身汗みずくになった。
 戦死者は既に五百を超えている。寄せる波は朱に染まり、深い塹壕にはネロア勢とアレッツィア勢の死体で瞬く間に埋まった。今や、山と積まれた死体を踏んで、塹壕をたやすく乗り堪えられる始末だ。
 四方を包囲された城塞は、至るところで、凄絶な防衛線を展開している。
 無数の穴の開いた丸盾をかざし、前衛を固守している味方の兵士は泣いていた。友が死んだのだ。死体はもう、胸壁の向こうへ落下している。
 彼は呪詛を撒き散らし、泣きながら、猛然と剣を振っていた。その背中を、三人のアレッツィア兵が斬りつけようとしている――
「下がれッ!」
 ラギスは背に味方を庇い、二人の敵を城壁の外まで吹き飛ばした。残った一人が、憤怒の形相で両手で剣を振りあげ、叩きつけるようにしてふりかぶった。
「おのれぇッ!!」
 ラギスは軽快に避ける。腕を掠めて血が噴きだしたが、意にも介さず、敵の腹に剣を突き刺した。
「がはッ」
 敵は膝をついた。悪態を吐き散らす男の肩をぐっと蹴りあげ、ラギスは剣を抜くと同時に、敵を城壁の外へ蹴落とした。梯子を登っていた幾人かが巻き添えをくらい、悲鳴と共に落下していく。
 死角から別の敵が躍りでてきたが、ラギスはそいつの首を片手で掴んで宙に浮かせた。
「ぐ、ひぃッ」
 敵は顔を紫色に染めて、瞳に恐怖を漲らせている。死にもの狂いで喉元を締める指を引きはがそうとするが、鉄の如しラギスの指に、頚静脈と喉笛を押し潰された。
「ぎゃぎゃっ」
 血の泡を吹いてこときれた敵を、ラギスは奈落の底へ放った。ぎらりと敵を見回す。
「次はどいつだァッ!」
 眼光鋭く血に飢えた怒りを咆えると、敵は恐れをなしたように後ずさりした。
 グレイヴは驚きを隠せなかった。アレッツィア兵が四人束になったところでラギスに敵するものではなく、しかも彼は味方を庇いながら、巨躯にあるまじき敏捷さで動く。
 ラギスの勇猛さに城壁の士気は高まったが、敵が対攻城の巨大な可動式連弩れんどを持ちだすのを見て、生唾を飲みこんだ。
「なんと巨大な弓だ。あんなものを打ちこまれたら、城壁が崩れ落ちるぞ……ッ」
 グレイブは蒼白な顔で呟いた。城壁から距離が開いているので、油樽も届かない。
 ラギスは迷った。いっそ城壁を飛び降りて、連弩を破壊してこようか?
「――お任せください」
 食い入るように見つめているラギスの腕に、形の良い指がかけられた。
「アレクセイ?」
 彼は落ち着いた表情で矢筒に手を伸ばし、城壁に足をかけると、威風堂々と大弓を引いた。
「おい、弓で連弩を壊す気か?」
 アレクセイはちらりとラギスを見ると、口角をあげて笑んだ。
「ええ。そのつもりです」
 ほっそりした肢体のどこにそれほどの力を秘めているのか、強い弓を極限まで引き絞った。
 矢が放たれる――朱に染まった矢羽の余映よえいが残った。閃光が空気を裂き、連弩の防御板に穿たれたごく小さな丸穴に命中、発射の軸となる仕組みを破壊した!
「「おぉぉッ!!」」
 神懸かむがかりの曲芸を目の当たりにして、味方はどよもした。
 五百歩は離れているであろう遠所から、発射装置のごく小さな関節を破壊したのである。
「ッ、すげぇな!」
 これにはラギスも思わず声をあげた。惚れ惚れするような弓の腕前だ。
「ありがとうございます」
 拍手喝采を浴びて、アレクセイは恥ずかしそうにほほえんだ。