月狼聖杯記

7章:過ちの代償 - 8 -


 寝台の上で、裸で絡みあうラギスとイヴァンを見て、水晶の瞳は怒りに燃えあがった。
「何をしているッ!」
 王は鋭い語気でいった。凍てついた重苦しい空気に押し潰されるように、イヴァンは片膝をついた。喉を手で押さえて、気迫になった空気に喘いでいる。
「何の用だ?」
 ラギスは困惑を隠しながら、折しく現れた王に冷たく吐き捨てた。シェスラの纏う空気、怒りに触れて、ぼんやりしていた頭から霞が徐々に引いていく。
「……何の用だと?」
 シェスラは可聴域ぎりぎりに低めた声を発した。鞘から剣を抜き、寝台に近づいてくる。
 重苦しい殺気がのしかかり、イヴァンの顔は苦しみに歪んだ。藍色の瞳は潤み、焦燥と恐怖が渾然こんぜんといりまじった、悲愴ひそうな輝きが増した。
 もはや震えるばかりの哀れな男を、ラギスは寝台の上から蹴飛ばした。裸のまま寝台をおりて、シェスラの視界からイヴァンを隠すようにして立つ。
「そこをどけ」
「何をする気だ」
「決まっている。私のつがいに手をだした報いを受けてもらう」
 怒りに燃える水晶の瞳は、氷のように冷たく、絶対的で抗えない、比類のない美しさだった。
 この場を支配しているシェスラをおいて他に、誰も動くことなどできなかった。彼は立ち尽くすラギスの身体を押しのけると、寝台の下で倒れ伏し、慄えている男の前に立った。
「覚悟はできているな」
 疑問符のない問いをシェスラは投げかけた。運命の最終通告に、イヴァンは青褪めた顔で唇を噛みしめ、
「あぁ、そんな! 私は聖杯の誘惑に抗えなかったのです。何卒お見逃しのほどを!」
 哀れっぽく声を震わせながらいった。ラギスは怒りを覚えたが、口を開くことは躊躇われた。シェスラは心底侮蔑しきった瞳で男を見下ろしている。
「残念だったな。故郷をアルセウスに売ったところで、お前は所詮捨て駒だ。ネロアにもアレッツィアにも居場所などない」
「誤解です! 私は故郷を売ってなどおりません! ネロアを守るために、危険を承知でここへやってきたのです」
 シェスラは嘲弄の薄笑いを浮かべた。
「いっそ感心する。ギュオーを瀕死においやっておきながら、よくそんなことがいえたものだな」
 イヴァンはぶるぶると震えながら哀願した。
「私ではありません! 私は危険が迫っていることを伝えようと、ここへやってきたのです」
「なるほど? ギュオーが血を流して生死を彷徨っている時に、お前は私のつがいを誘惑し、寝台の上で楽しんでいたというわけか」
「それは……あまりにも甘美な匂いで……大王様、何卒ご寛恕くださいませ。私はアルセウスに近づくことができます。必ずや大王様のお役に立ってみせます」
「黙れ。知りたいことは全て知っている。お前から聞きだすことは何もない。ギュオーから奪った指輪を渡せ」
 シェスラは表情を変えずにいった。イヴァンは蒼白な顔で俯き、やがて服のなかに手をいれて、握った拳をゆっくりと開いた。梟を意匠された指輪は族長の証である。シェスラは腕を伸ばして指輪をとり、意匠を確かめてから袖の内側へしまった。
「ギュオーに救われた命、無駄になったな。私は彼と違って甘くないぞ。公然たる忘恩行為、死を以て償え」
 慈悲の欠片もない瞳を覗きこみ、イヴァンは絶望の呻きを漏らした。
「指輪はお渡ししたではありませんか……っ」
「愚かな。指輪はギュオーのものだ」
 非情な声が静かに響く。ラギスは我慢ができなくなり、シェスラを睨みつけた。
「あんたは、何がしたいんだ? なぜ怒る? あんたが俺を差しだしたのだろう? この男に」
 一瞬、シェスラは動きを止めたが、次の瞬間には、白刃を閃かせていた。
「――ぁッ!」
 断末魔にもならぬ小さな悲鳴を最後に、イヴァンはこときれた。裂かれた咽喉をひきつらせ、自らの血の池に身体を横たえた。
(なぜ? なぜシェスラが殺した?)
 理解不能に陥り、茫然と立ち尽くすラギスの肩に、アレクセイは自分の上着を脱いでかけた。その時初めて、ラギスは部屋にシェスラ以外の存在、ラファエルや蒼白な顔をしたジリアンがいることに気がついた。
「……こちらへ。お身体を清めましょう」
 アレクセイにやんわりと背中を押されたが、ラギスは動けなかった。視線はまっすぐにシェスラを捉えている。
「なぜだ? なぜ殺した?」
「なぜだと?」
 シェスラは、己の聴覚を疑うように眉をひそめた。
「逆に訊くが、つがいにここまで手をだされて、私が制裁しないとでも思ったか?」
「ギュオーの息子だぞ!」
「それがどうした。私の目と鼻の先で、そなたをそそのかし、その肌に触れたのだ。情けをかける余地はない」
「殺す必要はなかったはずだ!」
「万死に値するが、そうだな……楽に殺してやるべきではなかった。ギュオーに免じて、拷問にかけるのをやめるとは、優しすぎたかもしれぬ」
 酷薄な笑みを見て、ラギスは怯んだ。
「シェスラ……」
 シェスラは刃を薙いで、血をはらってから鞘に納めた。絶句しているラギスをじっと見つめて、
「ラギス。なぜ裏切った」
 悔しげに唇を噛みしめた。
「この男の性根は、そなたも聞いていたはずだ。自領を顧みず、酒に耽溺し、弱い者を嬲るような男だぞ。追放された腹いせにアルセウスに寝返り、ギュオーを殺そうとした。彼は瀕死の重体で生死を彷徨っている」
 未だ困惑しているラギスの顔を見て、シェスラは怒りの籠った、悲痛な目で睨んだ。
「そのような男の言葉に耳を貸し、私が本気でそなたを差しだしたと信じたのだな」
 ラギスはだらんとした腕の拳を握りしめ、波打つ心を鎮めようとした。
 思考が明瞭になるにつれて、自分の冒した行動が酷く奇妙に感じられた。なぜ、イヴァンのいいなりになってしまったのだろう?
 全てがラギスの早合点だったことは、シェスラの過激で冷酷な行動が証明している。つがいに触れた相手を制裁するために、それが同盟を結ぼうとしている領主の息子であると知っていながら、一遍の躊躇もなく剣にかけたのだ。
「弁明くらいしたらどうだッ!」
 沈黙に業を煮やしたシェスラが声を荒げた。ラギスは情けなくも耳を伏せ、視線を伏せた。今ほど己を惨めでちっぽけな存在だと感じたことはない。
 冷え冷えとした部屋はまるで氷室のようである。誰もが王の悋気に怯んでいる。
 その時、戸口にラハヴが現れ、部屋の惨状を見るなり真っ青な顔で平伏した。
「も、申し訳ありません……ッ」
 悲痛な声でラハヴが謝罪した。
「ギュオーは?」
 シェスラの問いに、ラハヴは苦悩の表情を浮かべ、唇を戦慄わななかせながら答えた。
「モルガナがついております。まだ意識は戻っておりません。これから高熱が続くでしょう」
「次男は永劫に追放したのではなかったか?」
 痛烈な皮肉に、ラハヴは肩を震わせた。
「……返す言葉もありません。一族に伝わる、地下の迷宮から忍びこんだのです」
「他に余計な者が知っていないか早急に見直せ。見つけ次第始末しろ。二度と私のつがいに、不穏な輩を近づけるな」
 シェスラは平伏する兄弟を睨みつけたあと、剣呑な目をラギスに向けた。
「そなたは何をいわれて、私を裏切ったのだ? いってみろ」
「……イヴァンは、あんたの命で、ペルシニアの間諜をすると話していた。ネロアにはまだ秘密があると――」
「私がこの程度の男に助力を求めると、本気で思っているのか?」
 峻烈な眼差しを向けられて、ラギスは口を噤んだ。冴え冴えとした美貌には、厳しい非難の色が浮かんでいる。
 もし、全てシェスラのいう通りならば、大変な過ちを犯したことになる。王を動揺させ、その手で交渉相手のせがれを斬らせてしまった。ラギスの軽率さが無益な血を流させたのだ。
「……違ったのか」
 言葉は虚しく響いた。冷たい恐怖が押し寄せ、ラギスはきつく眉根を寄せた。
 シェスラは苦虫を潰したような顔をすると、ラハヴに視線を向けた。
「続きは後にしてもらおう」
「仰せの通りに。縁を切ったとはいえ、我が兄弟がご面倒をお掛けして誠に申し訳ありませんでした……ッ」
 悲痛な謝罪をシェスラは無言で聞き流し、ラギスの腕を乱暴に掴んで部屋をでた。
「おいっ」
「ついてこい。身体を洗え」
 嫌悪の滲んだ声に、ラギスは己の汚れた身体を恥じた。無言で後ろに従い歩く。
「……ギュオーに何があった?」
 ラギスが訊ねると、シェスラは前を向いたまま口を開いた。
「イヴァンに腹を刺された。血が流れすぎて、助かるかどうか判らん」
「なんてことだ」
 ラギスは呻き、躊躇いがちに続ける。
「……イヴァンの目的は、」
「アルセウスに寝返った犬が、状況を探りにきたのだろう。書斎に争った痕跡があった。結局は、追放したギュオーに腹いせしたかっただけかもな」
 そこで言葉を切ると、シェスラは足を止めて冷たい目でラギスを見た。
「ようやく私を信じる気になったか?」
 ラギスは強張った顔で見つめ返した。何をいえばいいのか、言葉が見つからなかった。数秒ほど重苦しい沈黙が流れ、シェスラは視線を外して歩き始めた。姿勢の良い背中が、一切の返答を拒んでいた。
 寝室に戻ると、ラギスは自ら浴室の扉を開いた。床を覆う、蒼と緋色の菱形模様の床上に、真鍮の桶が置かれている。
「少し待て。湯を用意する」
 シェスラの指示に、ラギスはかぶりを振った。
「……水でいい」
 そういって桶に入ると、水差しを持ちあげて身体にかけようとしたが、顔面に寝室用の羽織を投げつけられた。杓子から手を離してシェスラを見る。
「湯の方がよく落ちる。いいからそれを着て待っていろ。これ以上、私を煩わせるな!」
 大股でシェスラは浴室をでていった。一人取り残され、ラギスはこの上なく惨めな心地を味わった。所在なく桶の中で立ち尽くしていると、間もなく部屋の外からジリアンの声が聞えてきた。入ってくるかと危惧したが、シェスラは自ら湯浴みの準備を指示しているらしい。
 やがて、幾人もの召使が湯と水の入った壺を持って現れた。入浴にちょうど良い湯が溜まるまで、代わる代わる桶に注いでいく。仕上げに硝子瓶から液を垂らすと、仄かな檸檬の香りが漂った。
 湯浴みの仕度が調うと、シェスラは自ら袖をまくりあげ、麻布を手に取った。ラギスはそれを掴もうと手を伸ばした。
「自分でやる」
 麻布をとろうとしたが、さっと躱された。
「いいから、後ろを向け」
 ラギスが黙って背を向けると、シェスラは淡々とした手つきで洗い始めた。家畜を洗い清めるような、何かの作業のように、ただ黙々と手を動かす。だが正面に回り、首筋に湯をかけたところでシェスラは動きを止めた。
「何だよ……」
 ラギスが呼びかけても、一点を凝視したまま反応を示さない。首筋に何があるのかと思い、閃いた。あの男に吸いつかれた跡が残っているのだろう。
 決まり悪げに視線を逸らすラギスに構わず、シェスラは無言で手を動かした。神経質なほど、念入りにラギスの身体を清める。
 黙って受け入れていたラギスだが、延々と繰り返される行為に辟易して、とうとう口を開いた。
「……もう十分じゃないのか?」
 シェスラは針のような目でラギスを射抜き、不平を黙らせた。服を脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿でラギスの前に立つと、青い冷光をたたえた瞳で睥睨した。
「跪いて、しゃぶれ」
 ラギスは息を呑んだ。顔にさっと怒りを浮かべたが、すぐに苦悩と罪悪感で強張った。有無をいわせぬ王の覇気に促されるようにして、ゆっくりと膝をついた。